2. 天野 蒼空

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2. 天野 蒼空

 十四年来の親友にプロポーズしたら、見事に振られた。ちなみに僕は、その親友の妹と婚約している。 「やっぱり、カスだったかなぁ・・・・・・」 「何が?」  しまった、声に出てた。目の前で怪訝そうな顔をしている恋人の頬を軽くつついて誤魔化す。 「ちょっと、何よぉ」  波は鬱陶しいそうに顔を降って僕の指から逃げたが、よく見たらその口元は緩んでいるし、文句を言う声は笑い混じりで震えている。  素直じゃないんだよな、可愛い。  波はそういうところ、潮に似ている。僕はよくじゃれて潮の頬を摘んだりするが、潮はいつもやめろ馬鹿、なんて言って笑うのだ。  潮は僕の親友で、波は僕の恋人、かつ潮の双子の妹でもある。  こう言うと、僕らの関係は少し複雑に見えるかもしれない。でも、そうでも無いはずだ。  潮は僕の一番の親友で、波は僕の唯一の恋人。  僕は潮を通して波に出会って、僕らはごく普通に引かれ合い、ごく普通に交際を始めて、ごく普通に愛し合っている。  僕と潮は特別に仲が良い友人同士で、僕らはお互い信頼し合い、尊重し合って、ごく普通に親しい人間関係を築いている。  それなら、なぜ僕が潮に求婚するようなことが起こるのか。たしかに、おかしいとは自分でも思う。  でも、そうするしかないと思ったのだ。  僕は潮の一番の存在で在りたかったし、潮が誰かと手を取り合って歩むことがあるのなら、その相手は僕であって欲しかった。 「蒼空、結婚式なんだけど、白無垢とドレス、どっちがいいと思う?」  波が僕にもたれ掛かりながら、ウェディング情報誌を見せてくる。  波がこんな聞き方をしてくる時は、彼女の中では大体答えは決まっている。それなのに僕に意見を求めるというのは、要するに試されているのだ。  私の事分かってる? そういったところだろう。  波はこっちがいいと思うよ、と僕が彼女の求める答えを言ったら、この恋人はこの上なく嬉しそうに頬を膨らませるのだ。  その度に僕は答えに迷いながらも、彼女への愛おしさが募るのだ。  実は波のこういうところも、潮に似ている。潮もよく、僕を試そうとする。  彼は僕になんでも選ばせようとするが、彼の好みを言い当ててやると、ふーんと言って頬を緩ませるのだ。僕はその顔が見たくて、いつもつい彼の好みに合わせてしまう。  僕は波とウェディング情報誌を交互に見た。  波の衣装ケースの中身を思い出してみる。スカートが多い。だが、波は気合いの入った日こそ、フリフリとした派手なものよりも、白くてシンプルなもの選ぶ。 「うーん・・・・・・、白無垢かな? もちろん、波はどっちも似合うと思うけど。僕は白無垢の方がいいと思う」  そういうと、波はゆっくりと頬を膨らませた。目が嬉しそうに細まる。この世の輝くものを全て閉じ込めたような焦げ茶の瞳で、僕を見つめるのだ。僕は波のこの目を見ると心臓の奥がカッと燃えるように熱くなって、彼女が愛おしいっていう気持ちでいっぱいになる。  うーん、幸せだなぁ。  僕は幸せ者だ、本当に心からそう思う。こんな綺麗で可愛くて、愛らしい女性と結婚できるんだから。  嗚呼、でもやっぱり。脳裏に浮かぶのは死にそうな顔をして涙を流す、親友の顔だ。  願うことなら潮と手を取り合って、歩いて行きたかった。    ***    潮が僕の前に現れたのは、中学一年の時だった。  僕と潮の出身中学校は中高一貫の男子高で、地元ではそこそこ名の通った有名校だったらしい。  僕の進学先は両親が決めたし、進学が決まるまでは少し遠方の地に住んでいたから、僕はよく知らなかったのだけど。  とにかく僕は寮制の中高一貫校に両親によって押し込められ、体良く追い出されたのである。  とりあえず僕は、学校生活には全く期待していなかった。  僕は人付き合いについてはとことん不器用で、小学校の時も友人がいたことはなかったどころか、軽いイジメにさえあっていた。  友人が欲しいとか、青春を満喫したいだとか、そんな贅沢なことは言わない。静かに学校生活を過ごしたい。それだけでいいから、どうか神様。そんなことばかりを考えていた。  だから、当てがわれた寮の二人部屋のルームメイトとの初対面の時も、一言も話さない気でいたのだ。そもそも同じ部屋を共有するというだけで、必要以上に話す必要はないし。話したら虐められるかもしれないし。  今思えば、協調性のカケラも無い人間だったと思う。僕だったら、関わり合いになりたくない。  そんな人間に、よくも潮は毎日めげずに話しかけてくれていたな、と思う。  潮は同室である、と言うだけで毎日話かけてくれたし、孤立しがちな学校生活でも常にそばに居てくれた。話がうまくて引くてあまただったのに、僕を一番に優先してくたのだ、ルームメイトである、というだけで。  僕も初めは戸惑ったし、そもそも人とちゃんとした人間関係を築いた実績が殆どなかったからどう接していけばいいかわからなくて、随分とおかしな態度をとってしまっていた。   それでも潮は、僕を馬鹿にするどころか、優しく笑ってそばに居てくれた。口下手すぎて言いたいことを人に伝えることが苦手な僕の話を、何度も根気よく聞いてくれたし、目を合わせてなんとなく意図を汲み取ってくれた。  僕が潮に心を開くのに、そこまで長い時間は掛からなかった。  今思えば、潮も僕を助けようと思ってそこまでしてくれていた訳ではない気がしないでもない。  同室だから仲良くしたいと、ルームメイトに話かけてみたものの、思っていたよりもそっけなくて後に引けなくなっただけかもしれないし、ぼっちと仲良くすることで優越感を感じていただけかもしれない。  それでも、潮は僕を暗いところから手を引いて、明るいところに連れ出してくれた、唯一の人だった。  その当時僕は、冗談じゃなく、潮を神様のように思っていた。潮は完璧な人間で、弱いところなんてないし、色々な人に手を引いて掬い上げながら、一人でも自分の道を歩いていける人だと思っていた。  でも、潮は神様じゃなかったのだ。    高校生になって、潮に彼女ができた時は少し寂しかった。  潮は文化祭で知り合った女性といつも間にかお近づきになり、いつも間にか交際を始めていたのだ。  この子、俺の彼女。そう言って、少し得意げに彼女を僕に紹介した潮に、僕は素直にお似合いだな、と思った。  神様みたいな潮と、女神のように可愛らしい他校の女学生。絵に描いたようなカップルだ。  だから最近、休日に遊んでくれなくなったのか、と妙に納得してしまったのを覚えている。  潮はその焦茶色の目を、この世の輝くものを全て閉じ込めたように煌めかせて、彼女を見たのだった。その瞬間僕は、恋する男を見た。  だから、少し寂しかったけれど、遊んでくれなくなった理由がはっきりして安心したし、僕は二人の交際を心の底から祝福したのだ。神様みたいな親友の潮が幸せになることは、僕の幸せと同義だったから。  だけど、二人の交際は長くは続かなかった。  潮から電話がかかってきた時、僕は確か本屋にいたと思う。潮は彼女とデートだ、と意気揚々と出掛けて行ったから、僕は一人で出かけていた。  潮から突然電話がかかってくることは珍しいことではなかったため、特に何も考えずに電話に出た。  電話口の潮の声は震えていた。初めは笑っていると思ったのだ。でも、すぐに泣いているのだとわかった。  そら、早くきて。震えた声がなんとかその言葉を紡いだ瞬間、僕は脇目もふらず駆け出した。  高校生になってお互い一人部屋に移り、もうルームメイトではなくなっていたが、潮の部屋にはよく訪れるからわかる。潮はその部屋の隅で震えていた。 「潮、何があったの? ……今日は彼女、さんとデートじゃなかったの……?」 「彼女、なんかじゃない……」  潮は涙と鼻水を垂れ流しながら搾り出すように言った。 「付き合ってなかった……、……全部俺の勘違いだった……」  どう言うことか、とは聞けなかった。とにかく潮は、たった今恋を失ったのだ。だから泣いている。それだけで十分だ。  とにかく僕は、潮を慰めるのに必死だった。でも僕は対人能力が低すぎて、こんな時にどんな言葉をかけるべきか全くわからず、潮を泣き止ませることは終ぞできなかったのだ。  本当に役に立たない、僕は。そう自己嫌悪した。 「ずっと意味なかった、恥ずかしい、恥ずかしい……。こんな俺、……誰からも愛されない。……なんか、死んじゃいたい気分だ、死にたい……」  そんなことない、潮が大好きだよ。その言葉はきっと、届いていなかった。僕がいくら言ったってなんの意味もなかった。  歯痒かった。潮をこんなにも傷つけたあの女性にしか潮を救えないなんて、そんな皮肉があるか。  僕ができたことなんて、終始訳のわからない慰めの言葉を口にしながら、潮の背中を撫でさするくらいのものだった。この僕の熱が、潮の心をほんの少しでも温めてくれれば良い、そう願いながら。    潮はその日から一週間、部屋から出なかった。  僕は彼が心配で、毎日メールをした。メールはきちんと帰ってきたけれど、見舞いに行きたい、の返信は毎回、大丈夫だから来るな、だった。  何度か潮の部屋の前にも行った。  潮、潮、心配だから中に入れて。そう言い募る僕に潮は、心配ないから、と明るい声で言った。それが勤めて明るくしたものであることは、僕は当然気が付いていた。毎日潮の声を聞いて生活していたのだから。  潮は僕がいくら粘っても、決して部屋には入れてくれなかった。熱が出てんだよ、お前に移すわけにはいかないだろ。そんなことを言って。  僕はそれが潮の本心ではないと言うことに、なんとなく気づいていた。  でも、心の底では潮なら大丈夫だろう、と言う思い込むが消えなかったから、僕は潮に拒否されると、最終的にはおとなしく自室に戻った。  だって潮は神様みたいな完璧な人間だし、一人で生きていける人だから。今は落ち込んでいても、きっとすぐに立ち直ることができる。一人で立ち上がって、また歩き始めることができる人だ。  だから、大丈夫。馬鹿で世間知らずな僕は、そう信じて疑わなかった。  潮が姿を見せないようになって一週間、潮の誕生日になっても、僕は潮を心配しながらもどこか楽観視していた。そろそろ食べるものがなくなるだろうから、誕生日を祝うついでに差し入れを持っていこう。今日は入れてくれるかもしれないし。なんて具合に。下校途中に、潮の元彼女、と遭遇するまでは。 「そういえばさ、あんた彼氏だっけ? どうしたの?」 「あー、男子校の? 彼氏じゃない彼氏じゃない。顔も悪くなかったし私のこと好きそうだったから付き合ってやってただけで、財布みたいなもんだから。誕生日祝って欲しそうでだるかったから別れたし」  誕プレとかだるいから別れよって言ったら、めっちゃ真顔で頑張ってたけど、見るからに涙堪えてて笑えたし。ぎゃはは、あんたひでー。男子校の童貞くんが私みたいな美少女と付き合えるわけないでしょ。  耳を疑った。潮を嘲る悪意の塊のような言葉の数々が、僕の心臓に突き刺さった。  女神なんかじゃない、悪魔みたいな女だった。  潮の元彼女は僕の顔を覚えていなかったらしい。大声でおぞましい言葉を吐き出しながら、僕の横を普通に通り抜けようとした。  僕は思わず女の腕を掴んで、引き留めた。 「え、何こわ……。なん、なんですか」 「潮を……」  潮の名前を出すと、僕のことを思い出したらしい。女はあー、と怠そうに呟くと、急にふてぶてしい態度で僕に向き合った。 「あいつの友達かぁ。ちょうどいいから、あいつに伝えといて。必死すぎてなんかずっとキモかったし、ストーカーとかしないでね、キモすぎるから、って!」  そう言って愉快そうに手を叩くを女を、僕は。  次の瞬間、気がついたら僕は女の胸ぐらを掴み上げていた。女はぷらんと地面から浮き上がっていて、僕にもこんな力があるんだな、と関係ないことを思った。  女とその友達は先ほどの態度とは一変、声を失って僕に怯えていた。女をそのまま殴りつけなかったのは、ひとえに潮の震えた声が急に脳裏に蘇ったからにすぎない。そうでなかったら、僕は確実にこの憎たらしい女に暴行を加えていた。  死にたい、潮は搾り出すように、確かにそう言った。  その瞬間、僕は女を突き放して、走り出していた。  あの女の悪意に触れて、胸の奥がじんと痛かった。僕でさえこんなに痛いのに、潮はどれだけ。  僕は紛うことなく馬鹿だった。大丈夫なわけないんだ、僕が気が付かなければならなかったのに。  寮の管理人室に駆け込むと、潮の部屋の鍵を開けてください、と言った。管理人はプライベートがどう、と軽く渋ったから、いいから早く! と怒鳴ってしまった。僕はこんな大きな声が出せるのか、と自分でも驚いた。  そうして無理やり押し入った部屋のベッドで横になっていた潮を見た時、僕は心臓が止まるかと思った。  息をしているか心配になるほどにその姿は衰弱していて。 「そらぁ……、なんだよその顔」  潮がそう口にするまで、僕は微動だにしなかったと思う。あまりに衝撃が大きすぎて。  僕はハッとして潮に詰め寄った。 「潮、こんなにやつれて……! なんで言ってくれなかった!? いや、僕が、もっと君を……」  懺悔のような言葉を吐き出す前に、潮は僕の袖を引っ張って彼のそばに引き寄せた。弱々しい力だった。いつも僕を引っ張っていく腕と同じものとは、到底思えないほどの。  思わずその白い頬に触れた。いつもはまろく愛らしい頬が見る影もないほど痩けていた。食べれてなかったんだ、きっと。そう思うと、辛くて。 「潮、潮、全然ご飯食べてないよね、もしかして眠れてなかったんじゃない……? 潮、ごめん、そばに居てあげられなかった」  懺悔の言葉を必死に紡いだ。  ごめん、潮なら大丈夫なんて思って。一番そばに居たのに、気がつけなくてごめん。  潮ははくはくと何か言いたげに口を開けたり閉じたりすると、何も口にせずに、涙だけをしずかにこぼした。  僕はより一層ナイフで心臓を切り付けられるような心地がした。  お願いだから、そんな何もかも諦めてしまいそうな顔で泣かないで。  僕は思わず潮を、強く抱きしめた。  そうしたら、潮があまりにも細くて小さくて、僕の腕の中にすっぽりと収まってしまうから。  僕は気がついてしまった。  この人は、一人では生きていけないんだ、って。神様なんかじゃない、ただの弱くて小さい男の子なんだって。  悪意を投げつけられたら傷つくし、傷ついて座り込んでしまったら、誰かに支えてもらわないと立ち上がれないんだ。誰かと手を繋いで歩かないと、生きていけないんだ。そう、気がついてしまったのだ。 「潮、泣かないで……」  抱きしめる腕をより強くすると、潮は僕の肩に顔を埋めた。そうすると、潮の綺麗な涙が僕の制服に染み込んで、じんわりと濡らした。潮の涙が僕の中にじんわりと染み込んで、潮の悲しみも肩代わりできたらいいのに、と思った。 「ごめんな、そらぁ……。俺全然辛くないんだ、ほんとだぞ……」  そんなことを、今にも死にそうなくらい掠れた声で言うから。僕は潮を抱きしめて、背中を摩ることくらいしかできなかった。潮は器用で、基本的に一人でなんでもできてしまうから、甘えるのは下手くそなんだ、ってその時に気がついた。  どれくらいの間そうしていたか。潮の身体の震えもなんとか治ってきた。 「潮、落ち着いてきた……?」  僕がそう言うと、潮はゆっくりと僕の肩から顔を上げた。涙は静かに流れ続けていたけれど、なんとかその頬には生気が宿り始めていたから、ほっとした。 「もう大丈夫だよ、ほんと……。ありがとな」  蒼空が居てくれてよかった。耳元で響く掠れた囁き声。潮はそう言った。小さな声で、忍ぶように、確かにそう言ったのだ。  僕は思わず耳を疑った。潮はいつも、こんなことを言うようなタイプじゃないのだ。潮はわざわざ言葉にせずに行動で示すのが男の友情だと思っている節があり、日常的親しいアピールとかはしない。  だから、驚いて。でも、喜びで頬が熱くなるのを感じた。  僕は潮の助けになることができたのだ、という今までにない昂揚感で全身が沸き立った。僕は潮が大好きだし彼が必要不可欠だけど、潮も少なくとも僕を必要としてくれているんだ、と。  そして喜んで、僕は確かに独占欲を抱いた。  潮がこんな風に誰かを頼るのなら、その相手は僕がいい。いや、僕であるべきだ。そんな、傲慢な独占欲。  だって、僕が一番潮のことをわかっているし、今は頼りないかもしれないけれど、僕が一番潮のことを支えられる。潮が縋り付いてきたら、それがどんな形でどんな理由であろうと、受け入れられる自信がある。それに、僕だったらあの女のように潮を傷つけたりしない。泣かせたりなんて、絶対にしない。  潮を永遠に僕のものにする。そのためには、どうすれば良いのか。潮が嫌でも僕から離れられないように、一生助け合って歩いていくには。  あ、そうか。その時、僕の頭に一つの考えがどこからか生まれたのだ。それはどこからやってきたのか、本当に突拍子のないものだったけれど、僕には暗い夜の闇を照らす一筋の光のようなものに思えた。 「潮、そうだよね……。僕も潮にはそばに居てほしいよ。……うん、そうだ。こうすればよかったんだ」  潮は一人でぶつぶつ呟く僕を不思議そうに見たが、何も言わなかった。おそらく体調不良と精神的な狼狽で、冷静な判断をして僕にツッコミを入れるような元気はなかったのだろう。それは都合が良い、と思った。  潮を法で縛ってやればいい。そうすれば潮は僕だけを頼らずには生きていけなくなるだろう。強い潮、器用な潮、僕だけを必要として。一番大切にするから、どうか。  悪くない考えだ、と思った。いや、悪くないどころか最良の考えだと言える、とも。 「……潮、僕たち結婚しよう」  僕は思ったまま、そう口にした。確かに勢いまかせの言葉だったが、僕は本気だった。 「え、おま、……は?」  潮は呆気に取られたようにパクパクと口を開け閉めした。涙は流石に止まって、少しずつ乾きつつあった。僕はゆっくりと潮の頬を摩った。 「……冗談やめろよ」 「冗談じゃない、潮。僕は、本気だよ」  僕は潮の目をじっと見つめながら言った。僕が本気だって、伝わるように。  潮は何度もまばたきを繰り返した。そのまままばたきは少しずつ緩慢になって、終に潮はそのまま目を瞑って倒れ込んでしまった。 「っ潮! ……なんだ」  眠っている。健やかな寝息を立てて、気持ちよさそうに。  僕は安心して、無意識に息をついた。まあ、今はこれでいいか。  警戒心が強い潮が、僕の前で気持ちよさそうに眠れるくらい、彼は僕に気を許してくれている。それがわかっただけ、今はいい。  大丈夫、安心して。君には僕がいる。そう伝わるように、眠る潮の頭をとびきり優しく撫でた。  ——それから僕は、毎年潮の誕生日に求婚するようになったのである。    ***    不誠実なことをしてしまったかもしれないな。  十年も前の記憶を振り返ってみて、出た感想はそれだった。  潮を僕のものにしたい気持ちは本当だけど、波と結婚したいという気持ちも本当なのだ。  確かに傲慢だ。三人で生きていきたいだなんて聞こえは良いけれど、結局はどちらも手に入れようとしたってことなんだから。  もう僕は潮に求婚できないだろう。潮にあそこまで言わせてしまったのだ。もうあんな勝手なことは言えない。  だって僕は反論できなかった。いや、口が上手い潮と口下手な僕では、口論をしても勝負にならないけど。一度口論になったら何だかんだ言いくるめられて、最終的には納得させられてしまう。だけど、今回の場合は少し違った。  潮はいつになく切実だった。頬は強張っていたし、声は硬くゆっくりと自分自身に言い聞かせるように話した。  潮は人と口論する時、できるだけ優位に立てるように余裕をひけらかす性質がある。頬は緩めて笑みを浮かべながら話すし、声はなるべく軽く聞こえるように、相手に考える隙を与えないように早口で。  でも、今回の潮は、僕を言いくるめようとしていなかった。無理やり納得させようとするんじゃなくて、お互いの思いを擦り合わせるように。僕と潮と、それから波。三人の関係を一番に考えていたのは潮だった。  だから、何も言えなかった。  そもそも僕は、基本的に傲慢な人間だ。潮や波は優しいと言ってくれるけど、それは僕が二人のことが大好きだから優しく接しているに過ぎない。好きな人に優しくすることなんて、誰でもできることなんだ。好きな人にはよく思われたいんだから。  僕は自分勝手だけど。だからこそ、潮と波のことは幸せにしたい。でも、潮とも波とも一緒に生きていきたい。どちらも自分の欲望だけど、どっちを優先すべきかなんて、考えずともわかることだ。潮のように、僕ももう大人なんだから。 「蒼空……? 何考えてんの?」  波が僕の首に手を回して、全身でしがみついてきた。これはイチャイチャしたいっていう合図だ。熱心に見ていたウェディング情報誌は逆さになり、テーブルの上に無造作に置かれている。  彼女は口であれして、これしてとは言わずに行動で示す。恥ずかしいのだそうだ。波のこう言うところは、とても愛らしい。 「……君のことだよ」  僕は彼女の頬を優しく包み込んで、ゆっくりと口付けした。波はきゅっと強く目を瞑って僕のことを受け入れる。  何度身体を合わせても、行為の始まり、波は必ず処女のように恥ずかしがった。いつまでも処女のように無垢で白い身体が、一度行為が始まると別人のように全身を赤く染めて快がるのだから、僕は何度彼女を抱いても堪らない気持ちになるのだ。  波の頭に手を置いて、その柔らかな髪をかき混ぜながら口づけを深くしていく。 「はぁ……ん」   二人の唾液が絡み合って起こる淫らな水の音と、波の微かな吐息だけが部屋に響いた。今日はこのまま、セックスする流れになるだろう。  ふと目を開けると、感じきった波の顔が目の前にある。まろくて白い頬は興奮で赤く染まり、焦茶の瞳はこれから起こることへの期待で蕩けきっていた。可愛い、と興奮を更に深めながら、意識の端で潮の顔が掠めた。  潮も誰かとセックスする時、こんな顔をするのだろうか。  潮を性的な目で見たことは、誓って一度もない。波へ思うように、キスしたいとか、セックスしたいとか、そんな欲望を抱いたことはただの一度もない。  でも、誰かが僕の知らない潮の顔を知っている、そう思うと腹の奥から熱くてドロドロとしたマグマのような感情が這い上がってくるのを感じる。  誰か、僕以外の何者かが、僕でも知らないような潮の一面を知って、潮の全部を知って、それらを愛すこと。潮の丸ごと自分のものにして隣を歩くこと。そんなことは、とても許容できないんだ。  そこまで思って、僕は波をより一層強く掻き抱いて、無理やり目の前の女性に没頭した。最低の人間だ、僕は。  波を愛している。今は、これからは、それだけを大切にする。僕は潮に振られて、そう決めたのだ。  潮とは名実ともに家族になる。だから僕を一番にしてくれなくても、僕らはずっとそばに居ることができる。そうしたら、僕は世界で一番愛する女性と結婚して、お互い幸せになれる。みんな、幸せになれる。  これが最良だ。  ああ、でも。ぼんやりと思った。  もし、潮が女性だったら。絶対に有り得ないことだけど。そしたら僕は、あの時、静かに涙を流す潮を攫って、何が何でも僕だけのものにしてしまっていただろうな、と。
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