4.過去は忘れて……

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 卓が歯を食いしばり、唇を戦慄かせて篠井さんを睨みつけるも、その目には涙が滲んでいる。  卓の私への想いが、俗に言う愛だとして、同じだけの愛を返せなかった私が悪いのだろうか。  卓が言いたいのは、きっとそういうこと。  違う。  卓は、自分の想い以上のものを求めていた。  そして、私の卓への想いは彼の望むだけの大きさ、重さではなかった。  人の気持ちは量れない、とよく言うが全く以てその通り。 「二度と夏依に近づくな。連絡もするな。夏依は、お(過去)を忘れて幸せになるんだ」 「なんでだよ! たった一回の浮気ぐらい――」 「じゃあ! お前は許せるか!?」 「はぁ――」  篠井さんがくるりと振り返り、私の目の前にしゃがむと、私の首筋に手を添えた。  なに――っ!?  身構える間もなく彼の顔が急接近してきて、何事かと目を見張る。  対して篠井さんは目を細め、けれど瞑りはせずに私の頬に唇を寄せた。 「な――っ」 「――シッ」  篠井さんの軽く弾んだ吐息が唇の端をくすぐる。  そして、気づいた。  篠井さんの大きな手の平で、卓からは私と彼の唇が触れ合っていないことがわからない。  目の前で他の男とキスをする私を、卓はどんな表情(かお)、どんな気持ちで見ているのだろう。  私は、目を閉じた。  卓に信じ込ませるためじゃない。  睫毛が触れる距離で、篠井さんの目を見続けるのが恥ずかしくなったから。  けれど、恐らくほんの一、二秒で私は瞼を上げた。 「なに、やってんだよ! やめろ!」  卓の声と共に、篠井さんの手が離れたから。  先ほどとは反対に、卓が篠井さんの襟ぐりを掴んで私から引き離す。  篠井さんは座っていたのではなくしゃがんでいただけだったから、簡単に尻もちをついてしまった。 「――って」  卓が涙を流して私を見る。  先ほどの、卓の唇の感触と恐怖を思い出し、ぐっと息を呑む。  同時に、手首を掴まれてゾッとした。  がそれも一瞬。  掴んだのは卓ではなくて、篠井さんだったから。  あとはもう、よく覚えていない。  どうしてそんなことをしたのか。
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