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治療
顔を袖で拭い、力の入らない足を叱咤し立ち上がる。気分は高揚したままだが、薬の効果は幾分マシなものになっていた。気を抜けば乱れそうになる呼吸を整え、何食わむ顔でコーニーリアスの前に立つ。
アドルフは相変わらず物言いたげな視線を寄越してくるが、俺は一刻も早くヴィクターの元へ戻りたかった。コーニーリアスは一言「お好きなようになさって下さい」と告げるとその場から離れた。
今まで部屋の外へは付きっきりだった為、コーニーリアスの反応は意外だった。もしかしたら俺が神子として覚悟を決め、今後逃げる意思がないと思ったのかもしれない。
コーニーリアスに案内されずとも治療院へは何度も足を運んだ為行き方は分かる。
俺が廊下を歩き出せば、ヴィクターがそうしていたように、アドルフも騎士らしく後ろへ控えた。
昨日とほぼ同じ時刻に治療院の扉を叩けば、医者は予想していたのかすぐに扉が開かれた。その顔には隠しきれない怒りが浮かんでいる。俺の顔を見て口を開こうとしたが、背後に立つアドルフの姿を目に留めると言葉の代わりに溜息を吐き出した。この様子ではすでに薬を盗んだ事がバレているのだろう。
しかし神子が媚薬を盗んだなんて醜聞、アドルフには聞かせられないからとこの場は口を噤んでくれたに違いない。俺はその医者の配慮に内心感謝した。
申し訳ないと思いつつアドルフには治療院の外で待っていてもらうよう告げ、俺だけ室内へ入る。
「神子様」
「事情があって。申し訳なかった」
「ええ、ええ。そうでしょうとも、あえて事情は聞きませんよ。私のような立場の者には言えない理由があるのでしょう」
医者はヴィクターの眠るカーテンを勢い良く開けると、くるりと俺の方へ身体を向き直る。
その目は至って真剣だった。"媚薬を盗んだ浅ましい神子"へ向ける視線には相応しく無い。詰られるとばかり思っていた俺は、予想していた反応と異なっていた為思わず息を詰めた。
「ただね、医者として口を出させていただきたい。薬ってのは用法容量を守るから薬なのであって、一歩間違えれば毒にもなる代物です。私の管理する薬の所為で神子様の身に何かあったら、私の責任問題になる」
正論だった。
ヴィクターを助ける事で頭がいっぱいになっていた俺は、医者の立場まで気が回っていなかった。
「まぁ、そこは良いんですよ」
「え?」
「一番私が言いたいのは、薬が必要ならまずは医者である私に相談していただきたいと言う事です。面倒な申請やらを通していられない事情があったんでしょう?」
は、と思わず息を呑む。
彼が事情を知るはずがないのに、まるで見透かされるような視線に思わず逃げ出したくなった。
この世界に来て冷静でいられた時間は極めて少ない。次から次へと問題が起こり、選択を吟味している猶予なんて与えられなかった。そしてその目まぐるしさこそ、コーニーリアスの手の内だったのだろう。
俺は無自覚のうちに、この世界の人間だからと誰彼構わず歯を剥き出し威嚇していた。
しかし今こうして真剣な態度で向き合っている医者は、敵かと言われるとそれは否と答えるだろう。
味方と断言できるほどの関係は築いていない。
ただ、俺が薬を盗んだ理由として、ヴィクターを救う為だと言う事は気付いている。
そして場合によっては例え規則違反になろうと、こちらの都合を考慮してくれるのだと言っているのだろう。
「譲れない"用事"が済んだら、次はあなたが治療を受ける番です」
その言葉に頷いて返す。
俺は開放されたカーテンの先へ進み、眠りについているヴィクターの横へ立った。俺が来る事を予想していたからか、敢えて包帯は巻いていないらしい。患部には薬が塗り込まれているのか、ベッドへの距離を詰めると薬草のような香りが鼻を抜ける。元の世界では嗅いだ覚えのない爽やかだが不思議な香りだった。
よく目を凝らして見ると、新しいものから古いものまで、ヴィクターの背中は大小様々な傷が刻み込まれている。
ヴィクターの表情は眉根が寄せられておりやや険しいが、痛みに悶え苦しんでいる様子は無かった。
チラリと医者に視線を向けると、俺の質問の意図が伝わったのだろう。言葉にせずとも返事は帰ってきた。
「ヴィクターには鎮痛剤を投与している。・・・騎士が罰として鞭に打たれるのはそう珍しい事じゃないんだ」
「それは・・・碌でも無い事ですね」
想像するだけで痛々しい。
ガチガチに固められた規則なんてどこまで必要なものか分からない。
この物言いから、ヴィクターが罰を受けたのはこれが初めてでは無いのかもしれない。
胸糞悪さに思わず表情が歪むが、医者は相変わらず淡々としていた。
意識を切り替えるように軽く頭を振り、片手をヴィクターの肩へ触れさせる。傷に触れないよう細心の注意を払い。
本来なら受ける必要の無かった罰だ。一刻も早くその傷を癒したかった。
その為に手段を選ばず儀式を行ったのだから。
俺はすぅっと息を吐き呼吸を整える。
軽く意識をするだけで、指先にじわりと熱が帯びる。そして次の瞬間、覚えのある光が放射状に走り出した。
激しく明滅する程の眩さのわりに、身体を包み込む光は春の日差しのように暖かい。芽生え始めたばかりの新緑が、ざわりと風に吹かれて揺れる錯覚さえ感じる。
閉じていた目をそっと開け、ヴィクターの背中へ視線を向ける。そこはまっさらな状態で傷一つない背中が広がっていた。
黙ってこちらの様子を見ていた医者は、ヴィクターの姿を目にするとほうっと息を吐いた。
「はあ〜、たまげた。・・・おっと失礼。見るのはこれで二度目ですが、神子様の奇跡は大したものですね」
「・・・その分制約もありますが。それに俺は医者のあなたの方が凄いと思います」
この"神子の奇跡"。あまりまだ深く分からないが、まずネックとなるのは奇跡を起こせる回数に制限がある事だろう。儀式一回につき、起こせる奇跡は多くて二回。どの状態まで直せるのかさえ未知数だ。
その点医者なら患者に適した治療を施し、ヴィクターにした様に苦しみを取り除く為の鎮痛剤など、薬の知識にも長けている。
俺がそう返すと、医者は照れ臭そうに頰を指で掻いた。
「神子様に褒められるとくすぐったい心地がしますね。って、そうだ。次は神子様ですよ!」
医者にそう言われ、背筋へ走る奇妙な熱と悪寒を再び意識し始める。相手がヴィクターと言う事もあり怪我を治す事に夢中で、終わった瞬間今まで意識する事を忘れていた疲労感や動悸、口に出すのも憚られるあらゆる感覚が一気に襲いかかってきた。
正直これはずっと体感していたいものではない。
「・・・中和剤があるんですか」
「ええ。即効性はありませんが、効果と安全性はきちんとしてます。そちらの空いてるベッドへ横になって待っていて下さい、点滴を持ってきますので」
そう言い医者は慌ただしく部屋から出ると、ガチャガチャと音を鳴らし点滴の準備をし始める。
無理を押して動き回った為か、今更儀式の最中と同じくらい視界がふらふらと回り出した。早めにベッドへ横になった方が良さそうだ。
そう思い倒れない様ヴィクターの眠るベッドへ体重を掛けていた手をどかすと、ギシリとベッドが小さく軋んだ。
「・・・神子様、」
「ッ!ヴィクター、目が覚めたのか。良かった」
うつ伏せの状態で顔を横へ向けている為、ヴィクターは視線のみでこちらを向いた。
まだ焦点が合っていないのか、その目はどこかうつろだ。先程まで酷い怪我をしていたのだから無理も無い。
「い、しきは・・・ありました、ずっと・・・」
声は小さく掠れており聞き取り難い。俺はよろけそうになる身体を叱咤し、状態を屈めるとヴィクターの口元へ耳を近付ける。
「・・・俺、は・・・間違えたん・・・です、ね」
「ーー間違え?」
一体何を間違えたと言うのか。
問い掛けようとしたが直ぐに目は閉じられ、ヴィクターはゆっくりとした呼吸をし始めた。眠りについたようだった。
その言葉の真意を問う事も出来ないまま、どこかもやついた感情だけが残される。
「神子様?なんで横になっておられないんです!」
しかし部屋に医者が戻ってきた事で、その思考も拡散する。
さあさあと背中を押され、ヴィクターの隣の空いているベッドへと押しやられる。靴を脱ぎ捨て横になると、天井がぐるぐると回り出した。誤魔化す様にぎゅっと目を閉じ、左手を目元に置いた。
「神子様の体格では小瓶一本と言えど些か効きすぎます。今晩はここで朝まで安静にしてもらいますからね」
「・・・はい」
右手の袖が捲られ、肘まで顕になる。目元を覆う左手をずらし隙間から医者の様子を薄目で伺う。
「点滴を打っている間・・・少し話をしても良いですか」
「本当は眠ってほしいのですが。少しの間ならお付き合いしましょう」
医者は一度治療の手を止めると、ちらりとこちらへ視線を向けた。
「俺の前の神子について何かご存知でしょうか。どんな人だったか、どんな暮らしをしていたのか、どう思われていたのか」
俺はこの世界に来たばかりでこの世界の常識も何もかも本当に何も知らない。
そして聞ける相手もおらず、何より状況がそれを許さなかった。
こうして落ち着いて話が出来るのが嘘の様だった。
医者は俺の問い掛けに一度口を閉じると、困ったような表情を浮かべた。
「私がこの治療院で働く様になったのは、二代前の神子様の時期からなんですが・・・分からないのです」
「分からない?」
「ええ。神殿長であられるコーニーリアス様や、もっと他の立場の者なら違ったのかもしれませんが、私が神子様の姿に見える機会といえば祈りの間へ向かわれる道中の姿くらいでした」
「・・・そうでしたか」
期待した答えでは無かった為、内心がっかりする。
「ただ噂は聞いていましたよ。先代も先々代と神子様も、あなたと同じ黒い目に黒い髪、そして美しい顔立ちの青年だったと。それから、随分おとなしい方だったらしいです」
おとなしい、か。俺もうるさく騒ぐタイプでは無いが、おとなしいかと言われると違う。前の神子たちは俺とは異なるタイプだったのだろうか。
部屋で読んだ日記から伝わるのは、故郷への哀愁やこの世界への怒り。神子の立場から逃れられない事への憤り、そして諦観だった。本来はもっと明るい人間だったのだろうが、この世界が彼らをそうさせたのだろう。
「先々代の神子様の事はコーニーリアス様がお詳しいかと」
点滴が効き出したのか渦巻いていた体の熱がゆっくりと治まり、眠気に抗っていた時だった。予想外の名前が医者の口から出て、俺は閉じ掛けていた目を開く。
「私もその頃は医者として新米でしたが、コーニーリアス様も神官見習いと言う立場の頃の話です。神子様に対し随分心を砕いておいででした」
今の様子からは想像もつかない。しかし神子の話をよりによってコーニーリアスに聞く事は出来ないだろう。それともその神子だけが特別だったのだろうか。
「・・・それで、その神子は今はどうしてるんですか?」
「先々代の神子は、先代の神子がこの世界へ光臨された際、身罷られたそうです」
「それ、は」
コーニーリアスや医者の年齢を見ても、神子が青年の時に召喚されたとすると亡くなるにはあまりにも若い。
「ただ、先々代の神子様の亡骸は見つかっていないのです。私は・・・元の世界に戻ったのでは無いかと考えています」
医者の言葉に思考が止まる。
ーーー元の世界に、戻った?
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