ロスト・ラブ・パニック

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 その日、世界からいろんな形の恋心が消えた。  それは夏の暑い日だった。今年1番の気温の高さらしい。大学生になって2回目の夏休み。テレビを点ければ暑さ対策や熱中症被害などばかりを報道していた。  黒い球体のオブジェクト。突然全世界にそれは現れた。全世界とは言っても、日本なら東京に、アメリカならワシントンD.C.に、中国なら北京といったように各国の首都だけだ。  午後12時00分00秒。東京の渋谷のスクランブル交差点だった。場所が悪い。急に現れたそれに人は押し潰され、車は衝突事故を起こし、たくさんの人が死んだ。  渋谷はパニック状態に陥った。  テレビは一転してそのことばかりを報道した。陰謀論だの地球外生命体の侵略だのと様々な憶測が飛び交ったが、真相は未だにわかっていない。  最初は渋谷にいた人たちが混乱の渦にいた。それがテレビを媒介にその混乱が伝播する。瞬く間に世界中は大騒ぎだ。 「ごめん。俺はもうお前のことが好きじゃなくなった」  最初に恋の喪失を口にしたのは誰だったか。  わたしと同じくらいの歳の、大学生だろうか。今流行りのセンターパートの髪型。黒いシンプルなアイテムでまとめられた服装だが、ピアスやネックレスの存在で、今日一緒に出かける相手が特別な存在だとわかる。  現に男の目の前には丹精込められて作られた人形のような女の子がいる。彼と歳は同じぐらいだろうか。もしかしたら大学の同級生かもしれない。  2人は恋人同士だったのだろう。地球に蔓延る虫のようにたくさんいる人間の中で、さらに趣味も性格も好きなものや嫌いなものが違う2人が互いに惹かれ合った。そうして会話を交わし、食事を共にし、同じ時間を生きる。それが恋なのだろうとわたしは思う。もちろん、それだけで形容できるものではない。  そんな奇跡があったとしても最終的な結果はこうだ。女は泣き崩れた。繊細なメイクが崩れることもお構いなしに。それを見て同情した人が声をかける。男はその場を立ち去った。  パニックの渦中で特に脳に焼きついている。  その人を皮切りにポツポツと別れ話をする人が出てくる。さっきのような大学生のカップル、社会人同士で交際していた人、中には長年連れ添ってきたであろう夫婦もいた。  異常な光景だ。ちょうどその日、幼馴染と一緒に渋谷に来ていた。不安と恐怖が渦巻く中、さらに起こった恋の消滅。  地面にはこの周辺で買ったであろう飲み物や食べ物が転がっている。わたしは人が流れている方向と逆を走った。みんなあの黒い物体から離れたい人たちだろう。  着信だ。 『恋々(ここ)、そっちは大丈夫か? 俺は今ちょうどスクランブル交差点にいるんだ。動けるか? どこかで落ち合おう。場所はーー」  携帯は握りしめたまま走る。恐怖が顔に張り付いた人たちを掻き分け、悲しみに暮れる人を器用に避けていく。わたしたちはパンドラの箱の中にいるみたいだ。  周りの人間の心の中もこの状況もパニックに陥っている中、それに反比例するようにわたしの頭の中は冷静だった。  幼馴染からの電話にだってワンコールで出れた。いつもだったら簡単に通話ボタンなんて押せない。ようやく幼馴染に緊張して裏返った声を聞かせたら、彼は決まって小さく嬉しそうに苦笑いをするのだ。  けど今日はそれがなかった。  それもそうだ。なにもかもが違うのだから。  取り散らかったおもちゃのような感情はもう彼には向けられない。 「恋々!」 「冴くん……!」  わたしを見つけて安堵したのか、彼の形のいい眉がハの字に曲がる。 「無事で良かった……!」  勢いのまま抱きしめられる。力強く、わたしの存在を確かめているようだった。わたしもそれに応えるように背中に腕を回す。ほんの一瞬、相手の体が強張った気がした。  周囲には逃げ惑う人や野次馬根性であの黒い球体を写真に収めようとする人がいる。その中でわたしたちは抱きしめ合った。  幼馴染の温もりを感じて安心した。でも同時に心のどこかで冷えていく自分をさっきよりも感じる。  高嶺(たかみね)冴という幼馴染はわたしにとって宝物のような存在だった。  わたしを見つめる瞳はいつだってブラックダイヤモンドのように輝いていた。笑った顔もそこに爽やかな風が吹いたようないい笑顔なのだ。声だってちょうどいい高さで心地良いはずなのに、わたしはいつもドキドキしていた。  その宝物は今、小さい頃好きだったシールやビーズのようだ。集めていたときは確かに楽しかったはずなのに、なぜ好き好んでそんなことをしていたのか思い出せない。  彼のことは今尚幼馴染として好きだ。でもついさっきまでの情熱的な感情は綺麗に消えてしまった。ただただ私の脳内は平穏で満ちている。  皮肉なことだ。あやふやで不確かな目に見えない恋だった。それは消失することで、確かにここにあったのだとようやく思い知らされる。喪失は存在の証明なのだ。腕の中で静かにこの恋と別れを告げた。
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