5 心の傷

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5 心の傷

 幼かった頃、浩介の苗字は「坂崎」ではなかった。  松井(まつい)…それが浩介が3歳までの苗字である。  母は時江(ときえ)といい、20歳で浩介を産んだ。  しかし、女優を目指して上京をした彼女にとって、一晩限りの相手の子を身籠もってしまい、処置を迷っているうちに産まざるを得なくなってしまった…という事情で生まれてしまった子だったらしい。  覚悟も、自覚もないうちに母になってしまった彼女は、それでも浩介が3歳になるまでは頑張っていた。が…結局、女優になりたいという夢を捨てきれずに、坂崎家に嫁いだ姉の美江(よしえ)に、浩介を預けて姿を消したのだ。  大人になってから事情を聞き、今となっては納得は出来ないまでも、頭では理解はしているが…当時3歳だった浩介にとって、なぜ自分が置いていかれたのか理解が出来ずに、しばらく泣き暮らした。  ご飯も食べずに泣き暮らし、栄養失調で入院…そのベッドで、やっと母は帰ってこないのだと、理解した。  幸いなことに、引き取ってくれた坂崎の両親が、その後生まれた弟と浩介を分け隔てなく育ててくれたおかげで、苦労することもなかった。  だが、どこかで、母に捨てられた自分…という傷が、心の片隅にあるのも、事実なのだ。  どうして、今更……。  おそらく、あの木は実の母、時江だろう。  浩介は突然現れた母の影に戸惑いを隠せなかった。    
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