秘密のシノビクエスト

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 人というのは願い、祈るもの。  その形は様々で、祈りの仕方も様々で。まるで冷たい、あの星の輝きに手を伸ばすよう。  ──けれど結局、それらが叶う音沙汰なんざとんと無くて。  11月30日。午後8時55分。  そこはとあるビルの一室だった。都内某所。それなりに広くて、必要以上に華美で。  ギラギラとした装飾が、我鳴るように目に刺さる。都内某所、某月某日、妙に広いラブホテルの一室にて。  ──十数畳の一室は、死体と血の海で一杯だった。  「……チェックアウトだ。清掃を頼む」  数世代前の携帯端末越しに、男が告げた。血肉、屍体、数人の人生の残り香と、硝煙とギラついた得物の沈黙。  少し前まで、ここは戦場だった。とある男を守る、私兵の集団が、ただ一人によって破壊された。  デニムと、地味なパーカー。癖のある黒髪を程程に整える、特徴のない風体。青年と少年のあわいのような様子の──言ってしまえば男子大学生である彼が、この惨劇の主犯。  『了解しました、風間緑郎(かざまろくろう)様。当サービスのご利用、誠にありがとうございます』  そうとだけ告げて、ぶつりと途切れる。二つ折りの端末を閉じて、男──風間緑郎も、部屋の惨劇を横切りながら歩き出す。足跡、指紋、臭いの痕跡に至るまで、自分と言う証拠を微塵も残さずに。  平然と、血の海の中を、まるでどこかの救世主のように。  「…………」  ふと。  何気ない仕草で、テーブルの隅に置いてあった品物を掠め取る。音もなく、影もない仕草。そのまま緑郎は静かに、出入り口のドアノブに手を掛けて。  ──ヒュンッ。  何気なく、後ろ手に空き缶でも放るような手軽さで、緑郎の掠めた品物を宙を舞う。  豪速で。  「ぎぇ」  蛙でも潰されたような声が一瞬だけ漂い、すぐに部屋は沈黙した。血の海のなか、最後に一矢報いようと息を潜めていた私兵の生き残りが、頭にステンレスのナイフを突き立てられている。食器用の安物が、深々と。  「いい加減、この詰めの甘さは直さないとな」  緑郎は嘆息して、部屋を後にする。生命の痕跡は無くなり、完全な意味での沈黙が、街の夜に紛れて消えた。    ──風間緑郎は忍の一族だ。  戦国の世から連綿と紡がれ、磨かれてきた業を受け継ぐ稀有な存在だった。隠密、暗殺、破壊、謀略、工作を、現代社会に於いてなお秘密裏に完遂できる。  どこにいても目立たず、気取られず。誰もが目端に捉えているのに、誰の記憶にも残らない──そういう術を身に付けていて、おまけにどこを向いてもカメラばかりのちょっとした監視社会となった現代都市に在って、全身の像を映された事は無い。  だから誰にも、何にも見られずひっそりとホテルを後にして、通りの雑踏に易々と紛れ込む。緑郎にとっての日常、いつも通りの手順。パーカーのフードを上げ、11月の街風を肌に感じて。  「ふぅ、だる」  少しの悪態。外気温、肺に染み込む空気の冷たさもそうなのだけれど、今しがた終えてきた仕事の内容にも、緑郎は不満を感じてならない。  スキャンダル隠しか不正取引か、あの連中がどうして始末されるに至ったのか興味はない。命を落としてしまったことは、そういう巡り合わせだったのだと諦めてもらう他ないわけで。  それよりも、緑郎にとっての不満はこの仕事が急な飛び込みだったということ。そのくせ大したた稼ぎにもならないということ。忍のスキルは決して安いものではない。  そして何よりも、だ。緑郎は町中の時計を見遣る。時刻は9時を少し回ったところ。  「たく、もう。ステラのライブが始まっちゃったよ……」  緑郎は文句を垂れながらスマホを取り出す。会員限定の動画サイトにアクセスして、リアルタイムライブの項目をザッピングする。お目当てはとあるアイドルグループ、その名を「Stella.Groovy!」。  今をときめく五人組アイドルグループであり、各業界のレコードを次々に塗り替えた化け物グループでもある。歌を出せばトップセールス、CMを打つ商品は大ヒット、ドラマや映画は日々あらゆるストリーミングサービスの上位をキープし続ける。  それをデビューから、わずか3年足らずで成し遂げた彼女たちは、今やスターダムの頂点を極めたと言っても良い。実際、雑踏に紛れて歩く緑郎の、頭の上から流れるポップな歌も「Stella.Groovy!」の新曲だ。  ──今や、押しも押されぬトップアイドル。果たして、誰が知っていようか。  「Stella.Groovy!」不動のセンター、大狼美天(おおかみみそら)とこの冴えない男子大学生が友人だった、なんて。  そして唯一、自分の秘密を打ち明けた、忍びである事を明かした唯一人の女性であるなんて。  「有った……ん?」  今日はクリスマス前哨戦と銘打った特別ライブの日だった。クリスマス当日にも大規模なイベントが控えているが、観客動員の観点からかライブパートを2つに分けたらしい。  前哨戦とはいえ注目度はもちろん高い。チケットの枚数もクリスマスイベントと比べるとかなり少ないから、必然的に現地に行けない人が多くなる。大多数のファンはライブストリーミングで彼女達の勇姿を眺める事になるのだが──  「……動画が削除されました?」  回線のパンクでもネットワークの不調でもなく、ただその言葉だけが在る。サムネイルも決まり切ったようなバッテンの記号。  動画の名前は確かだ。ステラのライブである筈だ。動画の待機者数の桁が十万に登っているのもその証左である。  どうしたのか、と。緑郎が微かに首を傾げた直後、小さなバイブレーションと共に、スマホの画面に通知が踊る。  液晶パネルの上部、縦長の画面を出来る限り占有しないよう、それは慎ましやかに文字を映す。  『【速報】人気アイドルグループ「Stella.Groovy!」のメンバー、大狼美天さん死去』  「………………は、」  息が詰まる、時間が止まる。鼓動、呼吸、血流が一気に淀んだ。  同時に、辺りに響くけたたましい通知音。彩り豊かな機械音が、街の喧騒と一緒に我鳴るものだから、その様相はあまり不快だった。  頭上には変わらずステラの──彼女の歌声。週間チャートを乱雑に紹介する巨大モニターの上で緊急速報が飛び込んでいる。  そこに浮かぶのは、いま受け取ったものと全く同じ文字。大狼美天が、この世から消えてなくなったことを伝える、端的な情報。  同じように、今この国に住む全員が受け取った、本当に酷いニュースを、より強固にしようと、それは全国に電波を飛ばして。緑郎は呆然と、緩やかに人々へ浸透する彼女の死を眺めている。  所々で悲鳴が聞こえる。信号が変わっても車が動かない。音楽チャートの番組は臨時ニュースに切り替わり、誰も彼もが唐突な衝撃を対処しかねている。  緑郎は動かない。ほんの、ほんの数年前だ。すぐ手の届く距離に居た、彼女。  優しかったし、聡明だった。ただそこにあるだけで人を惹きつける、勇気づけることが出来る、そういう魂の持ち主。  ──ろくろーくん!  声が蘇る。鮮明に、色褪せず、あの夕暮れの校舎で、理由もわからないほど楽しそうに笑っていて。  ──ありがとう! この秘密、大切にするね!  一族の御法度を犯して、唯一人にだけ真実を告げた。欺く者、人殺し、そうなる運命の自分をただ、笑って受け入れて。  『……警察関係者の話では、美天さんは自宅のアパートで自殺を図ったと見られ……』  だからその言葉で、全てが巻き戻った。緑郎の意識が、ニュースキャスターの語る情報を精査する。  いや、するまでもない。  「んなわけねーだろ……!」  緑郎は混乱して足の鈍る雑踏を縫って、その場を離れた。出来るだけ自然に、可能な限り足早に。  スマホの画面を消し、ポケットに突っ込むと同時に、古びたガラケーを取り出す。先程、仕事の後始末を依頼したのと同じ端末。  二つ折りのそれを開き、メールボックスから掃除業者とは別の宛名を呼び出して、そこから新しくメールを作成する。ごくごく単純な文面を書き込み、宛名へ送るとすぐさまガラケーを閉じた。  『久瀬明(くぜあきら)、お前に話がある。あの店で会おう』  それだけだった。それだけで伝わる相手だと、緑郎は知っている。  後は諸々の準備だけ。一晩のうちに済ませる。そうと決めて、緑郎は人混みの中に消えた。    同時刻、とあるワンルームアパートの一室。  ピロリン、と。軽妙な音が、開きっぱなしのノートパソコンから鳴る。その正面、死にかけの文豪のように机に突っ伏して倒れる男がひとり。  手入れのされていない茶色いざんばら髪が、涎を垂らす顔に掛かる。不健康そうな体躯がディスプレイの明かりに照らされていて、そのままではまるで死人だ。  「んが!?」  どうにか続いていた呼吸のお陰で、男は飛び起きる。寝ぼけ眼のまま、暗い自室を見渡して、なんだよと悪態を付く。  「せっかく面白いプロット浮かんでたのに……初恋の幼馴染のお兄さんが教育実習生として学校と世界と女の子の為に怪獣に変身するみたいな感じのやつ〜〜たく誰だよおれのネタ出し邪魔したの……」  世間の困惑など素知らぬ様子で、男はぶつくさと文句を垂れる。そのまま手元のパソコンに目を向けると、メールボックスに新着を示す小さな数字。  つらつらと書き連ねた原稿の傍らに、慎ましやかに記されている。男は片目を眇めながらメールを開き。  「……へぇ」  簡素な文面の、端的な要求に、男は小さく笑って。  「ようやく連絡寄越したか。まったく遅いんだよ、ニンジャ野郎」  男は呟き、慣れた手つきで手元のタバコに火を付ける。安いワンルームの、雑然とした空間に、紫煙はくるくると薄く満ちていき。  この世で二人目、風間緑郎の真実を知る男──久瀬明はひとり、不敵な様子でタバコを楽しむ。  12月1日。午前10時。  衝撃の事件からひとつ夜が明けようと、世間は未だ混乱の渦中にあるようだ。  朝からのテレビ番組はどれも大狼美天の訃報が占めていて、ネットニュースも似たような状況。SNSでは匿名の事情通が憶測やら都市伝説やらをぶつけ合い、メディア媒体はさながら戦場の様子だ。  誰も彼も自前の銃弾を乱射しながら、それらしい事実も明らかならず、全体まるで事態が見通せていない。戦場の霧、なんて言葉は誰が言っていたか。  「もの好きだねぇ、世間の皆様は」  老舗のファミレス『ハットリダイナー』の一角、通りを行き交う人の様子がよく見える、至って普通の窓際で、男は面白そうに苦笑する。  気だるげな眼、ぼさぼさのざんばら茶髪。くたびれたシャツとジャケットがせめてもの御めかしといった風情で、男──久瀬明はゆったりとソファに身を沈めながら、何本目かのタバコに火を付ける。  片手のスマホで眺めるのはSNS、ではなく。益体の無い情報の群れはひとまず置いて、久瀬はつらつらと画面に文字を打ち込んで行く。  日課の、新作脚本の執筆。アイデア出しも兼ねた乱文を書き連ねる。王道の恋愛、ヒューマンドラマのプロットから飛んだ設定のSFコメディまで、種々雑多に。  目の前のテーブルには巨大なガラスの空器。『ハットリダイナー』名物の「ビッグ徳川パフェ」が在った名残が結露の光を返す。午睡をすら誘う昼下がり、行きつけのファミレスは。  「──んで? 何時までおれの様子を探ってるつもり?」  ふと、何の気も無いように言葉を溢す。向かい合う席にも、隣にも人影はないのに、明確に誰かへと向けた台詞。  反応するのは久瀬のすぐ後ろのテーブルだった。案の定、とでも言いたげに、わざとらしいため息を落とす。  「……ぼくに気付いていたならまず声を掛けるのが礼儀じゃないか?」  「ここ数年音沙汰ゼロの人間がなに言ってんだ。友人関係に頓着がない友達にはちゃんと意趣返しするタチなんだよ、おれって」  「…………ぼくと君は“共犯者”だ。友人ではない」  ぶっきらぼうに訂正する不機嫌な男と、ふざけた絡みで返す男。紫煙を漂わす陽気な物書きに、影をも落とさぬ男子大学生。  相反する属性の二人は、その事実の通りソファを挟んで背を向け合う。それすら楽しむように、久瀬は煙を一息はいた。  「んで? まるっきり跡形も無く“おれたち”の前から消えたお前さんが、どうして今になって連絡寄越したよ? 絶滅危惧種のニンジャ野郎?」  「そんなのは分かりきってるだろ? 鳴かず飛ばずの三流作家め。彼女のことだ」  背を向けながら、視線だけは背後に遣って。風間緑郎は目の前の冷めきったコーヒーを眺めながら続ける。  「単刀直入に聞くけど、彼女が自殺するような人間に見えたか?」  「高校時代に関して言えば、まずあり得ないね。明朗闊達、眉目秀麗、運命感じちゃう美人さんなのにお日様見たいに寛容だ。名前にちなめば、星明かりと言うべきかな?」  「じゃあこの事件は偽装だな。それだけ確認できれば良い」  やはりなと、緑郎はきっぱりと断定する。後は行動あるのみと言わんばかりの決然さで、据え付けられた店のソファから立ち上がろうと身を捩り。  「まあ待てって。まだコーヒーも飲みきってないじゃん?」  まるで見越したかのように、先回りする久瀬が緑郎の肩を押さえた。もうちょいゆっくりしていこうぜ、なんて飄々と告げて、緑郎の正面に腰を下ろす。  ──この男の、こういうところが心底気にくわない。不真面目で不合理で不義理なくせに、物事の真理に肉薄するのが抜群に上手い。  そうなると分かっている行動しか起こさない。起こさせない。相手を良いだけ苛つかせ、もったいぶって煙に巻かれたと思ったら、全部掌で転がされているような感触。  デリカシー皆無が服を着ているような存在なのに、なぜか彼女との仲は良かったのも、そういう性質が関わっていたのだろうか。当時は妙であったけれど、どことなく腑には落ちる。    高校三年生、当時の文化祭。クラスの出し物であるオリジナル演劇を、とある有名プロデューサーの目に止まらせたこの男の脚本は、つまるところそういう自らの性質を遺憾なく発揮した事例とも言える。  物事の真理をするりと見いだせてしまうから、本物を作れるのだろう。だからこそ、二十歳そこそこの駆け出しでありながら多くの脚本賞獲得できた。  きっと、だからこそ彼女は──大狼美天は久瀬明を買っていたのだろう。  出し物の演劇、その主役は美天であり、彼女もまた、その舞台で自身が本物であると証明したのだから。    「ま、単刀直入に言えばさ、おれも緑郎の意見には賛成なんだよ。美天が自分から死ぬような人間じゃないのはさ」  「当たり前の事を確認するなよ。それを言うために引き留めたのか?」  時間の無駄だな、と。辛辣なため息をつく緑郎。  まあ聞けって、と。宥めすかして二本目のタバコに火を付ける久瀬。  そのまま続けて。  「でもさ、おれ達は高校までの美天しか知らないだろ? あの劇で大手事務所の内定貰って、アイドルとして爆速でスターダム上り詰めてさ。こないだまで女子高生だった人間にはかなり荷が勝ちすぎてる。ここ数年の激動が彼女を変えた、その可能性はあるんじゃないのか?」  「それは一理あるかもしれない。だがそれを飲み込む器があることもぼく達は知ってる筈だ。でなきゃ、ぼくとも君ともまともに付き合えちゃいない」  「ここ最近は連絡取ってなかったがね。実際嫌われてると思ってたが」  「だったら面と向かって、なんなら書面に認めて堂々と宣言でもかますだろうさ。それだけ真っ直ぐだから、ぼくは自分から秘密を明かしたんだよ」  冷めたコーヒーを一口啜る。熱は無いけど、どこか温かい気分になる。高校生の時分からの行きつけ。飲み慣れた定番の味。それは一時の、輝かしい思い出と共にある。  風間緑郎の人生に於いて、最も尊い時間と共に。それを象徴する友人の死を、その真相を知りたいと思うのはごく自然な成り行きだ。  それを互いに了解しているから、久瀬明はいまこの店に居て、試すように言葉を投げている。言った通り、それは時間の無駄である。  「何を言われても、これからの行動指針は変わらない」  緑郎がきっぱりと告げた。その言葉が何を意味するか分かっている久瀬は、苦く笑いながらタバコを揉み消す。  「だから悪いが巻き込むぞ。君の父親は警察官僚だったろ? 彼女の死亡当時のデータが欲しい」  「そこは自分で取りに行けよ。ニンジャだろ?」  そう言って、久瀬はおもむろにズボンの後ろポケットを探る。目当ての物を引き出し、雑な手付きで投げて寄越す。    雑に畳まれた封筒に、書類とは違う歪な膨らみが浮かぶ。重みは殆どない。せいぜい、手帳一冊分、といった程度。  「……悪いな、久瀬」  「おれに連絡寄越す時点で、お前さんの行動は見えてんだよ。せいぜい気を付けて行けや」  捨て台詞か、激励か。久瀬が肩を竦めると同時に、緑郎はカップに残ったコーヒーを飲み干して席を立つ。  足早に店を後にして、その様子に誰も気付かない。コーヒーの勘定は済んでいるらしいところが、なんと言うか変わっていないなと、久瀬は笑う。  生真面目で、頑固。闇に生きる宿命のくせに曲がったことが気にくわない、苦労しそうなその人生。なんとも、ままならない生き物だ。  ある意味、悲しい人間、でもあるのが、なんとも──  そう思いながら、久瀬は小さく手を上げて店員に告げる。  「すみませーん。「ビッグ徳川パフェ」おかわりー。お代はさっき居なくなったあん野郎につけといてー」  12月2日。午後1時過ぎ。  そこからの準備、そして出撃までは、ほとんど一両日での話だった。    緑郎の受け取った封筒に入っていた偽造の警察手帳、施設内IDと、もうひとつ。道具の揃った緑郎が向かう先は、おそらくこの国で最も警備の充実した施設。  都内。警視庁本部庁舎。およそ余人が立ち入る場所ではなく。  その只中を、素知らぬ顔で歩く緑郎。普段着のパーカーではもちろん無く、安物のスーツを身に纏い特徴のない黒淵メガネを掛けて、本部庁舎の中を闊歩する。  誰の目にも止まらず、誰の意識にも残らず。ロビーの幾人かと一瞬だけ目が合おうと、彼ら彼女らは緑郎を一瞬たりとて覚えていない。  入り口の守衛、受け付け担当、スーツの決まった女刑事にがたいに恵まれた機動隊員らしき男。そうした人々とすれ違い、忘れられる技能を習得している緑郎は施設内を進んでいく。  目立たないように堂々と、気付かれないようつぶさに目配せしながら。騒がしい部署同士のあわいを抜け、複雑な廊下を渡り、特定のエレベーターで地下室へ。  そこが証拠保管庫であるらしい。そのエレベーター内部で、緑郎はようやく封筒に残された最後のアイテムを使う。  「……聞こえるか? 久瀬」  『良く聞こえてるよ。いまどこら辺だ?』  取り出して、耳に装着するのはごく小さなイヤホン。耳の中で隠れるサイズの小ささではあるが、盗聴防止のついたハイエンドな通信機だ。  米軍で使われる類いの代物。用意するにしても、色々と見越しすぎである。  「いま証拠保管庫に向かってるところだ。証拠の現物以外に、データ類もそこで揃うだろう」  『おいおい……道案内用にそれ持たせたんだけど? 一人で解決されたらおれの出る幕ねーじゃん』  「職業柄、飛び込みでの情報収集は手慣れたものでね。じゃあどうする? 外して後日郵送でもする?」  『せっかくここまで来たんなら最後まで見届けさせろよ。応援くらいはしてやるから』  それはどうも、と。緑郎が返す直後にエレベーターの鉄扉が開く。数メートルと伸びる廊下、蛍光灯が照らす先に管理者が居座る小部屋の窓がある。  そこで受付を済ませ入庫の許可を得るのが通常の手順。その為の警察手帳である。緑郎はおもむろにエレベーターを降りて、管理者室の前まで歩み寄る。  けれど。  「?」  微かに首を傾げる緑郎。顔が見える程度の大きさの小窓の向こうには、誰の人影も無い。  トイレ休憩だろうか。窓から覗く事務机に置かれた湯呑みから、新しい湯気が立っている。ひと一人、休憩に使える程度のスペースと外に通じるドアだけの空間に、何者の気配はない。  好都合ではある。けれどそれが一番の問題だ。  『どうした?』  「管理人が居ない。交代の合間か、休憩の時間か」  『じゃあ少し待って出直しだな。そのうち帰って──』  ガギン、と。甲高い金属音。  イヤホンに仕込んだ通話機能越しでもきちんと聞こえる、はっきりとした手応え。何が起きたか、何となく察してはいるけれど、なんと無しに久瀬が訊ねる。  『何でやねん』  「嫌な予感がするからな。実利優先だ」  『そこ警視庁なんですけど? 不法侵入のうえ施設破壊は許されざるでしょ~~』  呆れ返った久瀬を他所に、証拠保管室の鍵を壊して緑郎が中へ入る。監視カメラの類いは無いと確認はしている緑郎は、大胆に室内を進む。  スーパーの陳列風景か、ホームセンターの迷路のように、書類棚の山脈がズラリと広がる。3メートル弱の天井まで伸びる棚の中には、ぎっしりと保管目的の段ボールが詰められていて、その一つ一つに別個の事件の証拠品が納められている。  つまりは警察としての歴史、と言っても過言ではないわけだ。そう思えば地下室としてのかび臭さ、段ボール特有の紙の匂いとは別に、何か言い知れない異様さが澱として漂っている気がする。  実際、それとは別にここの空気は何かだ。まるで自分の“仕事場”のよう。  「……これで全部か?」  書類棚の奥から声がする。広大な室内を占める、寒い蛍光灯の灯りにぴったりの酷薄とした声。緑郎は戸棚の間に隠れながら声の方向を確認する。  男が二人、デスクトップPCを使って何かをやっている。かたかたとキーボードを叩く音、冷却ファンの無節操な駆動音、モニターから照らされる淡い青色の光も含めて、雰囲気が不気味だ。  それに剣呑である。PCを操る初老の男は見るからに怯えきっていて、その傍らで手を着きながら監視する男はその大きな体格を使って威圧している。  初老の男は震えながら喋る。  「は、はい。これで全部です……データのバックアップも全て呼び出しました」  「良し、重畳だ。ではそれを全て消してくれ。代わりのデータはこちらで用意してある」  威圧する男は小さなUSBメモリを取り出してこう続けた。  「これで大狼美天の事件は終わりだ」    ────ッ。  にわかに緑郎の心が泡立つ。この状況、この言動、このあまりに後ろ暗い一連の場面。  なにもかも“そう”なのだと理解した。最初の疑念は嘘ではなかった。ある種の陰謀論ではあるのだけれど。  ──大狼美天は何か大きな出来事に巻き込まれて殺された。  「し、しかし……!」  初老の男が抵抗を示す。  「これは隠蔽ですよ? 捜査に不備は無かった筈なのに、これではただのペテンに……!」  ばきり。  言い終える前に、思いきり殴り付けられる初老の男性。呻き声を上げながら固いタイルの床に叩き伏せられる。  「まったく、愚図め。責任感だけは強い閑職はこれだから」  苛立たしげに冷たい言葉を落とす。続けて。  「言った通り、お前の家族はきっちり「処理」してやる。我々に逆らったことを後悔するが良い」  分かりやすく、的確に、きちんと冷酷だ。きっとこの殴り飛ばされた男性はこの保管庫の管理人で、その人を脅して無理矢理押し入ったのが図体だけはでかいこの野郎。  天下の警視庁本部庁舎で起きて良い事態じゃない。そも、我々、ということは組織らしい。状況のキナ臭さは度を越えて加速している。  ──気になるところは多いが、まあ、ともかく。  既に緑郎は酷薄なその男の背後に立っていて。  鋭く右足は蹴り上げる。無駄に腰の高い、その股ぐらに。
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