3. 水瀬 波

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3. 水瀬 波

私は明日、恋人と入籍する。ちなみにその恋人は双子の兄の大親友だ。 「波、明日からお前は晴れて水瀬の苗字を失うわけだが、気分はどうよ」  潮は私の部屋を訪ねて、無遠慮にそう言った。  私は一年前から蒼空と同棲していたが、気分的に入籍前日は実家に帰っていて、ここは実家に残された私の部屋だ。  別に家族と別れるわけではない。結婚相手の蒼空との新居と実家は目と鼻の先だし、会おうと思えばいつでも会える。なんならここ一年は実家に住んでいなかったから、蒼空と入籍しても現状は何も変わらない。  でも、ほんの少しセンチメンタルな気持ちになっていた。蒼空との新婚生活に不安はない。ただ、私の一番身近な存在は家族ではなく、蒼空になってしまう。それは嬉しいことだけど、やっぱりほんの少し寂しい。  そんなことを思って、部屋で一人ぼんやりとしていた折に、潮はやってきた。 「気分も何もないわよ、別に」  反射的に、そう答える。でも潮にはお見通しだったようだ。  潮はふーんと言って、軽く笑いながら私の頭を撫でた。 「ま、いつでも帰ってこい。お前がいると、父さんの機嫌がいいし」  それだけ言って潮は、私の部屋を出て行った。潮はスーツ姿だった。どうやら私が帰っていると聞いて、職場から早く上がってきたらしい。リビングで母と話しているのが聞こえた。  兄にはそういうところがある。さっきのあれだってきっと、苗字が変わっても俺たちは家族だ、と遠回しに伝えようとしたのだろう。  遠回しなのよ、あいつは。あの兄のせいで私まで、本当に伝えたいことほど口に出さず、行動で示す癖がついてしまった。  双子のくせに、一丁前に兄貴ヅラしようとする。そんな潮がたまに腹立たしく、だが好きだ、と思う。  私と潮は、よく似ている。双子だと言うことを鑑みても、見た目も性格も驚くほどそっくりだ。それは遺伝的なものでもあるだろうが、私がこの兄をことある事に模倣してきたことに起因していると思う。でも、唯一違うことがあるとしたら、唯一似せきれなかったところがあるとしたら、そういうところだろう。  私は妹で、潮はどこまでも兄だった。 『天野 蒼空 は通話中のため応答することができません。しばらくしてからもう一度かけ直してください。』  携帯の画面に表示された文面を見て、無意識に鼻から息がこぼれた。そのまま、頭をゆっくりと動かして、なんとなく天井の蛍光灯を眺める。  そういえば先程、廊下から電話の着信音が聞こえたな。私の部屋の横は潮の部屋だし、そもそもこの家の二階には基本的に私と潮しか立ち入らないのだから、あの電話は潮にかかってきたもので間違えないだろう。  多分、蒼空の通話相手は潮だろうな。  なんとなく、そう確信した。  一緒に住んでいても、蒼空はよく潮に電話する。何か嬉しいことや楽しいこと、素敵な日常の一欠片があったら、蒼空は潮に教えたくなるらしい。私がそばに居ても一番に潮に連絡し出すのだから、潮との電話の会話を聞いて、蒼空に何があったか知ることも少なくない。  潮は蒼空にとって、何か私には理解できないような次元において、特別な存在なのだと思う。  二人は長い間親友同士で、辛いことも幸せなことも、ずっと共有してきた。それに私は入り込めない。でも、男同士の友情だから仕方がない、……私は今まで、そう思い込もうとしてきた。  でも、たまに今でも、どうしようもない気持ちになることがある。  潮を見る蒼空の目が、あまりにも優しく温かいから。    ***    蒼空に初めて出会った日、あの日は確か、夏の暑い日だった。  太陽の光が私たちをじりじりと焦がして、木々の濃い緑色が攻撃的なほど眩かった。  蒼空はそんな日に、長袖のシャツ纏って、汗ひとつかかず涼しげに立っていた。  こいつ、俺の親友なんだ。潮がそう言って、私に蒼空を紹介した。  正直、潮の友達にしては、珍しいタイプだなと思った。潮の友達にはいわゆるパリピというか、活発な感じの人が多かったからだ。しかも、親友とは。 「水瀬 波です。潮がいつもお世話になって……」  たしか私は、そんな感じのことを言ったのだと思う。  蒼空は私をじっと見た。その硝子みたいな目がみるみるうちに熱を帯びていくのが分かった。 「ほんとに、潮にそっくりだ」  一言一句、間違いない。蒼空は名乗るよりも前に、そう言った。  あ、天野 蒼空と申します。と蒼空が遅れて続けるまで、私は彼の熱っぽい視線から目を離せなかった。  今思えば、初めて会った時から、お互い強烈に惹かれあっていた。その理由は全く違った方向のものだったとしても、私と蒼空は一目で恋に落ちたのだ。    元を糺せば、潮が蒼空を私に紹介しようしたのは、私が大学進学にともなって潮と同居することが決まったからだった。私の進学先だった大学は、奇しくも兄とその親友と同じだったのである。  別に実家から通おうと思ったらそれも可能だったが、長い間実家暮らしだった私は一人暮らしに憧れていた。両親にダメもとでそれを伝えると、では兄と二人暮らしをするならば、と言う条件で実家を出る許可を得たのだ。  潮との仲は良いと言ってもいいくらいには私は兄を慕っていたし、親元を離れた新生活への憧れも相まって、両親の提案には二つ返事で乗った。  潮は初めのうちは私へ遠慮したのか、蒼空を私たちの新居には呼ばなかった。だが、多分それも面倒になったのだろう、お互い面識があったら問題ないだろうと、蒼空を私に会わせることにしたらしい。大学校内で、急に呼び出された時は驚いた。  でも、そのお陰で私は蒼空に出会えた。    蒼空と私の仲は、順調に深まっていった。  そもそも初めから、どうやら蒼空が私に好意があるらしい、ということは丸わかりだった。その瞳の奥に孕んだ熱もさることながら、蒼空の私に向かう言動は恋する男そのものだった。大して恋愛経験が多くない私にもわかるほどに。  私も蒼空に惹かれていたから、全く悪い気はしなかった。それどころか、潮にお前どうしたの、と言われるくらいには浮き足立っていた。  だが、聡い潮には私の気持ちなんて丸わかりだったと思うし、なんなら蒼空は潮に私とのことを相談していただろうと思う。この兄は、少し意地の悪いところがある。  初めてデートに誘われた時は、喜びと恋愛特有の恥ずかしさが絡まり合って、叫び出しそうになった。  その日、蒼空は潮がいない間を狙って、私と潮の家を訪ねてきた。チャイムが鳴ってドアを開けたら、ドアの前に居たのは蒼空だったのだから、冗談じゃなく口から心臓が飛び出るかと思った。  急に忙しくなる心臓の鼓動とは裏腹に、誰とも会う気がなく家にいたことで若干乱れた身だしなみでいることが気になって、私は蒼空の顔を見ることができなかった。俯きながら、潮なら出かけていることを早口で蒼空に告げた。 「……今日は潮に会いにきたんじゃないんだ」  蒼空はそう言うと、たっぷりと言い淀んだのちに、波さんとデートしたいです、と私の目をじっと見て言った。その瞳に宿る熱で私は焦がされるのか、と錯覚した。  私は叫び出したい気持ちをなんとか堪え、こくんと頷いた。その時、蒼空の硝子のような瞳が喜びで煌めくのを見て、私はたまらない気持ちになったのだ。  嗚呼、私はこの人が好きだ、と思った。  蒼空とはその後、何回もデートを重ねた。世間では三回目のデートで告白することが定石だと言うが、蒼空は五回会っても告白してこなかった。  蒼空からの情熱的な視線で、私に特別な好意があることはわかりきっているのに、どうして告白してこないんだ、と随分と焦れたものだ。もしかして弄ばれてる? いや、彼はそんな器用じゃない。潮が相手ならともかく。そんなことを考えて、眠れぬ夜を過ごしたものだ。  恥ずかしいことに、私はその頃にはもうすでに、蒼空に惚れ込んでしまっていたのだ。  蒼空と会うたびに、私は彼にどんどん惹かれていった。  彼は物静かで物知りで、そしてとても優しかった。  硝子のような瞳は何を考えているかわからない、と言われそうなくらい無垢で透明だったが、私を見た途端に熱が宿り、情熱的なものになるのがたまらなく嬉しかった。頻繁に見れるものではないが、心を許した者にだけふっと頬ら緩めて笑うのが、たまらなく愛おしかった。  読書が好きだ、と蒼空が言うから、同じく読書家の潮に彼の好みを聞いて、少しずつ読むようになったし、潮に彼の好きな料理を聞いて手作り弁当を拵えたこともあった。  私はその時もう、この人しかいないと思い込むくらい、この恋に夢中だった。  結局、蒼空は私を存分に焦らしたのちに、十回目のデートで告白してきた。初めてのデートから交際に至るまで、月にして四ヶ月もかかったのだ。これほど奥手で慎重な男子大学生は、蒼空くらいなものだろう。  波が好きだ。ずっと一緒に居たいと思ってる。いつになく直球で、蒼空は言った。でもその声は酷く震えていたし、その瞳の奥で燃え盛る炎はゆらゆらと揺れ動いていた。  私は今度は、彼に強く抱きついてそれに応えたのだ。  ——こうして私は、蒼空と付き合うことになった。    それからしばらくは、蒼空と私の交際は順調に続いた。お互いを尊重して愛し合う、カップルとしては最上の形だったと思う。自分で言うことではないが。  初めて、あれ、と思ったのは交際から半年経った頃のことだった。  蒼空はとにかく、潮のことが大好きだった。蒼空と潮の所属学部は別だったが、二人が共に食堂で食事をするのに頻繁に出くわしたし、潮、と言って蒼空が私たちの家のドアを叩くことも珍しくなかった。  私は別に、そのことはあまり気にしていなかった。本当だ。  蒼空と潮は青春時代を共にした唯一無二の親友同士だったから、蒼空が兄を大切に想うのも当然だ、と心から思っていた。私にも大切な友人はいるし、友愛と性愛は全く違った種類の愛情であるから比べるべくもない、と。  ただ、蒼空が潮を見つめる目に宿る生温い熱に気がついた時は、流石に不思議に思った。その瞳の暖かさは、ただの友人に抱くものとしてはいささか不適切なものだったからだ。  だから割と素直だった私は、直球で蒼空に尋ねたのだ。どうしてそんなに潮のことが大好きなの? と。 「僕は昔、空が青いのは海が青いからだと思ってたんだ」  蒼空はポツリとそう呟いたから、私は面食らってしまった。蒼空の言葉は、たまに省略されすぎて言いたいことが全く伝わらないことがままある。だけど、今回については話があまりにも思いもよらぬ方向に飛んだから、流石の私も言葉を失ってしまった。 「はぁ……。そう言うなら普通、逆なんじゃないの……?」  やっと口から出たのは、こんな言葉だったと思う。そんなことどうでもいいのに。 「うん、そうだよね」  蒼空は含み笑いで応えた。  そもそも空が青いのと海が青いのでは原因が違うんだ。空が青いのは太陽の光が散乱されて、僕らの目には波長が短い青い光が目に入るからだし、海が青いのは太陽の光のうち赤い光が吸収されるから青く見える。  蒼空は優しく目を細めながらそう言った。私は正直、チンプンカンプンだった。波長とか散乱がどうとかで、空と海が青い理由も、蒼空が結局何を言いたいのかも。 「だから僕の思い込みは、そもそも間違っていたんだけど。……でも、そうだな。潮や波は僕を優しいって言ってくれるけど……、もし僕が優しいことになるなら、それは潮が優しいからなんだ。……ちょうど、海が青いから空が青くなる、と僕が昔思っていたように」  蒼空はゆっくりと言葉を紡いだ。蒼空の言葉は重い。ゆっくりと話すだけ、それだけ重いものが込められている。それは蒼空の深い思慮の証だった。  それって、どう言うことなの。とはなんとなく聞けなかった。これ以上蒼空の言葉を聞いたら、私の恋心の中の奥底の柔らかいどこかが、深く傷つけられることになるだろう、と察したからだ。  わかったことは、潮は今の蒼空を創った全て、と言えるくらい蒼空にとっては特別な存在だと言うことだ。    次に、あれ、と思ったのはさらに半年経った日のことだった。  涼しく晴れ渡った秋の日。あまりにも天気がいいから、と蒼空が珍しくドライブに誘ってくれたのだ。  蒼空は運転が下手そうに見せかけて、思いの外器用にドライバーとしての役割をこなした。練習したの? と聞くと、彼は少し恥ずかしそうに、潮とね、とだけ応えた。  また潮か、と少し思ったが、それよりも私とのドライブデートのために練習してくれたのか、と思うと胸の奥の炎が燃え盛って、じんわりと焦げ付くのを感じた。  道中の行き先は私に決めさせてくれたが、ドライブの最終目的地は蒼空が元から決めていたようだった。波に見せたいものがあるんだ、と蒼空は緩やかに笑った。  真っ暗な中、山道を通った。私はかなり不安だったが、蒼空が思いの外余裕そうだったから、何も言わずに助手席に乗った。  波、着いたよ。と蒼空が車を停めた場所は、とても人がデートで行くような場所ではなかったけど、私は心配せずに車を降りた。そして車を降りて空を眺めた刹那、私は言葉を失った。夜空を飾る満点の星々に、言語という概念が吸収されたように。 「……すっごい……、プラネタリウムみたい……」  やっと出たのは、そんな言葉だった。まさに圧巻の夜空。  蒼空は嬉しそうに笑って、私の横に立った。私たちはいつの間にか近づいて、唇を合わせていた。  嬉しかった。蒼空が愛おしいという気持ちが膨らんで、爆発しそうだった。ちょうど、超新星のように。  なんとかして、この溢れるような想いを伝えたかった。吐き出さないと、爆発してしまう、と思った。そうしたら超新星みたいに綺麗に散ればいいけれど。  そこでふと、友人が言っていた一風変わった告白の言葉を思い出した。私はそれを、キスの合間にそのまま口にしたのだった。 「星が、綺麗ですね」  私としてはかなり思い切った言葉だったと思う。私は日頃から好きだ、とか愛してる、とかそういうことを言うのはなんだか気恥ずかしくて、滅多にその類の言葉を口にすることはなかったのだ。  だから蒼空も、喜んでくれると思った。でも、少し緊張しながら蒼空を見た私の目に映ったのは、少し困惑して何度もまばたきを繰り返す恋人の姿だった。  あれ、もしかして私、なんか間違えた? 私も蒼空と一緒に困惑してしまう。 「波、あのえっと……」 「は、はい」  蒼空は言い淀みながら言った。 「……もしかして、『月が綺麗ですね』って言いたかった?」  確かに、そんな感じだったような気もした。じわじわと顔が赤くなるのを感じた。恥ずかしい、普通に好きだって言えばよかった。 「そ、そうそれ! 間違えた!」  私はそう勢いよく言ってから、頬を両手で抑えて俯いてしまった。しかしまあ、少し恥を晒してしまったけれど、恋人同士のじゃれあいの範囲内のはずだった。  惜しかったよね、と言って頭を撫でてくれた蒼空の顔をちらりと見たら、その眉は緩く下がっていて。  あれ、と思った。暗くてよく見えなかったけど、なんだか少し、がっかりしているように見えた。  一瞬、教養が無さすぎて引かれたのかと思った。でも、蒼空ががっかりした理由は、別にあったのだ。 「まあ、波はあんまり本とか読まないもんね、……潮は読書家だったけど」  息が止まった。  潮と違うなんて残念だ、と言われた気がした。蒼空は無意識だったのだろうけど、その声の響きが全てを物語っていた。  そのとき私は、蒼空ががっかりしたとしたら、その理由はそこにあったのだ、と気がついてしまった。  思い返せば、蒼空が私の一面において特に好意的だったのは、潮と似ているな、と自分でも思うようなところばかりだった。  例えば、おしゃべりなくせに愛の言葉は口に出さないで行動で示すところ、照れると素直になれないところ、笑った時に切れ目の目尻が下がって線みたいになるところ。  そんなとき蒼空はいつも、可愛い、とあの苛烈な目で私を見るのだ。そしたら私は、その瞳の炎が燃え移るように胸の奥がかっと熱くなる。蒼空が大好きだって気持ちで、いっぱいになる。  でもその時蒼空は、私をあの目で見ながらその奥で、潮に似てるな、と思っていたのかもしれない。そう思うと、さっきまで熱かった胸の奥が、急速に冷えていくのを感じた。 「僕は波の言葉で伝えてくれる方が嬉しいよ。もちろん、さっきも嬉しかったけど」  蒼空は優しく言ってくれたけど、私は上の空だったと思う。  ちなみに、『月が綺麗ですね』っていう言葉は、夏目漱石が言ったっていうことで有名だけど、これは彼の著書内で書かれた言葉ではないんだ。彼が英語教師をしていた時の逸話に過ぎないんだけど……。  私があまりに静かだったからか、蒼空は珍しくたくさん話してくれた。彼は博識だったけど、いつもはうんちくを語ったりしないのに。  だが、せっかく口下手な蒼空が話してくれているのに、私は全く別のことを考えていた。  私はなんとしても、潮にそっくりでなくてはならない。そう思った。  誰しもが、私と潮をそっくりだ、という。双子ってすごいねって。だが実のところ、私と潮は見た目こそそっくりだが、中身はそこまで似ていない。  潮は器用で口論も説得も上手いが、私はおしゃべりだけど素直で口はそこまで上手くない。潮はそれ以外のことには大雑把なのに興味があることだととことん突き詰めるが、私は何に対しても大雑把で、そもそも飽きっぽいから何かを突き詰めることなんてしない。潮はなんでも理詰めで考えるが、私は割と感覚に頼るところがある。潮は長男気質で他人の手を引いて進むことが多いが、私は末っ子気質で手をひいてもらってばかりだ。  まだまだある。私は、潮と全然違う。  蒼空はきっと、私が潮と似ている方が嬉しいのだ。それなら、私は蒼空に愛されるための努力をすべきだ。大丈夫、まだ付き合って一年だし、まだ間に合う。  私は蒼空の手をとって笑いかけた。私たちはまだ大丈夫、そうだよね、蒼空。私、頑張るから。  ——私がそうすべき理由については必死に蓋をして、見ないふりをした。    こうなるべきだ、と日々自分に言い聞かせて過ごしたら、やがて癖になる。そして、癖は性格になった。  蒼空と交際を始めて二年になる頃には、私の潮の模倣はほとんど完璧なものになっていた。元々双子の兄妹だから、性格の細かいところは全然違っても芯はあまり変わらない。簡単なことではなかったけれど、思っていたよりも難しくはなかった。  初めは潮のなりきりだという感覚が抜けきれなかったけど、長い間やっていると、違和感はなくなった。いや、違和感を感じるたびに殺していた、というのが正しいか。  潮は大学に入ってから、すぐに茶髪に染めて刈り上げまでしていた。当時は大学デビューか、と言って揶揄ったが、色素が薄くて切れ目の彼にはよく似合っていた。  だからつまり、私にも似合うはずだ。そう思って、天然のまま大切に大切に、長く伸ばしていた髪を切って、ベリーショートにして茶髪にまで染め上げた。思っていた通りよく似合っていたし、蒼空は大層喜んだ。似合う、可愛い、と。  潮を真似るようになってから、蒼空は私により一層夢中になった。  蒼空のあの目、あの燃え盛るような苛烈な目を毎日向けられるようになったのは嬉しかった。頑張った甲斐があったな、と思った。  でも、それよりもずっと切なかった。嬉しくて胸の表面が熱く滾るたびに、胸の奥はじんじん、抉られるように痛んだ。  小さな私を殺すたびに、殺される痛みに心臓は悲鳴を上げようとする。もう無理だ、と。その声を必死に黙らせた。  蒼空が好きなんでしょ? ずっとそばに置いて欲しいでしょ?  そう囁くだけで、小さな私の一欠片たちは黙って殺されてくれた。  私の一部を殺すたびに、初めは罪悪感と喪失感で泣いてしまうこともあった。でも、今は涙は流れない。その代わりに、胸の奥だけが軋むように痛んだ。これ以上何もかも誤魔化して、それを邪魔するものを殺し続けたら、私自身が壊れちゃう、と。必死に聞こえない振りをした。  蒼空と離れるくらいなら、壊れた方がマシだ。壊れてでもそばに置いて欲しい。それくらいには、思い詰めていた。  そんな私の心のうちとは裏腹に、蒼空との交際は順調だった。恐ろしいくらい。何かを見落としてるんじゃないか、本当は私と蒼空の関係はもう破綻しているんじゃないか、と心の奥底ではいつも不安だった。  その度に私はそれを、蒼空は私のことを愛しているんだ、と打ち消した。この時の私は、私の中の何かを常に殺すことで、蒼空との関係をなんとか保っていた。  蒼空は多分、純粋に順調だと思っていたんだと思うけれど。  とにかく、その頃の私と蒼空の認識には大きく齟齬があって、表面上は順調に見えていても、ギリギリのバランスでなんとか私たちの関係は形になっていた。  そんな中で、壊れかけていた私を追い詰める、致命的な出来事が起こった。  凍えるような冬の日だった。ぽかぽかと暖かい、春の訪れを告げる日になるでしょう、という予報は百八十度外れて、粉雪がしんしんと降り続く真っ白な日になった。  私はその日、学校終わりに蒼空と会う約束をしていた。ちょうど、授業の終わりが蒼空と被る、週で一回の日だった。もちろん、蒼空とは少なくとも週三回は会っていたが、出不精な蒼空を外に連れだすことができる放課後デートの日はやっぱり特別だった。  私は全ての授業を終えると、そわそわしながら大学の正門に向かった。私たちの逢引きの場所はいつもなんとなく正門の前と決まっていた。  が、その気持ちは一通のメッセージによって打ち砕かれた。  ぽん、という通知音が鳴ったのが聞こえたから、私は少し期待しながら携帯のメッセージアプリを開いた。蒼空からのメッセージだと思ったからだ。  その予想は当たっていた。しかし、その内容は私の思っていたものとは全く違っていたのだ。  ごめん、今日は会えない。携帯の画面はその文章は映し出していた。  てっきりもう着いたよ、というメッセージだと思っていたから、正直落胆は隠せなかった。その日は雪が降っていて寒かったから、映画館に行こうと思っていて、観たい映画も決まっていたのに。  しかし、蒼空が直前で約束を反故にすることなどその日までなかったし、何かのっぴきならない理由があったのだろうな、と思って私は、全然大丈夫だよ、と返信したのだ。  仕方がないし、今日は家に帰ってのんびりしよう、そう考えて、とぼとぼと真っ白な道を踏み荒らしながら自宅に帰った。  その日は、潮の授業が早く終わる日で、潮はとっくの前に帰宅していたようだった。雪に降られながらなんとか自宅にたどり着くと、潮の黒い靴が玄関に揃えて置いてあった。  潮は珍しく、居間にいなかった。いつもならば、自宅にいる時は居間でゲームしたり読書したりしているのが常なのに。一応お互いの部屋は拵えてあったが、彼は狭い自室で過ごすのを嫌ったのだ。  私は自室にいるであろう潮に声はかけず、そろりと自身の部屋に入った。おそらくないだろうけど、潮が女子生徒を連れ込んでいる可能性も皆無とは言えない。潮は、私が朝まで帰らないだろうと思っていたはずだし。鉢合わせると気まずいどころではない。そう思ったから。  私と潮の部屋は真隣で、耳をすませば会話が丸聞こえだった。自室に入った瞬間に、隣の部屋からぼそぼそと話声が聞こえるから、本当に女連れ込んでる、と兄を少し軽蔑してしまった。よく妹と住んでる部屋に女連れこめるな、てか自分は蒼空を連れ込むな、と口を酸っぱくして言っていたくせに、と。  だが、おそらくそれは勘違いらしい、ということはすぐにわかった。  軽く軽蔑したと言え、好奇心には勝てなかった私は、壁に耳を当てて潮の部屋の話し声を盗み聞きしようとしたのだ。  そうすると、話し声は男性同士によるもので、声のくぐもり様からそれは通話によるものだということがわかった。……そして、その通話相手はおそらく蒼空であるだろう、ということも。  私は何度も耳を疑った。でも、あの語尾が柔らかく消え入る特徴的な話し方は、蒼空のもので間違えなかった。私が聞き間違えるわけが無い。  なんで、と思った。蒼空にはのっぴきならない理由があったはずだ。それが潮と電話することだとでも言うのか?  いや、早とちりは良くない、と私は自分を戒めた。いつだって冷静に、そう務めて意識してきたでは無いか。潮だったらこういう時どうするか。  おそらく、潮だったらこうする。そう思い、私は壁に耳を極限まで押し付けた。  潮はスピーカーにして通話をしていたようで、蒼空が話す内容もなんとか聞き取れた。 「蒼空、ゆっくりでいいからちゃんと話してみろ。大丈夫だから」 『潮、でも潮……。僕は父さんの事が苦手で……、でも嫌いじゃなかった。それなのに、……涙の一粒も出なかった。電話で、亡くなりました、って言われたとき。……そうなんだ、って思った。その事が一番悲しかった』  もしかしたら僕は、おかしいのかもしれない。  蒼空は一際小さな声でそう言った。そのまま消えてしまいそうな声だった。  私は混乱やら悲しみやら、……嫉妬やらで、息ができなかった。  うん、うん。と潮は余計なことは言わずに蒼空の話を聞いた。  私を宥める時の声と、それは少し違った。私相手の時の声を年上然とした声だとすると、蒼空への声は夫婦然とした声だった。お互い支え合うと決めて一体になった、そんな相手を支えようとする声だった。  辛かった。それは私の役目だったはずだ。 『潮、僕は知っていたんだ……。父さんの容態がここの所良くないってこと。……その時は確かに悲しかった、しんどかったよ、最近』 「うん、最近のお前はなんか変だと思ってたよ」  私は悔しさのあまり、歯を食いしばった。蒼空にとっては、そんな場合じゃないのに。  私は全く気が付かなかった、蒼空の様子がおかしいだなんて、少しも。  なんで、潮よりも蒼空に会っているはずなのに。私の方が蒼空の事をよく見ているはずなのに。  潮はこういう時に余計な嘘をつくような人じゃない、無駄だからだ。だから、潮が蒼空の異変に気づいていた、と言うのならばそれは本当なのだろう。  たしかに潮は、人の機敏に聡い。周りをよく見ているから、人の異変には誰よりも早く気づく。でもそれは、有象無象が相手の時だ。  蒼空のことは、私が一番気にかけてるし、私が一番そばに居たはずなのに。  蒼空も、どうして私に縋りついてくれなかったんだろう。その日、会おうと約束していたのは私だった。  そうでなくても、私を一番に頼って欲しかった。そうでなかったら、恋人同士の意味が無い。そう思った。 「蒼空、そら、大丈夫だから」 『しお、しお……、でも僕は……』  蒼空の声はくぐもっていて、時折嗚咽を漏らしていた。彼は泣いていた。蒼空の泣き声を、私はその時は初めて聞いたのだった。二年も付き合っていたのに。しかも、他人に縋りついて流した涙を盗み聞きして。 『潮、……たすけて』  潮がぐっと息を呑む音が聞こえた。 「蒼空、お前今、どこにいる?」  その声が聞こえたとき、私は居てもいられず、自室をそろりと抜け出した。潮と出くわしたら、より一層惨めな気持ちになるに決まっている。そう思って、潮に気づかれないように音を立てず自宅から飛び出した。  雪は依然として降り続いていた。真っ白な世界の中、私は走った。涙がひっきり無しに溢れて止まらなかった。  潮には勝てないんだ、と思った。私がこんなに努力して、自分を殺す痛みになんとか耐えて蒼空の望み通りに自身を作り替えたのに。結局コピーはオリジナルには敵わない。  私が潮よりも唯一勝っている点があるとすればそれは、私が女であるということだけだった。  私は行くあてもなく走り続けた。だが少なくとも、大学の付近は避けていたはずだ。蒼空の家の付近も。  そのとき蒼空と潮が一緒にいるところを見たら、自分でも何をするかわからなかったから。大切な人たちを、傷つけてしまうかもしれなかったから。  上着なんて着ている時間はなかったから、身体の奥まで染み入るほど凍えた。心臓まで凍らせて仕舞えばいいと思った。そうすれば、この痛みも麻痺してくれるはずだ。  雪で目が霞んだし、道も悪かった。  そもそも雪靴ではなかったし、走るのに向いている靴でもなかったから、私は滑って盛大にこけた。 「うゔぅ……っ」  涙と鼻水まじりの汚い声で、私は呻いた。仰向けにそのまま落ちて、背中を打って痛かった。でも、胸の奥の痛みに比べたらそうでもなかった。  ぐちゃぐちゃな汚い色の感情が渦巻いていた。いっそ、叫び出したいくらいだった。  空を見上げたら、雪が降り続いていて真っ白だった。  この真っ白な世界に身を置いたら、私のこの汚い感情も白く浄化されるかもしれない、と思ったが、仰向けに横になっていると地面に積もった雪がじわりと溶けて、私の背中や手は泥の汚い色に染まった。  それを見てようやく、もうどうしようもないかもしれないな、と思った。初めて抱く発想だった。それまでは、その発想を抱きそうになっても、気がつかないふりをしていたのだ。  このまま蒼空と付き合い続ける限り、この苦しみは無くならない。私がどう頑張ろうと、どう変わろうと。 「そらぁ……」  大好きだよ、とは終ぞ言葉に出せなかった。  私はそのとき、蒼空と別れることを決めた。    その日はどうしても家に帰る気になれなくて、行き着いた先のインターネットカフェに泊まった。  それでも潮に心配をかけるのは本意ではなかったため、友達の家に泊まる、とだけメッセージを入れた。いつもはすぐに既読がつくのに、その日だけは遅かったから、蒼空と会っているんだろうな、とぼんやりと思った。もはや惰性で潮を羨んだ。  別れると決めたはずなのに、まだ嫉妬はするのか、と自分が一番醜く感じた。  インターネットカフェで決して快適とは言えない朝を迎えて携帯を開くと、蒼空からメッセージが来ていたことに気がついた。  昨日は申し訳なかった、ということと、しばらく会えなくなるから今日の午前に会えたら会いたい、ということが簡潔に書かれていた。  私はそれに、今から会いましょう、とだけ返信した。すぐに蒼空からの返信があって、その日駅前で会うことになった。  インターネットカフェから外に出たら、雪はすでに止んでいた。空は快晴だったが、雪が降っていた名残か、空気がきんと張っていて寒かった。  私はその足で、一歩一歩踏みしめるように駅まで向かった。  あんなに積もっていた雪は一晩でかなり溶けて、真っ白だった道は、泥と雪が混じってぐちゃぐちゃになっていた。  積もった雪道は真っ白に見えるけど、少し下には汚い色の泥が埋まっている。足を踏み入れさえすればすぐに真っ白ではないとわかるのに、踏み出そうとしなければわからない。でも、何もしなくてもやがて雪が溶けて泥が露呈して、それらが混ざり合ってぐちゃぐちゃになる。真っ白だった時の見る影もないほど。  それがまるで私と蒼空の関係のようだな、と思うと感慨深い気持ちになった。でも今日は、涙を流さないだろうな、とも思った。  雪が積もる白い冬が終わり始めると、雪と泥が混じって泥茶色になる季節がやってくる。でも、それを耐え抜くと桜色の春が来る。そのためにはまず、溶け残った雪を溶かさなくてはならない。  私の蒼空への執着は、溶け残った雪のようなものだ。だから未練がないように、一思いに溶かさなくてはならないのだ。  そう決心していた。蒼空に別れを告げるつもりでいた。  かなり遠くまで来てしまったのだろう、駅までの道のりは遠かった。それでも私は、道を踏みしめるようにしてゆっくり歩いた。  走って、蒼空を待たせまいとするべきだったのかもしれない。しかし、この過程は私が心を整理するのに必要なものだった。  私が駅の前まで着くと、蒼空はもうすでにそこにいた。  そこそこの時間を待たせてしまっていたらしい、蒼空の手は真っ赤になってしまっていた。私はそれを見て心苦しく思うのと同時に、その手を取って私の熱を分け与えてやりたくてたまらなくなった 「波」  蒼空は私の顔を見ると、花開いたように微笑んだ。  それを見て私の心の奥が、やっぱりこの人が好きだ、と叫んだ。それをなんとか抑えつけて黙らせた。私はもう、この人と離れることを決めたのだ、と。  一度決めたことは曲げない。精神論において、潮と私が共通している数少ないところだった。 「待たせたでしょう、ごめんね。寒かったよね」  いつもなら、その骨ばった手を包み込んで温めるところだったが、私はなんとか堪えた。そんなことしたら、離れがたくなるに決まっている、と思ったからだ。 「全然、波を待つのも楽しいから。……寒いし、とりあえずどこか入ろう。ごめん、今日の午後の飛行機で実家に帰らなくちゃ行けなくなったから、あんまり長くは話せないんだけど。……ちょっと、色々あって」  ああ、やっぱり話してはくれないんだな、と思った。  きっと今日の午後に急に実家に帰ることになったのは、お父さんのお通夜があったからだろう。蒼空の実家はかなり遠いから、昨日亡くなったと聞いてすぐは駆けつけられなかったのだ。  蒼空は、潮にはすぐに電話して苦しみを打ち明けたのに、私にはその残滓物もくれなかった。私は蒼空の恋人なのに。胸の奥がナイフで切り付けれたように鈍く痛んだ。苦しかった。  でも、こんな苦しみも今日で終わりだ、今日で私と蒼空は恋人同士でさえなくなる。そうなったら、潮と比べて苦しむ必要もなくなる。親友とその妹だったら、親友の方を優先するのは当たり前だから。  そう思って、私は蒼空に気づかれないように、ぎゅっと奥歯を噛んだ。 「ここでいいわ。……すぐ終わると思うし」  蒼空は不思議そうに首を傾げた。私は別れよう、と言おうと大きく息を吸い込んだ。  でも、蒼空が私の頭を急に優しく撫でたから。  蒼空の手はいつもひんやりと冷たい。その日は寒空の下で待たされたせいか、いつもよりももっと冷たくて氷みたいだった。  あまりに冷たすぎて、手が冷たいのは優しい人の証拠よ、なんて言った過去が頭を掠めて。  私は何も言えなくなってしまった。 「波、何か辛いことがあったんだね……」  それは貴方の方でしょう、と言いたかった。やめてよ、こんな時に優しくするのは。私の心のうちに気がつくのは。……私には甘えてくれないくせに、私を甘やかすのは、と。  残酷だった。蒼空は優しく、私の心臓をゆっくりと抉った。苦しいのに、なかなか殺してはくれなかったのだ、この醜い恋心を。  好きだ、この人が。優しくて無垢で、だからこそ残酷なこの人が憎くて恨めしくて……それでも、どうしようなく愛おしかった。  こんな気持ちで、別れようなんてとても言えなかった。 「ねえ、蒼空……。もし、……もし蒼空が、大切な人とどうしても離れなくちゃいけなくなったらどうする?」 「……波?」  別れようとはどうしても言えず、馬鹿みたいな問いかけをした。蒼空も怪訝な顔をしていた。でも、一度口から出たら止まらない。 「離れたくなくて、でも、離れないと二人の関係はぐちゃぐちゃになっちゃうのよ……。でも離れたくない、って思うと、まだ離れなくていいんじゃないか、って……。決心が、……どうしてもつかない。……ねえ、蒼空なら、どうする?」  あーあ、何言ってんだろう、私は。ほら、蒼空も困ってる。子供みたいに駄々を捏ねて、いつも冷静な潮とは全然違う。どれだけ真似ようとしたって、全然。こんなだから蒼空も頼ってくれないんだろうな。  いや、それは間違えだ。蒼空が私を頼らない理由は、私が潮じゃないから。蒼空が支え合いたいのは潮だけなんだ。  そんなことをぐるぐる考えたら、涙が出そうになった。私はそれを必死に堪えた。泣いてたまるか、と。私は負けず嫌いなのだ。潮と同じで。  蒼空は私の頬を優しく撫でた。手は冷たかったけれど、蒼空の熱が伝わったような気がした。 「ねえ、波、僕だったら。……僕だったらきっと、離れないと思う。僕は別に……優しくはないから。だから、自分のことだけを考えるよ。もし二人の関係がぐちゃぐちゃになったとしても……。二人一緒に混ざり合ってぐちゃぐちゃになれたら、それが良い」  私は息を呑んだ。いつも温厚な蒼空の意見とは、とても思えないようなものだった。  それは間接的に、私が蒼空と一緒にいても良い、と言われたように感じた。そんなはずはなかった、蒼空は私の醜い感情も努力も、何も知らないはずだったから。だから、蒼空と離れたくない私の思い込みだったのだろう。  でも、それでも。蒼空が私と離れたくない、と。もしも私たちの関係がぐちゃぐちゃに、溶けかけた雪と泥の混じり合ったような汚いものになったとしても、それでも私と一緒に地獄に堕ちてくれる、と言ってくれたように感じて。 「……蒼空は、そう思うの?」  私は縋るように問いかけた。自分でも、馬鹿な女だな、と思う。私の方から別れを告げるはずだったのに、別れたくない、と縋っているような構図になってしまっている。 「うん、そうだね……。でも、潮は多分、」  潮は多分、こう言うだろう、と蒼空は続けようにしたんだろう。  私はそれがどうしても聞きたくなくて、蒼空の首に腕を回して思い切り抱きついた。あの温かい目で潮の名前を呼ぶ蒼空を、どうしても見たくはなかった。  蒼空は一瞬驚いたように目を丸くしたが、直ぐに優しくその腕を私の背中に回した。 「波、どうしたの……?」 「蒼空、私の事好きよね……?」  蒼空の問いかけには答えず、私は一方的にそう口にした。どうしても今、彼に好きだ、と。愛していると言って欲しかった。  蒼空は私の頬を両手で包んで、私の目を見つめた。その瞳の奥には、依然と熱い炎が揺らめいていた。 「愛してるよ、波」  蒼空は甘く蕩けるような声で、そう言った。  その目は、その声は、確かに私を愛していた。  嗚呼、嘘だったらよかった。蒼空の愛の言葉が嘘だったなら、そうだったらよかったのに。  あんなに好きだと言って欲しかったのに、自分の気持ちがわからない。ぐちゃぐちゃだ。蒼空が好きだという恋心と、潮を慕う家族愛と、潮を疎む嫉妬心が全部混ぜこぜになって、汚い色の何かになって。  不意に温かいものが頬を伝った。あんなに頑張って堪えていたのに。涙が、止まらなかった。 「……波。辛かったね……」  蒼空はそれ以上何も言わずに、私の顔を自身の肩に押し付けて強く抱きしめた。蒼空の優しさが嬉しくて、辛かった。  貴方の方が辛かったくせに。泣いて潮に縋っていたくせに。私には見せてくれないくせに。私を甘やかすのは上手いなんて。  蒼空の私への愛は、恋心は本物だ。もしそうじゃなかったらよかった。私も彼を愛さなくて済んだ。  でも、蒼空は私のことを女として愛したし、だから私も彼を男として愛した。恋愛感情を含んだ愛情としては、蒼空は私だけを愛したのだと思う。私も同じ、蒼空だけが好きだ。  でも、私はもうとっくに気がついていたのだ。今まで見ないふりをしていただけで。それで幸せをつかめるなんて、勘違いをして。  私たちの愛には、致命的な問題がある。彼自身も気がついていない、決して暴いてはいけないからくりが。  蒼空が私に強烈に惹かれた理由。それは、私が潮の双子の妹だったからだ。私が潮にそっくりだったから、だから蒼空は私を愛したのだ。蒼空が私を見て、初めて発した言葉の通り。  蒼空は潮を強く、強く誰よりも愛していたのだろう。……それは純粋な友愛だったけど。自分の人生を変えた優しく綺麗な親友。もし潮が女性だったら、何がなんとも自分のものにして、その瞳の熱を全て捧げただろう。  ただ、蒼空は生粋の異性愛者だった。だから、潮への想いは性愛にはならなかったのだ。友愛なんてものの域はもはやとっくに超えていただろうけど。  そんな中に、誰よりも愛する親友にそっくりな女が現れたら、……恋に落ちたとしても、この女性を愛しているんだ、と錯覚したとしても、仕方がない。  そして私は蒼空の、私を見つめる苛烈な瞳に惹かれた。初めて会った時の蒼空の目は、私のことが好きだ、と叫んでいた。その硝子のような目が熱い炎で歪んだ時、私の胸の奥にもその炎が燃え移ったのだ。だから私は蒼空を熱烈に愛した。  全て潮のお陰だったのだ。私と蒼空の関係は、全く潮ありきのものだった。もし潮がいなかったとしたら、もし私が蒼空の双子の妹ではなかったら、もし私と潮が全く似ていなかったら、……私と蒼空は、お互いのことを目の端にも掛けなかっただろう。  わかっていた、もうとっくに。でも、それでも私は。 「蒼空、」  蒼空が私を見た。私は、目から涙を溢れさせながら言った。 「……大好きよ」  蒼空は優しく微笑んだ。  依然として、彼の瞳の奥の炎は燃え盛っていた。たとえ私に燃え移ったその炎が、私の胸を焼き焦がして灰になることがわかっていたとしても、私はこの恋を捨てられなかったのだ。    ***   「もう、六年も前になるのかぁ……」  若かった頃の恥ずかしい過去を思い出して、私は一人赤面した。  今思えば、あの時の私の思考は、大変幼くて身勝手なものだった。恋愛経験も浅かったし、両親や兄に守られて蝶よ花よと育てられたせいか周りが全く見えておらず、思い込みで一人突っ走ってしまっていた。  あの凍えるような冬の日から六年、蒼空とは結婚することが決まっている。  彼との交際は全く順調に進んでいた、とは言えない。叶わぬ想いに勝手に身を焦がして、何度も絶望を味わった。何度別れようと思ったか。でも、結局別れよう、とは言えずじまいで、ここまで来た。  私の恋心は蒼空によって何度も燃やされたり切り付けられたりを繰り返し、やがて灰になって、最終的には愛に昇華した。無償の愛、とはまだ流石に言えないけれど、彼のことを想って眠れない夜を過ごすなんて時期は、とっくに過ぎ去っていた。  もの懐かしさに浸りながら壁に頭をつけてぼんやりとしていると、隣の潮の部屋から話し声がかすかに聞こえてきた。おそらく相手は蒼空だろうけど、壁に頭をつけている程度だったら、彼が何を言っているかは聞き取れない。  しかしもう、私は壁に耳を押し当てて盗み聞きしようとは思わない。ただなんとなく、潮の声に耳を傾けるくらいはした。 「蒼空、心配すんなって。お前と波なら絶対、大丈夫だ」  潮の頼もしい声が聞こえる。  私は以前、潮は根拠のない大丈夫を言わない人間だと思っていた。しかし意外とそうでもない、ということが最近わかった。潮の大丈夫、は相手を安心させるまじないの様なもので、相手を落ち着かせて大丈夫だと思い込ませて、実際に「大丈夫」にさせるために言っているのだ、と。詭弁の様なものだ。でも、何よりも優しい詭弁だ。  潮のこういうところは、最後まで真似できなかった。潮の模倣はもはや私の性格になって、私の芯に根付いている。自分を殺す苦しみは、何年もかけて消し去って、もはや模倣は私そのものになった。  ただ、私はどこまでも我が儘な妹だったのだ。  あの寒空の下で言っていた、蒼空の言葉が蘇る。私は結局、二人の関係がぐちゃぐちゃになろうとも、蒼空と一緒にいたいという自身の願望を満たすことを優先した。潮だったらきっと、相手のことを考えて身を引いたに違いなかった。 「大丈夫だよ、蒼空」  まだ大丈夫、と言っている。今回の蒼空はいつもより弱気だぞ、と思った。  でも私はもう、蒼空の相談内容は気にならなかった。その内容がどんなものだとしても、蒼空は私を愛していて、一生かけて幸せにする気でいる、ということは自信をもって言えるからだ。  残念ながら、つまらない嫉妬心の火はいまだに灯されることもある。だがしかし、この火も少しずつ目に見えないくらい小さくなって、やがて消失したくらいには見えるようになるだろう。  なぜなら私は、蒼空からの愛を溢れんばかりに感じ取っていたし、長い年月を経て開き直ることを学んだからである。  蒼空の真っ先に潮を頼る癖は、結局のところ私がいくら努力しても治らなかった。だが、それもそこまで気にすることではなくなるのだ。だって、私と蒼空は夫婦になって、二人で一つの存在になるのだから。頼るのは結局部外者だからで、私は蒼空の悩みや苦しみも自分のものとして共有する、当事者になれる。  それに、蒼空が潮を一番に必要としていても、彼と恋をして名実ともに支え合うパートナーになれるのは私なのだ。その理由が、例え私が潮に似ていたからだとしても、なんの問題がある?  恋の始まりは人それぞれだ。その理由の中には、別に誰でも良かったんだろ、というようなものも決して少なくはない。それでも最終的にお互い愛しあえたら、理由なんてどうでもいい。大事なのは、蒼空が選んだのは私だということだ。それだけでいい。  ——空が青いから海が青くなる。  ふと、蒼空の言葉を思い出す。  あのとき蒼空が言った通り、今の蒼空を作ったのは、紛れもなく潮なんだろう。私じゃない。それは今でも少し悔しいけど、私が好きな蒼空を作ったのが兄だというのならば、それは素敵なことだし、兄が作った男だから私も愛したのだろう。私は兄のことも、大好きだから。  蒼空が潮のこともそばに置いておきたかったであろうことは、私も知っていた。潮もおそらく、蒼空の特別でありたがっていただろうことも。蒼空は私とのデートに、ことあるごとに潮を連れてこようとしたし、潮も満更じゃなさそうだったから。  潮ならおそらく気がついていただろうけど、正直、私は心穏やかでは居られなかった。潮と同じ土俵に立ったら、私が負けるに決まっているから。  でも私は、何も言わなかった。あの兄は私のことを想って、身を引くことを知っていたから。双子の兄妹なんだ、わかるよ。  私は心の中で、そっと潮に謝った。自分勝手な妹でごめん、と。  でもきっと潮は、仕方がなさそうに笑うんだろうな、と思う。優しくて理性のある大人で、そして我が儘な妹が大好きな兄だから。    蒼空と市役所の前に立つ。やっぱり少し、緊張する。 「波、緊張してる?」  蒼空が問いかけてきた。彼の姿は一見、余裕そうに見える。 「そうかもね」 「大丈夫だよ、僕がいるから」  蒼空は優しく私の手を取った。  昨日は不安がって、潮に激励されていたくせにね、とは言わない。それが蒼空の優しさなんだって、もうわかっているからだ。 「緊張はしてるけど、不安はないのよ」  私はそう言って、蒼空の硝子のような目を見た。その目は炎は以前として揺れている。でも、柔らかく温かい炎だった。  蒼空は頷いて、私の手を引いた。骨ばった大きな手。私を引くこの手は、潮によって導かれた手だ。だからこそ、蒼空は潮の手を取って、同じ歩幅で歩きたかったのだろう。  そして、三人で歩いていきたかったのだろう。それは叶わなかったけれど。  でも、それが一番良い選択だったと思う。三人で横並びに歩いて行こうとしても、やがてその並びは歪な三角になり、ウロボロスのように互いの尾を食い散らかすだろう。  だから、これでいいのだ。骨ばった冷たい手。これが私だけの物になるなんて、これ以上幸せなことはない。  嗚呼、でも。ぼんやりと思った。  もし、空が青いのは海が青いからだとすると、きっと、海が青いのも空が青いからだ。蒼空を作ったのが潮だとしたら、きっと、今の潮を作ったのは蒼空だったのだろう。  それは結婚して生涯を共に歩むことよりも、何よりも素敵なことに思えた。  あーあ、と思う。私はやっぱり、蚊帳の外だ。でもどうしてだろう。これ以上嬉しいことはない、そう思ってしまうのは。  
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