1. 水瀬 潮

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1. 水瀬 潮

毎年、俺の誕生日にプロポーズしてくる親友がいる。そいつは俺の妹と付き合っている。 「お前さ、それめちゃくちゃカスだからな?」  例の如く、今年もプロポーズしてきた親友に言ってやる。ここまでが毎年の恒例だ。目の前の男は、全く悪びれずにヘラヘラしている。今年も振られちゃったな、なんて言って。これも毎年のことだ。 「蒼空(そら)さぁ……」  ここで俺はいつも言葉に詰まる。なんて言ってやればいいか、わからなくなる。親友──天野 蒼空は言い淀む俺を見つめて、じっと待つ。  本気か? とは聞けない。この男が本気で言ってるなんてことは、流石にこう毎年言われ続ければわかる。  なんで? とも聞けない。俺はなんとなく、蒼空の気持ちが分かるからだ。  だから、俺はいつも適当に流してしまう。天然だよなー、お前ってホント。天然といえば、そういえばこないだの女さ……。なんていう具合に。その度にこいつは落胆したような顔をしながら、なんとなくほっとしたように息をつく。  でも、そろそろこいつのこれにも、ケリをつけてやらなければならない。  俺はじっとこちらを見つめる親友の目を、じっと見つめ返した。硝子みたいな目だ。純粋で無垢で、それでいて意志を強く感じさせる。こいつの瞳に俺の目は、どんな風に映っているんだろう。……おそらく、俺の想像通りだろうな。こいつは俺のことが大好きだから。 「蒼空はさ、(なみ)のことめちゃくちゃ好きだろ」  波っていうのは、俺の妹だ。俺の名前は(しお)。ちなみに苗字は水瀬だ。別に海沿いの街で生まれたとか、そんなことは全くない。  可愛いくない妹だ。顔も性格も俺にそっくり。そもそも双子だし。でも、兄妹仲は良い方だと思う。二人で出かけたりよくするくらい。  蒼空と波は、俺を通じて親しくなり、ごく普通に惹かれあって、ごく普通に付き合い出して、ごく普通に愛し合っている。なんの面白みもない、どこにだっているカップル。でも、どこのカップルよりも幸せなカップルだと思う。  蒼空は俺から目を逸らさずに、こくりと頷いた。 「大好きだよ。愛してる。……当然でしょ」  だろうな。俺はこのカップルのことについては、当人たち以外の誰よりも知っていると思うが、(なにせ、十四年来の親友と双子の妹のカップルだ) こいつらは紛うことなく愛し合っている、と自信を持って言える。  だって、俺は幾度となく聞いたし、目にしたのだ。この男が愛しさを持ってして女の名前を呼ぶ声を、愛する女に触れる時、硝子のような目がこの世の美しいものを全て詰め込んだような光を持つ様を。大切なものに触れる時の、指先の臆病さを、優しさを。恋する男の激情を。  だから、この親友の恋人への愛情は本物であると、俺は知っている。 「だよな、そうじゃなかったら流石に殴るわ」  俺は軽く笑いながら言った。  そうなんだよなぁ。真っ当に愛し合っている恋人がいるのに、男の親友にプロポーズする。字面だけみたら、こいつの所業は正にゴミカスそのものなんだが。  蒼空はでも、とため息混じりに呟いた。少し言い淀んで、この状況の中で初めてこいつの方から目を逸らした。 「潮は僕と……結婚すべきだと思うから」  だから、パートナーになって欲しいんだ、と蒼空は続けた。  蒼空は再び、俺の目をじっと見つめた。その目には、なんとも言えないじっとりとした熱が篭っている。波に向けられる熱とは全く違った種類のものだが、この男の熱は、俺の中のどこかを優しく温めて、まとわりつくようにぬるい火を灯そうとするのだ。それは、激情というよりは、六月の暖かい日のような、湿度の高い熱だ。  俺はふーと大きく息を吐いた。蒼空の目から目を逸らして、天井を見つめる。ファミレスのやけに攻撃的な点灯の光で目が歪んだ。  正直、いつものように逃げてしまいたい。  このまま、この曖昧なままで、この男がくれる穏やかな熱で温められたぬるま湯に浸かっていたい。  でも、そろそろこいつの思いに答えてやらなくてはならない。蒼空は本気なのだから、俺の方も本気で。そしてそれは、今年であるべきだ。  この男が俺に求婚し始めて今年で十年目の節目で、かつ、こいつはこの春、俺の妹と入籍することが決まっているからだ。    ***    こいつがこんなとち狂ったことを言い始めたのは、たしか高校二年の時からだったと思う。もっと細かく言うと、俺の十七歳の誕生日。  そんなめでたい日のちょうど一週間前に、俺は泣いていた。 「潮、潮……。泣かないで、……いや、やっぱり好きなだけ泣くといいよ」  蒼空はずっとそばにいて、俺の背中を摩ってくれた。手は生温かかった。優しい熱が、俺の背中をじんと温めてくれた。 「潮、大丈夫だよ、元気だして。……いや、そんなにすぐに元気出るわけないよね。元気出さないで、潮」  蒼空は慣れない状況に困惑しすぎて、終始訳の分からないことを口走っていた。それでも、口下手ながらも一生懸命に俺を元気づけようとしてくれていた。  誕生日直前の日にこっぴどく振られた俺には、その不器用な優しさがやけに温かく沁みた。  俺は目から大量の塩水を垂れ流しながら、蒼空が訳の分からないことを言う度に、何言ってるんだよお前、なんて言って笑おうとしたが、上手く笑えずにより一層不細工な顔を晒していたと思う。  彼女と対面していた時、不細工に歪みそうになる顔の表情筋を必死の思いで殺した反動が来たのか、表情筋が壊れて全く俺の言うことを聞いてくれなかったのだ。  好きだった。ガキなりに本気で。  馬鹿なガキだった俺は、彼女の方もそうであると疑うことは無かった。だけど、彼女の方は俺と本気でレンアイする気など毛頭なかったらしい。  そういえば来週誕生日なんだよな、なんて、祝ってくれたら嬉しいなという思いで口にした。馬鹿な俺は、じゃあお祝いしなきゃね、と言って笑ってくれることを疑いもしなかった。  まさか、じゃあプレゼント渡すのとかだるいし別れようか、なんて返されるとは夢にも思っていなかったのだ。  そうして俺は、誰よりも惨めたらしく失恋した。  いつもと全く変わらない様子で笑う彼女に対して、俺は終始真顔だったように思う。あまりの彼女と俺との想いの差に、何か言って縋ることは俺のプライドが許さなかった。  悲しいと言うより、とにかく惨めで死にたくなった。勘違いしていた自分が恥ずかしかった。自分なんて誰からも好かれないんじゃないか、とも思った。  それからはあまりよく覚えてないが、とりあえず泣きながら蒼空に電話したような気がする。  蒼空はいつの間にか俺の部屋にいて、ずっと傍にいてくれた。    それから一週間、俺は学校に行かなかった。いや、行けなかったというのが正しい。  泣き腫らして眠れなかったその日の翌日、やけに身体が怠くて、食べ物が喉に通らなかった。殆ど眠れてないから当然か、ととりあえず学校に休みの連絡を入れた。  一日しっかり寝たら治るだろうと布団に入ったが一向に眠れず、翌日になったら発熱していた。  熱は下がらないし、眠れないし食べれない。これはまずいな、と思ったが寮に一人暮らしの俺はとにかく布団に入ってじっとしているしかない。そうしていたら、一週間が経っていた。  蒼空からは毎日のように、お見舞いに行きたい、という旨の連絡が届いていたが、大したことないから来るな、と突っぱねた。あんなに汚く泣き喚く姿を晒しておいて何を今更という感じだが、これ以上惨めな姿を見せたくはなかったのだ。  いつも威張って蒼空を引っ張ってやってるつもりでいたのに、どう考えても心因性のものでここまで弱っている姿を晒したくはなかった。しかも、失恋なんかで。  蒼空は何度も俺の部屋の前まで来てくれたが、これも勤めて明るい声を出して追い返した。全然元気なんだけど熱下がんなくてさ、完全に風邪だけど休めてラッキーだわ。なんて言って強がって、食い下がる蒼空を絶対に部屋には上げなかった。  だが結局、部屋に篭って一週間目、ちょうど俺の誕生日の日に、蒼空はついに俺の部屋に突入してきた。  その時の蒼空の顔は、未だにはっきりと覚えている。その時期の記憶で、一番鮮明なものだ、彼女だったはずのあの子の顔よりも。  だって、呆気に取られてあんぐりと口を開けていたのが、あまりにも間抜けだったんだ。  でもまあ、そんな反応になるんだろうな、とは思う。その時の俺は、死にたてのゾンビみたいな顔だったから。 「そらぁ……、なんだよその顔……」  俺は確か、そう言ったのだったと思う。もう少し口が回っていなかったかもしれないけど。  蒼空はハッとした顔をして、俺に詰め寄った。 「潮、こんなにやつれて……! なんで言ってくれなかった!? いや、僕が、もっと君を……」  ついには自分を責め始めたから、俺は蒼空の袖を引っ張ってこちらに引き寄せた。  随分久しぶりに会うような気がしていた。蒼空はその優しげな垂れ目を辛そうに歪めて、俺の頬に触れた。  馬鹿、汚いから触るなよ、洗ってないんだから。そう言うとしたが、言えなかった。蒼空があまりにも辛そうな顔をするから。馬鹿だな、お前が振られたわけでもないのに。俺よりもしんどそうな顔するなんて。 「潮、潮、全然ご飯食べてないよね、もしかして眠れてなかったんじゃない……? 潮、ごめん、そばに居てあげられなかった」  だからお前は悪くないってのに。ってかなんで来ちゃうかな。こんなのすぐ治るし。みっともないところ見せたくなかったから追い返してたのに。  言いたいことは何一つ口にできなかった。代わりに、不思議と涙だけが溢れた。  あの日に出し尽くしたと思っていたのにまだ出るか、と少し感心してしまったのを覚えている。あまりに自分が女々しくて、泣きながら笑ってしまったのも。 「潮、泣かないで……」  蒼空はより一層辛そうな顔をして、俺を強く抱きしめた。綺麗とは決して言えない塩水が、蒼空の制服をじわりと湿らせた。蒼空の体温だ。温かい。惚けた脳みそでんなことを思った。 「ごめんな、そらぁ……。俺全然辛くないんだ、ほんとだぞ……」  もはや、なぜ泣いているのかもわかっていなかったと思う。彼女を失ったことが、何度も泣いて衰弱するほど辛いものだとは思えなかった。  今思えば、ガキだった俺は好きだった女一人から拒絶されただけで、まるで全人類から突き放されたような心地になっていたのだろう。勝手に孤独になった気になって、自分に酔っていたのかもしれない。  当時、トランプタワーのように高く積み上がっていたプライドが根元から崩れて、お前なんて誰も好きにならない、と有象無象から言われているような気さえしていた。  でも、嗚呼。蒼空が、まるで俺の哀しみを共有してくれるように、あまりにも必死に俺を強く抱きしめるから。その体温があまりにも温かいから。  俺には蒼空がいるのだ。蒼空だけは、俺を突き放さないでそばに居てくれるかもしれない。たとえ全人類に嫌われようと、蒼空だけは俺のことを愛してくれるかもしない。  体調不良と思い込みでぐちゃぐちゃになった思考で、確かに俺はそう思った。 「もう大丈夫だよ、ほんと……。ありがとな」  蒼空が居てくれてよかった、なんだか気恥ずかしかったから、耳元でそっと囁いた。  いつもは絶対にそんなことは口にしない。お互いを必要としながらも、わざわざ言葉にして表したりはしない、それが男の友情なのだ。当時の俺はそう思っていた。  だけど、どうしても感謝を伝えたかったから。小さな声で忍ぶように言った。 「潮、そうだよね……。僕も潮にはそばに居てほしいよ。……うん、そうだ。こうすればよかったんだ」  蒼空は一人で勝手に納得し始めた。なんだか変な方向に突っ走っているんだろうな、と思いながらも俺はひとまず放っておいた。  この親友は、基本的には気弱で優しい性質だが、思い込みが激しく頑固なところがある。だからこの男の思考は、思いもよらない方向性に帰着することがままあったのだ。その度に俺が冷静なツッコミを入れるのが常だったのが、この時にはそこまでの余裕はまだなかったのである。正直高熱に寝不足、空腹で意識を保っているのがやっとだったし。  だが、流石の俺も、蒼空の突飛な発想には呆気に取られずには居られなかった。まさか、そう来るとは夢にも思わなかったのだ。 「……潮、僕たち結婚しよう」  その時確かに、蒼空の硝子のような目には、熱が篭っていた。燃えるような熱さじゃない、優しく俺の心を温めるようなぬるい熱が。 「え、おま、……は?」  その時俺は蒼空に、なんて言ったんだっけ。  とにかくこれ以来、蒼空は俺の誕生日に、律儀に男の親友に求婚し続けるようになったのである。それは、八年前に俺の妹と交際を始めてからも、この十年間、決して欠かされることはなかった。    ***   「お前ってさ……、律儀だよな」  十年前の思い出から振り返ってこの男の気狂いの発端を思い出すと、やはり出てくる感想はこれだった。  この男の律儀さと優しさと、そして俺への深い友愛が、十年間もこいつ自身をゴミカスたらしめたのだ。蒼空は一度約束したことは必ず守るし、優しすぎる。そして、俺のことが大好きすぎた。それは紛うことなく、友愛以外の何ものでもなかったけれど。 「律儀……なのかな、よくわからないけど。僕は自分がそうしたいから言っているだけだよ」  ほらまた、そんなこと言って。お前は自分の言動が世間にどう映るかもう少し考えてから行動するなり言葉にするなりするべきだ。今の発言はどこからどう見てもクズだった。俺は全部分かってるから許すけど。でも俺が許しても世論が許さないぞ、世論が。・・・・・・あと、波も。あいつは怒ると怖い。 「いや、律儀だろ。・・・・・・十年前の約束なんて、普通はもう無効だろうよ」  そう、無効だ。無効にしてくれ。そうしてくれたなら、学生時代の黒歴史として笑い話に出来たのに。そんな思考に至る俺は狡い奴かもしれないけど。 「潮、そうじゃないよ。そういう・・・・・・約束したからとかじゃない。・・・・・・上手く言えないけど。潮、僕の話を聞いて」  分かってるよ。何も俺だって、今更引けなくなったってだけでこんなに長い間求婚してきたなんて思ってない。でも、そうであったらいいな、と思っただけで。  それにしても、と思う。こいつ、変わったなぁ。  蒼空は昔から純粋で真っ直ぐな男だったが、言葉足らずで損をするタイプの人間だった。何を言うにも、補足という言葉を知らない。  たまに不思議な事をしてもきちんと補足というものをしないから、(本人は至ってしっかりと思考した上で、適切と考えた行動をしているつもりだ)よく要らぬ語弊を招きかけていた。そういう時は、俺が蒼空の意図を察してフォローを入れてやるのが常だったのだ。  でも、こいつはしっかりと自分の意図を伝えるようになった。口下手すぎて何を言いたいのかイマイチ釈然としないが、自分の思いを他人に届けようと努力するようになったのだ。  これは一重に、波のおかげだと思う。蒼空は波という女性と恋をして、大切な人に思いを届けようとするなら、言葉にしないと伝わらないということを知ったのだろう。  蒼空の周りにいるような人間は、付き合いの長さでこいつの言わんとすることが言葉にせずともわかることが多かったから、俺のように。  そもそも、男同士の付き合いとはそういうものだ。お互いいちいち言葉にしたりしないで、空欄の部分は自分で埋める。  俺はそう思っていたから、蒼空の言葉たらずを指摘してこなかった。それは結局、俺はこいつのことがわかっている、という自己満足に浸りたかっただけだったのかもしれない。  だから、蒼空には波であるべきだ。 「・・・・・・聞くから。ゆっくりでいいよ」  俺は蒼空の言葉を促してやる。そしたら、のんびり待つのが大切だ。こいつと話す時、急かしては駄目なのだ。急がせたら、蒼空のやつは訳の分からない理論を持ち出してくるから。  だからいつも言ってやるのだ。ゆっくり話せよ、俺は待つから、と。  蒼空は目を伏せていた。そして、じっくりと思いを巡らせた結果結論が出たのだろうか、やがて顔を上げて俺の目をしっかりと見つめ直した。  俺は眉を下げて、発言を促してやる。  分かってるだろ。俺はお前のことなら、なんでも受け入れるから。 「あの時。潮、覚えてる・・・・・・と思う。でも、あまり・・・・・・思い出したくはないかもしれないんだけど」  こいつの言う、あの時、はすぐに分かった。馬鹿だなお前、十年前の失恋なんて、流石にもういい思い出だよ。相手の顔も思い出せないし。・・・・・・それにあれは、初彼女との、というより、お前との思い出だったよ。 「高二の時だろ。俺が初めての彼女にひっどい振られ方したやつ」  あまりにも言いにくそうにするから、助け舟を出してやる。  蒼空はやはり、こくりと頷いた。 「あの時、なんて言うのかな・・・・・・。潮は、思ってたより弱いんだって思った。悪い意味じゃなくて。潮はいつだって僕のことを助けてくれていたから。潮は・・・・・・泣いたりとかしないんだって思ってたんだ」 「おう、そうか」  まあそうだろうな、とは思っていた。あの時、俺が蒼空の腕でみっともなく泣き喚いた時以前は、蒼空からの憧れの熱が含んだ視線をよく感じていたのだ。それがあの時以来、もっと温かい、柔らかい熱に変わった。それは酷く・・・・・・心地よいものだったけれど。 「うん、・・・・・・ねぇ、潮はさ、結婚とかする気ないって言ってたよね」 「・・・ん? まあ、そうね」  急に風向きが変わった。蒼空の話にはまあよくあることだけど、想定もしていなかった方向に話が飛んだから、一瞬面食らってしまう。  たしかに、そんな類のことを言ったことはある。でもそれは、決して高校時代の苦い失恋がトラウマになっているから、なんて理由では無い。そんな引き摺ってないし。  あれから一応、何回か女性と恋愛をする機会には恵まれた。お互い淡い恋心程度で終わったこともあったし、恋を超えて愛に昇華するほど深く付き合ったこともある。  でも、そのいずれも、蒼空と波のように、お互いを生涯のパートナーにしようとするまでには至らなかった。どうしても、そんな気にはなれなかったのだ。多分、お互い。  そしたらまあ、俺も割ともういい歳だし。そこまで至るのを期待して相手を探すのも面倒だ、と思ってしまった。疲れるし、女の相手は何かと煩わしいことが多いし。 「それがどうかしたか?」 「それで、だから・・・・・・、潮には僕しかいないんじゃないか、と思って。・・・・・・いや、違うな。そうじゃなくて」 「いいよ、ゆっくりで」  蒼空は一度深呼吸して、ゆっくりと手元の水を飲んだ。  こいつの言葉は時間がかかるだけ、ずっしりと重い。俺も休憩が欲しかった。 「あの時、泣いてる潮を抱きしめた時、あんまりにも潮が小さくて細くて、僕の腕の中にすっぽり収まるから・・・・・・、だから。いや、あの時はご飯食べれてなくて痩せてたからなんだけど。でも、その時僕は、潮にも支えてくれるような人が必要なんだって思った。今思えば当然なんだけど。それまで僕は・・・・・・潮は一人でも歩いて行ける人だと思ってたんだ。でも、潮にも弱い部分があって・・・・・・、お互い支え合って一緒に歩いていけるような人が居ないと駄目なんだって気づいて。・・・・・・そしたら僕は」  蒼空は一度言葉を切って、じっと俺を見た。生暖かくて、でもどこか切ない、そんな目で俺を見た。 「そしたら、その相手は、潮とずっと支え合って生きていけるような相手は、僕がいいって思った」  あまりにも重い、重すぎる友愛の告白だった。  だが、蒼空の語ったことは、ほとんど俺の想定していた通りだった。こいつは本気で、一生俺のそばに居る気でいる。だからこそ俺は、この親友を突き放さなくてはならない。 「・・・・・・お前の言いたいことはわかったよ。でもお前、それでもし俺とパートナーになったとして、波のことはどうするつもりだ?」  蒼空は間髪入れずに答えた。 「それは三人で支え合っていけばいい。波と潮は仲が良いし、・・・・・・三人で生きていけばいいよ」  まあそのつもりだろうな、とは思っていた。  この男が、結婚を誓い合うほど愛し合った女を袖にするなんて有り得ない。俺と波、蒼空はどちらも大切なんだろう、愛情の種類は違えど。  その証拠に、蒼空はことある事に波とのデートに俺を同行させようとしたし、逆に俺との遊びに波も連れてこようとした。俺は別に、それでも良かったけど。  でもお前、気がついてないだろ。波は楽しそうにわらいながら、俺が現れた瞬間にほんの一瞬顔が曇るのも、俺と蒼空がじゃれ合っていると無意識に俺の事を睨むのも。  あれは悋気だ。そんなこと有り得ないと思いつつも、彼氏を兄貴に取られるかもしれない、そんな不安が深層心理では常に孕んでいる。  お前にはわからんだろうけどな。俺にはわかる。血を分け合った兄妹だからだ。  だから、そもそも駄目なんだよ。お前のそれは。俺だってごめんだ。そんな関係、初めは何とか成り立ってても、いつかは歪んでぐちゃぐちゃになる。 「馬鹿だな、そんなの出来るわけないだろ」  俺がそう言うと、蒼空は眉を歪めて、きゅと目を縮めた。なんで分かってくれないんだ、とでも言うように。 「出来るよ、出来る・・・・・・。三人で平等に支え合えばいい。潮と波は双子なんだし」  三人で平等に? 冗談じゃない。 「お前そりゃ、傲慢ってもんだよ。波を自分のモノにしておきながら、俺も手に入れたい? そんなのは無理だ」 「違うよ、そういうんじゃない・・・・・・、潮。僕は、潮も、波も・・・・・・」  俺も、波も、好きなんだろ。種類は違うけど、想いの強さは拮抗している。だから、どちらもそばに置きたいんだろ。わかるよ、お前のことなら。  でも、平等に大切にするなんて、無理だ。同じ土俵に上げてしまったら、必ずどちらかに軍牌が上がることになる。  そして俺は多分、いや絶対・・・・・・波には勝てない。 「なあ、蒼空。俺は友達の中では蒼空が一番好きだし、一番信頼してるんだが、お前はどうだ?」  俺も蒼空を見習って、突然話を飛ばしてみることにした。  蒼空は一瞬キョトンとしたが、すぐにその頬は喜色に染まった。さっきまであんなに険しい顔をしてたくせに、可愛い奴。 「僕も・・・・・・! 潮が一番に決まってる。嬉しい、いつもそんなこと言ってくれないのに、潮」  まあ、友情を拗らせすぎて求婚するくらいだからな、他に一番がいたらビビる。 「だよなぁ。じゃあお互い一番同士だし、俺たち両思いだよな。・・・・・・それで良くないか?」  そうだよ、それでいいんだ。波と同じ土俵に立つと俺は蒼空の一番にはなれない。だったら、友達がいい。友達の中という枠組みの中であっても、蒼空の中では一番でありたいんだよ。  蒼空は何度かまばたきをして、くしゃと顔を歪めた。 「潮、でも友達のままだったら・・・・・・」  たしかに、友達のままだったら一緒には生きていけないだろうな。ふとした瞬間に交わることはあっても、全く同じ道を歩くことはない。  でも、ずっとそばに居ることはできるだろ? 「友達のままで、ずっと一緒にいよう? お前が波と結婚したら、俺たちは家族だ。嫌でも離れられないだろ」  蒼空は悲しそうな顔でこちらを見つめる。反論は出来ないだろう。でも、こいつの本意ではないんだろうな、納得できなさそうな顔をしている。 「・・・・・・でも僕は潮の一番でありたい。他の誰かと一緒に歩いてほしくはないんだ」  俯いて、熱の孕んだ声で吐き出された。  熱烈だな、こちらまで恥ずかしくなる。  いつも人のことばかりのこいつがこんなにも傲慢に俺を求めてくれるのなら、応えてやりたいという気持ちになってしまう。  でも、駄目なのだ。俺は波のことも愛してる。波はお前だけが欲しいんだよ、そこに俺が入り込んではいけない。  分けるべきなんだ。性愛も家族愛も、友愛も。 「でもお前、俺をお前の一番にしてはくれないんだろ?」  蒼空ははっとしたように顔を上げて俺を見た。その目に宿る生暖かい炎が、初めて揺らいだ。 「お前がいくら平等に俺と波を愛そうと努力しようと、お前も世間も、波を優先するよ。世間では男と女の組み合わせがマジョリティなんだよ、わかるだろ。いつかお前と波も、子供を作るだろうなぁ。そうしたら俺は」  そうしてたら俺は、邪魔者だ。お前も波も、俺を疎ましく思うようになるよ。  そんなことになったらもう、全部台無しだ。俺たちの楽しかった記憶も、優しい思い出も、全部がおぞましいものに変わる。そんなのは御免だ。  蒼空はもはや何も言わなかった。蒼空と波と俺と、三人で生きる未来を初めてきちんと想像したんだろう。そして、俺の言うことを否定出来なかったんだろう。気づいたんだろう、自分の残酷さに。だったら、それが答えだろ。 「大好きだ、蒼空。友達として。・・・・・・そしたらずっと、一緒にいられるよ」  蒼空は何も言わずに、こくりと頷いた。俺もそれを見て、強ばっていた頬を緩めた。  こいつはもう、俺に求婚することは無いだろう。そういう確信があった。  ごめんな、蒼空。お前はお前なりに、友愛を貫こうとしたんだろ。でも、俺も波も、この三人の関係をそんなに歪んだものにはしたくないんだ。それだけだ。  だから、お前は悪くないよ。  なあ、でも蒼空。俺は一つだけお前には言えないことがある。  俺はな、蒼空。お前が俺にそっくりな妹の波を結婚相手に選んだとき、心の底からほっとしたんだ。それは単に、蒼空と名実ともに家族になれるから、なんていう可愛い理由じゃない。  お前がもし波以外の女を選んだら、俺はお前と相手の女との関係をぐちゃぐちゃにしてやりたくなって、お前の求婚を受けていたかもしれないな。そんな醜い執着を、お前に抱いているよ。  お前が他の誰かをその硝子みたい目に熱を孕ませて愛するなんて、考えるだけで狂いそうになる。この熱は俺のものだ、とめちゃくちゃに掻き回してしまいたくなるだろう。  でも、波ならいいんだ。だって、波は見た目も性格も、本当に俺にそっくりだから。波を選んだってことは、俺を選んだことと殆ど同じだから。  ふと考えることがある。女になりたいなんて思ったことは一度もないけれど、もし、俺が女だったら。俺と波という兄妹が、姉妹だったら。  そしたらお前は、波じゃなくて、俺を選んだはずだ。他の誰もパートナーの席に座らせようとはせずに、俺だけに恋して、俺だけを愛して、俺だけをそばに置いたはずだ。  だから、いい。俺は蒼空と波の結婚を、心の底から祝福しているよ。 「なぁ、蒼空」 「・・・・・・うん」 「ちょっと早いけど、結婚おめでとう」  蒼空は一瞬だけ顔を歪めて、それでも緩やかに頬を緩める。やがて、誰よりも幸せそうな男の顔になった。 「潮、ありがとう」  硝子みたいな目の奥、俺をじんと温めた生温い炎は、ゆらゆらと揺らいだ。やがてこの炎も、消えるだろう。それはきっと、喜ばしいことだ。  嗚呼、でも。ぼんやりと思った。  この温かさが永遠に誰かのものになるっていうのは、ほんの少しだけ堪えるかもしれないな、と。  
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