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Prologue.
平凡な日常というものが、いともたやすく崩れ落ちるものだと、恐らくこの世界に生きる殆どの人々は理解している。
だが、「理解している」からと言って、それが自身の身に降りかかるものだと想像し、最悪な事態を想定し続ける事が出来る人は、一体どれ程いるだろうか。
少なくとも、この時の俺にはそれができなかった。
ただただ幸せだった。だからこそこの悲劇を想像する事ができなかったし、これから先に待ち受ける不幸だって、彼女となら乗り越えていけると信じてやまなかった。
だけど、現実は非常だ。
冒頭で語ったように、理解している癖して心の奥底にある慢心が歪めてくる。
そのせいで俺は、大切なものを。
妻を、そしてその妻のお腹の中にいる子でさえも、失う事になった。
:
遠く離れた場所から聞こえてくる、人々が狂乱する声。
その声は何処からともなく轟いており、人の声なのか、この世界に巣食う化け物の鳴き声なのかはわからなくなっている。
そうした人々の泣き叫ぶ声が耳朶を叩く中、俺は真っ赤に燃え盛る家と、屋外に投げ出された愛する妻、その上から覆い被さる化け物を……霞みつつある視界の縁から眺めていた。
全身が紫色の外装殻で覆われた、全長凡そ3mはある巨大な化け物。
元が人間であるその化け物は、肥大化した肉体で妻を押し潰すように覆い尽くすと、陰部より伸縮された鋭利なソレを、大きく膨らんだ妻の腹部目掛けて突き刺した。
グチュリとした肉を引き裂く音が響き渡る。
何かを仕込むように脈動するソレは、すっかり動かなくなった妻を、内側から死色に染め上げていった。
「……やめろ」
ふいに漏れ出た声は、腐敗した人体に寄生する化け物の呻く声と、周囲を這うように飛び回る羽虫の音よりもか細く、頼りない。
上下左右に揺れ動く化け物は、遠雷の如く響いてくる人々の叫び声に共鳴するように雄叫びをあげた。大気を震わせるその咆哮は、「妻を救わなくては」と、折れた腕や足に力を込めて立ちあがろうとした俺の心を、いともたやすく打ち砕いた。
妻は正気を失った瞳で、此方を茫然と見つめていた。
俺は、そんな彼女を見つめ返すばかりで、ある程度まで楽しんで、満足した化け物が立ち去るのを待つ事しか出来なかった。
しかしその化け物は、何度も何度も妻を汚した。
快楽の為か。それとも種を残すためなのか。
どうでもいい。
化け物が妻を襲う理由なんて、数時間前までの俺は考えもしなかった。
俺が今、そんな考えに思考を向けているのは、目の前の現実から逃れるための、苦し紛れの逃避でしかない。
そんな地獄の光景が、どれだけ続いただろう。
わからないが、気がついた時には化け物は姿を消していて、目の前にいるのは、グチャグチャにされた腹部を摩っている妻の姿だった。
俺は匍匐で、彼女の元へと向かう。
折れた腕で前に進む度に激痛が走る。しかし、こんな痛みなど、妻が受けた痛みに比べれば、虫に刺された程度でしか無い。
俺は何とか妻の元に辿り着き、彼女を抱き寄せる。
妻は全身から血を流しており、化け物によって汚された腹部には、奴から排出された体液と、大量の血液だけが残されている。
あれだけ大きかった妻のお腹の中には、何も残されてはいない。
しかし妻は、完全に無くなってしまったお腹を摩るような仕草をしながら、俺に語りかけてきた。「赤ちゃんは無事?」かと。
「ねぇあなた。さっきからおかしいの。いつもなら蹴ってくるのに、いくらお腹を撫でても、反応が無くて……」
虚な目で此方を覗き込む彼女は、もうこの世界とは別の世界にいるように見えた。まるで子供の後を追いかけるように、彼女はこの世からいなくなろうとしている。
そんな事はさせない。まだ、何とかなる筈だ。
医者に診せれば、もしかしたら彼女を治せるかもしれない。死の淵に立つ彼女を、救う事が出来るかもしれない。
何としてでも救い出してやる。
お前も子供も、必ず俺が救ってやる。
──淡い期待だったと、今でも思う。
完全に現実から目を逸らしてものを言っている、愚か者の所業とすら感じてしまう。
しかし、この時の俺は正気じゃなかった。
だからこそ本気で彼女を救えると思っていたし、それこそ化け物によって殺された子供すらも、医者ならば救ってくれるんじゃないかとすら考えていた。あまりにも愚かだ。滑稽にも程がある。
妻が目の前でいたぶられているのに、妻の身代わりにすらなろうともせず、事が済むのを待っていた屑が。自分では何も出来ないからと、神と勘違いしているのか、医者にさえ診せれば何とかなるだなんて。
──そんな、あまりにも愚かな男に罰を与えに来たのか、俺の目の前に現れたのは医者でも神でも無く……真っ黒に染め上げられた巨大な鎌を持つ死神だった。
「……何だ、お前は?」
震える声で、深くフードを被る白髪のソイツに尋ねる。
男か女かもわからない。ただ、あまりにも物騒なものを手に携えている事がわかり、俺はグッタリとしている妻を抱き寄せる。
今度は絶対に離さない。彼女は俺が守るんだと。
するとソイツは、俺に一瞥をくれた後に、妻の頭を掴んで、俺の腹部に蹴りを叩き込んで突き放す。
数メートル程転がされた俺は、何が起きたのかを理解するまでに時間を要した。だが、すぐに奴が敵である事に気付き、折れた足を問答無用で立たせて駆け出した。
焼きつくような痛みが脳天に直撃するが、そんなことはどうだっていい。妻を守る。絶対に救うと決めたんだ。今ここで俺がどうなろうと構わない。何としてでも彼女を救う。
「馬鹿だなアンタは。もう助かる訳ないだろ」
──そんな俺を嘲笑うかのように、ソイツは携えていた大鎌を振るい、妻の首を刈り取った。
「……ッ!!」
ボトリと。
遊びに飽きた子供が投げ出したボールの如く捨てられる妻の頭。それを目の当たりにした俺は、これまでの人生で出した事のない声で叫んだ。
まだ助かった。
まだ何とかなった。
息をしていた。
目も開いていた。
……医者に見せれば、彼女はまだ何とかなった筈なんだと。
それなのに奴は、妻を殺した。
俺は覚束ない足で奴の元まで走る。
殺してやろうと思った。散々苦しんで、子供まで殺されて、なす術も無かった妻にとどめを刺したこの奴を。
しかし奴は、人間とは思えない身のこなしで、瞬時に俺の懐に入り込み、一発、二発と拳を叩き込まれる。
力無く倒れ伏した俺に侮蔑の視線を送りながら、ソイツは妻の亡骸を抱きかかえて、何処かに連絡をしていた。
「──ダメです。死んでます。……男? ああ、生きてますけど。どうします? 殺しますか? ……はい。わかりました」
通信を切り、苛立った様子で舌打ちをしたソイツは、振り向き様に呟いた。
「……何だよ。ぜんぶウソじゃないか」
寂しげに吐き出されたその発言の意味はわからない。
「何が、『守ってくれる人がいる』だよ。何も守れちゃいないじゃないか」
奴はそう言うと、適当に投げ捨てた妻の頭を拾い上げ、遺体と共に運んでいった。
「待てよ……! どこに連れて行くつもりだ……? 返せ。妻を──ユキを、返してくれ……」
何とか振り絞り出した声が届いたのか。
奴は再度こちらを振り向き、怒りや悲しみ以上に「裏切られた」という感情を思わせる声音で言葉を紡いだ。
「──殺すなって言われたから見逃してやるけど。今度また俺の前に現れたら、その時は俺の独断でお前を殺してやる。それがわかったらとっととこの場から消え失せろよ、何も守れないゴミ屑野郎が」
彼はそれだけを言い残すと、妻の遺体を手にその場から立ち去ろうとする。
……ふざけやがって。殺してやるだと?
「……こっちのセリフだ」
先ほどは出なかった声が、今度は明確な殺意となって吐き出される。
「次会った時は殺してやるだと……? 上等だ。だったら次、もしもお前と会う時が来たらその時は……! 俺が、お前を殺してやる……!」
「…………」
吐き出される怨嗟に、そいつは一度だけ立ち止まる。しかし奴は此方を振り向く事は無く、そのまま歩き始めた。
:
──それから5年後。
電子端末から鳴り響く、けたたましいアラーム音に叩き起こされた俺は、二回目のアラームがなると同時に音を消し、体を起こした。
「……また、あの時の夢か」
俺は体を見下ろし、真っ白なシャツが汗に濡れ、ベッドのシーツにまで浸透している事に気付いて肩を落とす。
これは呪いだ。この先、どれだけ生きたとしても、決して消える事の無い痛みや苦しみとなって刻みつけられた、一生をかけたって消えることの無い呪いなのだ。
5年前に起きた悲劇は、俺を決して手放さない。
当然、俺の方も手放す気はなかった。この痛みは、この苦しみは、俺がこの先も生きていく中で必要なものだからだ。
そう自分に言い聞かせながら、枕元に置いていた視覚抑制鏡をかけ、さっさと身支度を済ませる。
適当に朝食をとっていると、端末から一通の通信が入る。俺はそれを軽く確認し、殆ど何も置かれていない、必要最低限の家具だけが配置された殺風景な部屋を後にした。
「……はい、ユウリ・オルブライトです。どうしたんですかドット部長。朝からそんな慌ただしい声を出して」
『どうしたんですか、じゃないわ馬鹿者! 今すぐにこっちへ来い! 今度は東地区に現れやがった!』
「東地区? そこって確かレイの担当地区では?」
『そのレイと通信が取れないんだよ! クソッ、朝っぱらからこれだ……! こっちはまだ昨日の酒が抜けてないってのによ!』
「それは知りませんが……なるほど、わかりました。このまま東地区に向かいます。カミルをそこに向かわせて下さい。現場で合流するんで、敵の──BIRTHの情報を端末に送っておいてください。では」
『お前、そのまま向かうって、銃は──』
端末越しに轟く上司の怒鳴り声が喧しくて、通信を切断する。朝っぱらから面倒な事件に巻き込まれたが、これも仕事だから仕方ない。
それに、これこそが俺の望んだことでもあるんだ。
俺は奴らを、【BIRTH】という存在を、この世から殲滅しなければならない。
俺から妻を、子供を、家族も友人も故郷も、何もかもを奪い去っていたあの化け物共を。この世から一匹残らず始末する。
ホルスターに閉まってある改造式ベレッタ銃のグリップを撫でる。5年前に襲われたあの時、これさえあれば、妻を救えたかもしれない──
そんな幻想を胸中に抱えつつも、救えなかった事実を噛み締めつつ現場へと駆け出した。
いくら現状を嘆いたところで妻は帰ってこない。奪われた命も居場所も、奴らをこの世から殲滅しなければ、この先もずっと、俺のような痛みや苦しみを背負いながから生き続ける人々を量産し続けるだけだ。ならばこそ、俺がその苦しみの連鎖を断ち切らければならない。
……それに、この5年の間、ずっと考え続けていた事がある。それはあの時、妻の首を切り落とし、遺体を持ちさった白髪の人間。
そもそもアレは人間だったのかどうかも怪しいが、アイツは一体何者だったのだろうか?
「……どうでもいいか」
一度立ち止まり、軽く嘆息する。
5年前から続くこの呪いは、どこまでも俺を押し留めようとし、突き放すように背中を押してくる。
一生続いていく地獄に振り回される運命なのは承知の上だ。俺はそれを理解した上で、この地獄の中に足を付けているのだ。
故に俺は考える。あの時の悲劇が仕組まれたことならば、俺にはそいつらを地獄に叩き落とす義務があると。いや、むしろそれこそが俺に課せられた使命なのではないかと。
BIRTHは必ず殲滅する。そもそも地球にいなかった外来種共だ。我が物顔で他種族の暮らす大地を踏み荒らし、多くの命を奪っている。殺さない道理が一つも無い。
だが、もし人間側にもBIRTH同様に死を撒き散らすモノがいるとすれば?
……もしそんな事があり得るのだとしたら、たとえ人間がやった所業だとしても、守るべき対象の中に含まれていたとしても、俺は必ずソイツらを皆殺しにするだろう。
等と、湧き立つ怒りや殺意に押されてか、俺はいつの間にか腰にあるホルスターからベレッタを抜き、その引き金に指先を当てていた。
「……これも、奴らBIRTHの細胞によるものか?」
すっかり人では無くなった自分自身の肉体を見下ろした後に、俺は脳裏に蔓延る呪いを振り払うようにして駆け出した。
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