9人が本棚に入れています
本棚に追加
5 心の傷
幼かった頃、浩介の苗字は「坂崎」ではなかった。
松井…それが浩介が3歳までの苗字である。
母は時江といい、20歳で浩介を産んだ。
しかし、女優を目指して上京をした彼女にとって、一晩限りの相手の子を身籠もってしまい、処置を迷っているうちに産まざるを得なくなってしまった…という事情で生まれてしまった子だったらしい。
覚悟も、自覚もないうちに母になってしまった彼女は、それでも浩介が3歳になるまでは頑張っていた。が…結局、女優になりたいという夢を捨てきれずに、坂崎家に嫁いだ姉の美江に、浩介を預けて姿を消したのだ。
大人になってから事情を聞き、今となっては納得は出来ないまでも、頭では理解はしているが…当時3歳だった浩介にとって、なぜ自分が置いていかれたのか理解が出来ずに、しばらく泣き暮らした。
ご飯も食べずに泣き暮らし、栄養失調で入院…そのベッドで、やっと母は帰ってこないのだと、理解した。
幸いなことに、引き取ってくれた坂崎の両親が、その後生まれた弟と浩介を分け隔てなく育ててくれたおかげで、苦労することもなかった。
だが、どこかで、母に捨てられた自分…という傷が、心の片隅にあるのも、事実なのだ。
どうして、今更……。
おそらく、あの木は実の母、時江だろう。
浩介は突然現れた母の影に戸惑いを隠せなかった。
最初のコメントを投稿しよう!