ロスト・ラブ・パニック

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 時計の針、冷房の音、そして時々聞こえる車が通る音。ゆっくりと彼の言葉を噛み締めるくらいにはわたしは冷静だった。 「そうだよ。わたしはあの日、恋心が消えちゃったみたい」 「それは俺への?」  驚いて顔を上げる。いつから彼は気づいていたのだろう。 「……ぇ」 「そんなに驚くことはないだろう? ずっと一緒にいたんだ。それくらいわかる」 「いつから……」 「割と最初から。でも恋々(ここ)は自分の気持ちに気づいていなかった。だから俺も指摘せずにいたんだ」 「嘘……」  少しずつ、鼓動が速くなっていくのがわかる。冴くんの声は、心なしか甘さを孕んでいるような気がした。それが少し怖い。己の感情は筒抜けなのに、わたしはいつから彼のことがわからなくなっていたのだろう。 「本当だよ。緊張していつも電話に出るのが遅いことも、それで声が裏返ることも、外に出ない日でも、俺と会うときはちゃんと身だしなみを整えることも、俺に触られると照れちゃうから避けていたことも、全部わかってた。わかってたんだよ」  優しく、慣れた手つきで頬を撫でる。思っていたよりもその手は冷えていて、ピクッと動いてしまった。それを見逃す幼馴染ではない。 「ぁ……」 「ずっと冷房の効いている部屋にいて冷えただろう。温かい紅茶を淹れるよ」  そのまま台所へ向かってしまった。どうして彼はあんなことを言い始めたのだろうか。自分でも混乱しているのがわかる。さっきまであんなに頭が冴えていたはずなのに、今はまるで役に立たない。出口のない迷路の中にいるみたいだ。自分の心臓の音だけがよく聞こえる。 「恋々? どうしたの?」 「あの、冴くん……」 「まずは紅茶を飲もうか。その後なんでも聞くし答えるよ」  アールグレイの心地良い香りが部屋に広がった。火傷しないよう、冷ましながら飲み始める。テーブルを挟んで目の前にいる彼は、精緻を極めた人形のようだ。 「美味しい?」 「……うん」 「それは良かった」  紅茶もよくやく飲み干した。ずっと胸騒ぎがしている。冴くんは柔らかく微笑んで、わたしが話すのを待っていた。 「……冴くん。もしかして、わたしが冴くんのこと好きだったの、迷惑だった?」 「どうして?」 「だって、なんか今日の、ううん、最近の冴くんはなんだか別人みたいで、少し怖い。もしかして、ずっとわたしが、恋愛感情持ち始めて、嫌気がさしたのかもって……。如月さんといい感じだったし……」  必死に言葉にしようと口から音を発するも、出てくるものはまとまらない言葉ばかり。おかしい。もう恋なんてしていないはずだ。なのにさっきからずっと心臓の音は鳴り止まない。 「それは違うよ。むしろ俺は嬉しかった」 「……嬉しい?」 「そう。俺もね、恋々と同じ気持ちだったからね」 「……あ」  冴くんはカップを見ながら寂しそうに微笑んだ。その言葉を聞いても、彼の表情を見ても、わたしはただ申し訳ない気持ちしかなかった。 「冴くん」  そっとカップを握ったままの彼の手に、自分の手を添える。 「如月さんも、他の人間も関係ない。互いを愛おしいと思いながら視線を交わして、そばに居続ける。それが俺の楽園だった。でも、もうそれも……」  下を向いたままの幼馴染。今彼がどんな顔で話しているのかはわからない。  わたしの恋心は失われてしまった。冴くんもそうだろう。それでもまだ幼馴染としての情はまだ確かに残っている。幼馴染として、彼は幸せになって欲しいとわたしは思う。 「さ、冴くん……」 「もう飲み終わっただろう?」 「え、うん……」  さっきまでの湿っぽい空気が嘘のように彼は言った。どういうことだろう。彼はすっと立ち上がって手を差し出した。自分のカップを渡そうとして、気づいたときには手からカップがすり落ちる。 「……ぁ」  ガラスが割れる音がするかと思ったが、目の前の男によってそれは防がれた。まるで最初からわかっていたかのように、その動作は無駄がない。 「冴くん、ごめ……、あ、えっ……」  視界が傾いた。なぜか立っていられない。一拍遅れて眠気が襲いかかってきたのだと気づく。 「あれ……?」  さっきのカップと同じように彼に受け止められる。彼の腕の中。なんとなく、あの夏の日の渋谷を思い出した。 「ずっとこうしたかった」  耳元で聞こえた幼馴染の声。聞き馴染んだ声のようで、全く知らない人の声のようだ。 「こうやって抱きしめて、俺しか見えないように閉じ込めて、俺を忘れないようにして、犯したかった」  どうしてそんな急に恐ろしいことを言い始めるのだろう。 「でも同じくらい、恋々にとって優しい人間でありたかったとも思ってた。恋々が好きでいてくれたから、自分を押さえ込むのは辛くなかった」  まるで愛の告白のようだ。どうして。あの日、わたしたちの恋は失ってしまったのではなかったのか。 「ごめんね恋々。もっと早く恋々の不安に気づいてやれたら良かった。そうしたら今頃恋人同士でいれたのにね」 「さ、さえく……?」 「でも恋々にとって『ロスト・ラブ・パニック』は救済の一手だったんだろうね。でも、でも俺にとっては絶望でしかなかった」  きつく、きつく抱きしめられる。息ができなくて苦しかった。でもこの息苦しさが、今まで見えていなかった彼の思いの表れなのかもしれない。視界の端で捉えたのは、空になったカップ。  鼓動はさっきよりも速くなった。この音はきっと冴くんにも伝わっているに違いない。身動きが取れないこの状況と、瞼の重みとは反対に、わたしの頭の中には、あの日の渋谷の混乱が繰り広げられる。 「さっき恋々は俺のことを別人みたいだと言ったけど、俺にとっては、あの日から恋々が姿形が同じ別人のようにしか思えなかった。確かにここにいるはずなのに、もうあの視線は俺には向けられない。距離も縮まって、かわいいだらしない姿を見せられても、俺に向ける感情は幼馴染のそれだ。その絶望を、恋々は知らないだろう」  最後の力を振り絞って彼の腕に爪を立てる。それでも腕の力は緩まない。爪で不恰好な「はなして」を書く。 「離さない。恋々はいずれ他の人に恋をするんだろう? 前の俺だったら応援していたのかもしれない。けどそれも無理だ。だって俺はもう、恋々を慈しんで愛する方法を覚えていないんだ」
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