4.過去は忘れて……

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 篠井さんのぬくもりが遠ざかり、体温がほんの少し低くなった気がした。  離れがたい、と思うのはきっと、私の気持ちが弱っているから。 「なんか――」  篠井さんがぼそっと言い、反射的に顔を上げた。  篠井さんはなぜか少し困った表情で私を見下ろしている。 「――なんだろうな」 「なにがですか?」 「うん……」  再会から数日、初めて見る彼のたくさんの表情が新鮮だ。  こうして、言葉に詰まったり言いよどんだりする彼も、上司だった頃の彼からは想像できない。  オンとオフの違いなのか、四年という歳月のせいなのかは、わからない。 「この状況で酒のせいにするのは……ずるいよな」 「?」  篠井さんがははっと笑った。  そして、私の頭にポンと手をのせた。 「歯磨いて、顔洗って、寝ろ」 「はい」  彼の指が私の髪の隙間に滑り込み、頭皮をくすぐった。  篠井さんが目を細め、少しぎこちなく口角を上げて微笑んだ。 「羽崎は、あったかいな」 「え?」 「離れがたいな」  私が言わなかったことを、篠井さんが言った。  なんだか不思議な感覚がして、それはうなじをくすぐられた時のくすぐったさに似ていて、思わず肩を竦めた。 「羽崎?」 「なんだか、むずむずします」 「は?」 「同じこと、思ってたので」 「同じこと?」 「離れがたいな……って」 「……」  篠井さんが何か言おうと口を開いて、でも言わずに閉じた。  そして、はぁ~っと深いため息を吐く。 「羽崎、俺は今、このルームシェアは間違いだったのかもと思い始めている」 「はい?」 「俺が言い出したことで、俺が押しかけた。だが――」 「……?」  篠井さんが言葉をきり、また口を開いて閉じた。  それから、ひゅっと息を吸って頷く。 「よし! 寝よう」 「はい?」 「歯を磨け」 「はぁ」 「おやすみ」 「おやすみ……なさい」  篠井さんがくるりと身体を反転させて、出ていく。  篠井さんが何を言おうとして、なぜこの同居を間違いだと思うのか。  気にはなるがなんにせよ、疲れた。  私はいつもの三倍の時間をかけて歯を磨きながら、来訪者の確認は怠るまいと自分に言い聞かせた。
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