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「やめろ……やめろぉぉぉ!」
ゴッという鈍く重い音が部屋に響いた。
全身黒をまとった男は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。続いて大理石でつくられた灰皿が床に打ちつけられる。
白色の灰皿にはべったりと深紅のバラのような血がへばりついていた――。
入口付近にあるスイッチに触れると、電球がチカチカと瞬く。そのままじっと見つめていると、ようやく落ち着いたのか部屋全体をあたたかい光が照らした。
「時生ー、そろそろこれ交換しないといけないんじゃない?」
部屋――もとい事務所を通り抜け、廊下につながる扉を開け放ち奥の部屋に向かって声をかけた。この探偵事務所は雑居ビルの2階に位置し、階段を上がってすぐが客を迎え入れる部屋、そして部屋の奥の扉を開けると廊下を挟んでキッチンがあり、その横にここの社長である時生喩佳利の住処が鎮座している。
「じゃあおまえが買って付け替えといて」
ややあってそう返事が返ってくる。
「それぐらいは自分でやれよ」
「社長の僕に買い出しをさせる気か?」
「……そんな偉い人には見えないけど」
と反論はしてみたものの、結局俺がやることになるんだろうな……
この事務所で助手として働く俺、伍大嘉晴は、いつ電球を買いに行こうかと考えながら天井を見上げる。
やや寝ぼけた様子で自分の住処から出てきた時生は、大きめのノーカラーシャツと、ネイビーのテーパードパンツからすらりと伸びた手足を動かし、俺の脇を通り過ぎると事務所の入口まで歩いていく。目にかかるくらいの黒髪を真ん中で分けると、精巧に作られたガラス細工のような顔が現れた。
昼間客が来ていないときは明かりを消しておくか、とつぶやいた時生はスイッチをパチっと押し、たった今つけた電気を消す。
作業をするには足りる明るさとはいえど、周りをビルで囲まれた事務所に入ってくる陽の光は少し心もとない。
薄暗くなった部屋のソファに寝転がった時生は、目元をこすりながら俺に話しかけた。
「伍大、メンテナンスには行ったのか?」
うっ、と思わず声が漏れる。
メンテナンス。
人工知能が搭載された人型のロボット、"MoO.R"。
見た目は人間と区別がつかないくらい人間らしく、会話や動きにも何の違和感も感じられない。現在は大手の企業を中心に、人に代わる働き手としてさまざまな分野で導入されている。
そしてMoO.Rの最大の特徴は、心をもつロボットであるということだ。
笑う、喜ぶ、怒る、驚く、泣く……など、人工物であるロボットからは最もかけ離れたものを持つMoO.Rは、革新的な発明として開発した企業「ハマナ」とともに一躍有名になった。
俺はそのMoO.Rの端くれである。
精密機器なので最低月1回のメンテナンスが必要なわけだが……
「だってあの整備士さぁ……」
無精髭をたくわえたつなぎ姿の男を思い浮かべる。
バラバラにして捨てられていたらしい俺を、組み直して使えるようにまでした整備士。腕はいいのだろうが、いささか機械に対する姿勢が熱狂的すぎるというか……
「行くたびにやれ改造していいか、やれちょっと分解させてくれだの、めちゃくちゃ怖いんだよ……!」
「いいんじゃないか。腕に虫眼鏡でもつけてもらえば」
「いいわけあるか!」
探偵といえばの服装である鹿撃ち帽とインバネスコートを身にまとい、腕から虫眼鏡を生やした自分を想像する。あまりにまぬけなフォルムに頭を振っておかしな探偵を追いやった。
「前回からもう1ヵ月以上たってるだろう。さっさと行ってこい」
「はい……」
「そのついでに電球も買ってくればいい」
ついでというか、電球を買わせるのが目的だなこいつ……。
好き勝手にこきを使う雇用主をジト目で見ながら、表のドアにかかったプレートを「営業中」に変えるため、外に出ようとドアノブに手を伸ばす。そういえば昨日の台風で落ち葉が階段上にまで上がり込んでいた。あとで掃除しとかないと――と考えていたその瞬間、ドアノブが動いてゆっくりと扉が開かれた。
扉の向こうに現れたのは、少し長めに切られた前髪を指でいじる、まだ幼さが残った少年だった。
「これを直してほしいんです」
そう言って差し出されたのは、数年前に流行したアザラシのようなかわいらしい動物型ロボットだ。お年寄りや子ども、ペットを見守るかわいいともだち!……といった文言で売られているよくある製品のひとつ。このロボットの他社と違う点は、異変を感知すると録画モードになる機能がついているということ。
事務所を訪ねてきたのは中学生の依頼人、満宗千颯だった。白い半袖のシャツに黒いスキニーデニムをまとった彼は、探偵事務所という非日常の空間にいささか居心地の悪い様子だ。
時生がロボットを手に取り、くるくると回してさまざまな角度から観察する。サッカーボール大のそれには、大きなへこみや細かい傷が見受けられた。ひと通り見た後、ロボットを机の上に置いて依頼人に向きなおる。
「わかりました。しかし、専門の店ではなくうちで修理するとなると、時間も費用もかかると思いますが……」
「問題ないです。お願いします」
「……」
時生は考え込むように下唇を親指と人差し指でむにむにと挟む。
ロボットの修理費用は馬鹿にならない。中学生に支払い能力があるかを判断しかねているのだろう。
不意にコトッと何かが置かれた。緑色をした革製の直方体。依頼人が箱をぱかりと開けると、中から銀色に輝く腕時計が現れた。
「ブランド物の時計です。もう製造されていない型なのでそこそこの値はします。これは前金。依頼がうまくいけば、この倍はするものを差し上げます」
ブランド物……中学生の持ち物にしてはいささか高級品が過ぎる気がする。
しかし、依頼人はそれを気にする様子もなく続ける。
「金さえ払えばなんでもやるし、こちらで依頼したことはどこにも漏らさないってサイトに書いてありましたよね?」
依頼人の語気が強くなる。……依頼したことを他人に知られるのがそんなにまずいのだろうか。たしかにうちの社長は大抵のことはするし、金にがめついけれどいくらなんでもこれは……。
空になった依頼人のグラスを回収するついでに、ちらっと時生を盗み見る。
唇を挟んでいた手が止まり、片方の口角がくいっと上がっていた。
「お引き受けしましょう!」
あぁ……駄目だ。完全にきらきらの腕時計しか目に入っていない。早速箱を手の中に収め、意気揚々と依頼人に記入してもらう書類を並べる。
「それではこちらの書類に必要事項を記入してください。ああ、それと未成年の方は保護者のサインをもらう決まりになっているので、この同意書をお持ち帰りください」
流れるように説明を始める時生。鼻歌でも歌いだしそうな勢いだ。
同意書の部分で、一瞬依頼人の表情が曇った。しかし、すぐ何もなかったかのようにはい、と返事をして同意書を受け取る。書類の記入後、依頼人は小さくお辞儀をし扉を開けて出ていった。
「いや……おかしくない!?」
扉が閉まり、依頼人が遠ざかったのを見計らって時生に訴える。前金として置いていったあの時計は、あきらかに依頼人の物ではない。おまけにロボットの中に入っているデータを知られたくないようだった。
「何もおかしくはない。時計はおじいさんの形見を譲り受けたのかもしれないし、写真や動画だって他人に見られたくないものぐらいある。」
机の上のロボットを軽くポンポンとたたき、持ち上げてこちらに寄越す。本来丸くて愛らしい目が表示されているだろう部分は、相変わらず真っ暗なままだ。時生は先ほど書かせた書類をスマートフォンに読み込むと、椅子から立ち上がってジャケットを羽織った。
「出かけるのか?」
「腕時計の査定をしてもらってくる。ロボットはおまえに頼んだ。しっかり直してくれ」
「は!?いや、ちょっと……」
俺が言い終わらないうちに、無慈悲にも扉は大きな音を立てて閉まったのであった……。
人使いが……いやロボット使いが?……荒すぎる。腕時計の金額を心配する前にもっとやることがあるだろう。
ぶつぶつ文句をこぼしながらも、コードをロボットと自分の背中にある接続口につなげる。一般に流通しているようないわゆる“働きロボット”は、自分の仕事しかできない。お掃除ロボットに料理をことが作るできないように。しかし、人型のロボットは人間にできる動きに加えて、機械への接続も可能だ。
どうにか起動を試みるも、アザラシは何の反応も示さない。
じっと2体は見つめ合う。もっとも、はた目には人間が液晶画面をのぞいているようにしか見えないのだが。
「……電球でも買いに行くか」
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