ロスト・ラブ・パニック

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 この出来事は後に『ロスト・ラブ・パニック』と呼ばれるようになった。 「おはよう恋々(ここ)」 「おはよう冴くん」  隣の家に住む幼馴染が今日もわたしの家にやってきた。昔からだ。彼がこうしてわたしの様子を見に来るのは。  わたしの家は母子家庭で、はっきり言って貧乏な家だ。対して冴くんの家は裕福である。よく母の帰りが遅い日は高嶺家で夕食をご馳走になった。 「寝癖がついてる」  色白で骨張った手がわたしの髪に触れる。いつもだったらわたしの心は荒波のように乱れただろう。頬を赤く染め、俯いて動けなくなってしまったかもしれない。 「今日は1日中外に出ないって決めたからいいの」  今は髪を撫でる手つきが気持ち良い。きっと犬とか猫はこんな感じで、毎日飼い主に撫でられているのだろう。 「……はは。それはいいね。どうせ外はまだあの騒動でまともに出歩けたもんじゃないしね」 「そうそう。冴くんもここでゆっくりしていきなよ」 「……そうさせてもらうよ」  楽園だった。  空調が整った部屋にわたしと冴くんの2人だけだ。寝癖は直さず、着ている服も少しヨレた部屋着のまま。クッションの上に座って、だらけながら食べるバニラアイスは美味しい。 「美味しい?」 「うん」  突然現れた黒い球体のせいで、恋愛感情が消えるなんてありえない。そう、最初は誰もが疑った。だが同時刻に、別れ話を切り出されたという話がSNS上で大量に溢れていた。  中には完全に恋心が消えなかった人もいる。最初は心の器に注ぐ量が減っただけだと思っていたが、どうやら違うらしい。  それは事件となって表層化する。最初の事件はとある若い夫婦だった。夫が行為中に、妻を痛めつけながら殺したという。その夫婦は仲が良く、近所でも有名なおしどり夫婦だった。もちろん夫も妻も隠れて不倫していたなんて事実は一切ない。  夫は実は加虐性愛の持ち主だった。夫は妻を愛しているが故に、その残虐性には蓋をして結婚生活を送っていたそうだ。 『勘違いしないでほしいのです。私は妻を愛しています。ただ、あの日、私の中から、妻を愛おしむ方法を忘れてしまった……。ただそれだけなんです』  わたしと冴くんで、ちょうどニュースで報道されていたそれを見ていた。そのとき、チョコ味のカップアイスを食べていた手を止めた。横目で冴くんを見る。  動揺が全面に出ていたわたしと違い、彼は凪で、波紋ひとつないような水面のように、ただじっとテレビを見つめていた。  ぶるっと身が震える。それに目敏く気づいた彼が静かに微笑んで、薄手のカーディガンを肩にかけてくれた。以前までのわたしの脳内は、この情報を処理しきれなくてショート寸前だったかもしれない。けれど今は彼の残り香に包まれて安心さえする。  その妻が殺害された事件を皮切りに、猟奇的な恋心で崩壊した番たちの情報が、ネットの海に放たれた。 「ごちそうさまでした」  普段進んで選ばないバニラアイスは、たまに食べると美味しい。そのままクッションの上でだらけながら、なにも考えずにスマホをいじる。人によっては、無駄で空虚な時間の浪費だと思うだろう。だがそれがいいのだ。  スマホに飽きて、なんとなく、気づかれないようにそっと彼を見た。  最近の彼は気づけば難しい顔をしている。今だってそうだ。私を視界に入れているようでどこか別の、わたしにはわからないようななにかを見ている。意識が現実に向いていないのだろう。すりガラスのような瞳だ。  もうスマホの画面に集中できなくなってしまった。穏やかな沈黙の中で流れる無粋な着信。わたしじゃない。冴くんの携帯だ。 「出ないの?」 「うん」 「わたしは気にしないよ」  彼は一向に電話に出ようとしない。それどころか、まるで電話が鳴っている事実がないかのように振る舞う。それが少し不気味だった。 「いいんだよ。ほら、恋々も知ってるだろう? 如月さんからだよ」  如月摩耶(きさらぎまや)。冴くんと同じクラスの綺麗な人だ。艶やかな黒髪は上質な絹を連想させる。若い子が憧れるような、白い肌の上にある右目の泣きぼくろが、脳に焼き付いている。艶かしいという言葉は彼女のためにあるのかもしれない。わたしが男だったらきっと彼女に惚れていた。それくらい美しい人だ。 「流石に知ってるよ。学年1美人だって有名だからね」 「そうなの?」 「そうだよ。冴くん頭いいのに、たまにみんなが知ってるようなこと知らないよね」 「はは。興味ないからね」  涼しい顔をした幼馴染。もう彼の携帯から音は発しなくなった。わたしも苦笑いに(とど)める。  前は如月さんの名前を聞いただけでも心がざわついた。強風に晒される草原のように。  わたしたちはいつも一緒だった。家が隣同士だから小中は当然同じところに通っていた。高校も同じなのは偶然だ。流石に大学までも同じだったことには、脳内お花畑でも疑問を抱いた。 『たまたまだよ。その大学にいる佐々木教授の講義を受けたくてね。……もしかして恋々、俺と同じ大学に通うの嫌だった? 俺は嬉しいんだけど』  そう少し照れながら話してくれたことが遠い昔のようだ。その言葉を聞いてわたしは舞い上がった。いくら幼馴染といえども、大学まで同じだなんてことはそうそうないだろう。浮かれていた。このまま変わらずずっと、一緒にいれるのだと。  だから如月摩耶と冴くんが2人でいるところを偶然見つけたとき、なにか心のどこかが壊れる音がした。  イケメン。金持ち。優秀。みんなの人気者。それが高嶺冴という男だ。彼が身につけているものは全て質のいいものである。頭脳明晰でテストではいつも学年上位の成績だった。彼を囲むクラスメイト。おまけに見た目だっていい。  毎年バレンタインの時期になるとたくさんチョコを貰っていたのを覚えている。けどなぜか毎回本命チョコは必ず断っていた。そのせいか、彼はずっと義理チョコや友チョコという名の、誰がどう見ても本命チョコを貰うようになる。  それでもわたしは彼の隣にいた。そばに居続けることができていたのだ。本気で冴くんと付き合いたいと思っていた人は、どうやらいなかったらしい。中学時代からの友人が教えてくれた。  その事実に喜んで、慢心して、ぬるま湯に浸かっていたのが間違いだった。  初めてだった。わたしたちの関係に変化をもたらす存在は。それも悪い方向に。学部が違うわたしたちは、大学内で会う頻度が少なくなっていた。  そんなときに見つけた2つの姿。カフェテリアで、人がたくさんいる中でも目立つ美男美女。  足元が崩れた気がした。思わず駆け寄って、彼を連れ去ってしまいたい衝動に駆られる。  実際にはそんなことはできなかった。体は凍りついたように動かなかったからだ。対して思考は普段よりも働いていた。彼らが付き合い、仲睦まじく、寄り添って生きていく。そしてわたしの存在は、冴くんにとって石ころも同然になっていく未来をたったこの一瞬で見てしまった。  ようやく気づいた恋心。恋なんてものは、少女漫画で読んだような、綿飴のようなものだと思っていた。今までのは甘い蜜ばかり吸っていた恋だったのだろう。バチが当たったのだ。生々しい、綺麗なままでいられない、自分をも蝕む毒のような恋に、わたしは目を背けたかった。  わたしは必死にこの恋心を隠した。幸い、友人にもまだ勘付かれてはいなかった。けれどもそんな日々は辛かった。冴くんにバレるわけにはいかないのに、黙っていれば黙っているほど、この呪いのような恋心は膨張していく。  だからあの日は、わたしにとって救済だった。 「恋々」 「なーに?」  静かな空間で、時計の秒針だけが存在を主張している。 「夏休み中はやっぱり、あまり外には出ない方がいい」 「どうして?」 「危険だからだよ。ニュースにもなっていただろう? 落ち着くまでなるべく家にいるんだ」 「えー。これから観たい映画が公開されるからなー」 「恋々」  優しく咎めるように名前を口にする。どうやらあの日から彼の心配性に拍車がかかったらしい。けれどももう、今のわたしはいい子ちゃんぶることはしない。 「大丈夫だよ。確かにあの日から凶暴化する人は増えたけど、逆に落ち着いた人もいるんでしょ? 他の人も普通に外に出てるんだし、冴くんは過保護だよねえ」  なにもあの日、純粋な恋心ばかりが消えたわけではない。束縛したい、加虐したいなどという気持ちが消えて、以前よりも仲が深まった恋人や夫婦もいる。 「……なるほど。恋々はあの出来事を好意的に捉えてるんだ」 「え?」  グッと彼の顔が近づいてきた。いつのまにかわたしの隣に座っている。長い睫毛。一点の曇りもない黒い瞳には、間抜けな顔をした女が写っていた。こんなに近くにいるのに、わたしは彼の考えていることがちっともわからない。 「恋々はあの日、恋を失ったんだろう?」
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