誰も彼の名前を知らない

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誰も彼の名前を知らない

医者のその言葉に思考が止まった。点滴の針が刺さったままの腕を伸ばし、ベッドの横で作業していた医者の白衣を掴み引き寄せる。その勢いでチューブが揺れカシャンと音を立てた。俺の行動に医者が驚きの声を上げたがそれを気に掛けている余裕など無い。 「その話を詳しく教えてくれ」 話の断片を聞いただけじゃ分からない。なぜ死んだ事になっている神子を、医者は元の世界に帰ったと思ったのか。 もしその話が本当なら、元の世界に帰れる可能性が残っていると言う事になる。 「何かそう思う理由があったんだよな?それか・・・何か見たのか」 ドクドクと心臓が早鐘を打つ。凄まじい勢いで脳裏をよぎるのは、元の世界での日常だ。 定時で帰れる様な会社じゃなかったが、だからと言ってそれが理由で働く事が嫌いだったかと言われるとそうじゃない。タスクを全て終えた時は達成感があった。 毎日仲良く昼食を取る様な仲では無かったが同僚との距離感もちょうど良かった。年に二、三回新しく出来た居酒屋にでも飲みに行くかと、声を掛けて愚痴をお互い吐き出せる関係性だった。 あとは学生時代の友人だって、関係が続いていて社会人になっても遊びに行く奴が何人かいた。 新しい映画を理由に誘ったり、一人じゃ行きにくい食べ物屋なんかがあれば一緒に食べに行った。たまにカラオケなんかも行って学生時代に流行した曲を歌って、それ何年前の曲だよってお互い笑った。 ーーーそれに、家族。 普通に仲の良い家族だった。 父と母と柴犬のきなこもち。父が知り合いから譲り受けて、名前をつけたのは母だった。普段はおもちって呼んでたけど、目つきが鋭すぎるから似合わなくて可愛いって家族で良く笑ってた。 今は一人暮らししてるから毎日顔を合わせるわけじゃないけど、長期休みなんかはちゃんと顔を出していた。 この前会ったのは盆休みだったか。顔にすげえ皺寄せてるのにヒコーキ耳で尻尾ぶんぶん振りながら近寄ってきたおもちは可愛かった。持ってきたこだまスイカを供えて、仏壇に手を合わせて、それから山盛りの素麺を食べたんだっけ。あとは、そうだ豚しゃぶ。普段より高くて良い豚肉が山盛り茹でられてた。いつもと同じ胡麻ダレが同じと思えないくらいうまかった。 最近の記憶だけでも怒涛の勢いで元の世界での出来事が蘇る。この世界に来て色んな事があり過ぎた所為で考える暇が無かった、いや。 考えない様にしていた。 だってもう帰る方法なんて無いと思っていたから。日記にもそう書かれていたから。 当たり前だった日常を思い掛けず奪われて、会えるかどうか分からない人達の事を考えると更に辛くなると思ったから。 「・・・っ、ふ、ぐ」 「み、神子様」 焦りを含んだ医者の声に自分が泣いているのだと気付く。人前で涙を流すなんて何年振りだろうか。しかし不思議と羞恥は感じなかった。 神子なんて知らない。誰も俺の名前を呼ばないし、知ろうとも思わない。 この世界で必要なのは、"神子"としての俺だ。それなら俺じゃ無くても良いじゃないか。元の世界への未練も執着もあるに決まってる。 「かえ、りたい・・・」 ーーー帰りたい。 俺の居場所はここじゃ無い。 「・・・あんたは、何を知ってるんだ」 「神子様に期待される程、私が知っている事は多くありません」 そう切り出し、医者は当時の事を話し始めた。 それは先先代の神子がこの世界に来て十年目の事だった。 神子がこの世界に来た事を祝う為、毎年祭りが行われる。その祭りの日、用意された席を一人離れた神子の様子が気になり、当時まだ若かった医者はこっそりその後ろをついて行った。 そして神子が向かった先は、神子と一部の神官しか入る事の許されない召喚の間だった。医者は誰かに見咎められないよう向かいの部屋に入り、扉の隙間から神子がその部屋から出てくるのを待った。 しかし次にその扉から出てきたのは、びしょ濡れの状態の、神子と同じ黒い髪と目を持つ見知らぬ少年だった。 この少年こそ、先代の神子である。 神子を探していた騎士がその少年を保護したが、その後先々代の神子が見つかる事は無かった。 医者が召喚の間に入って行った神子を見たのが最後だったと言う事になる。 「この事は今まで誰にも話した事はありません。もし言えば、私が神子様を拐かした罪人として扱われ死罪になっていた可能性が高かったですから」 「それを今俺に話してくれたのは・・・」 医者は静かに目を伏せる。 「あなたがあまりにも他の誰かの為に無茶をするから・・・話したくなったのかもしれません」 医者は白衣を掴む俺の手に己のそれを重ねると、そっと外させる。優しい動作で背中に手を当てられ、ベッドへ横たえるよう促される。 点滴の位置を整える医者を横目で眺めながら、俺は再び口を開いた。 「・・・無茶なんて」 「捨て置いて良かったんですよ、あなたは。本来なら誰にも責められる謂れなんて無いんですから」 ヴィクターも似た様な事を言っていた。恐らくこの世界で神子に対し誰もがその力を振るう事を望んでいる。二人の考え方はきっと少数派なんだろう。ただ、僅かでも俺に寄り添ってくれる人間がいると言う事は少なからず心の支えとなった。 左手の甲を目元に当て、深く息を吸う。感情が昂ったことで不足した酸素が隅々まで行き渡るように。急に黙った俺に対しその間医者はじっと待っていてくれた。 「・・・帰る方法を探して、それから、神子の待遇を整える」 神子の待遇。 これは最初から気になっていた。 行動範囲は閉鎖的な限られた場所で、定められた服装。通常のトイレがあるのに、神子専用のトイレとも言えない部屋。この数日間は何とか普通のトイレを使っているが、もし瓶に用を足していたなら、排泄物がどう扱われていたかなんて行き先は考えたくも無い。 多分全てに意味があるのだろうが、神子自身の意思を折る事が一番の目的なんじゃ無いか。 コーニーリアスが始めた事なのか、それ以前からの慣習なのかは知らない。 ただこれからずっとこの状況が続けば、流石に俺でも精神が追い詰められる。 神殿ではコーニーリアスが権力を握っている。だからこそ狙うべきは神殿以外の権力者だ。 ただ今は、そこにアクセスする為の突っ掛かりさえ持たない状態だ。 俺に足りないのは情報だ。 「私に出来る事は少ないですが、可能な限り力になります」 「・・・俺に手を貸した所為で何か罪に問われたりはしないか?」 正直、どこまで手を借りても問題ないのか。それさえ分からない。ヴィクターが罰を受けた事は俺にとって大きなしこりとなっている。 伺うように医者へ視線を向ければ、目元に皺を寄せた朗らかな笑みが向けられた。 「お優しいのですね、私が無理をすればそれは神子様にとって負担になる様だ。可能な限りと申し上げた通り、そのような状況にはならない様気を付けますよ」 「・・・助かる」 「それから治療院の外に立たせているアドルフですが、彼の方が神子様の手助けが出来るかもしれません」 医者の言葉に思い出す。 治療院に入ってから随分と時間が経っているが、アドルフを外に待たせているままだった事をすっかり忘れていた。 「でも、あの男が俺に協力してくれるだろうか」 「少なくとも今いる"黒騎士"の中で一番話が通じるのはアドルフだと思いますよ」 黒騎士。神殿騎士の中でも恐らく地位が高い者達なんだろう。確かにアドルフは、最初こそヴィクターを貶す言い方をしたが、あれはむしろ俺の反応を試していたように思う。それに何より、彼はコーニーリアスから俺を守る様な振る舞いをしていた。 「コーニーリアス様やその考え方に追従する神官と騎士が多い中、アドルフはそれを良く思っていません」 「それはどうして・・・」 「ヴィクターの存在が大きいでしょう」 医者の言葉に大きな銀の鎧姿が脳裏に浮かぶ。 「二人は同郷で幼馴染で、同じ神殿騎士となったにも関わらず髪色の所為でヴィクターが軽んじられる今の状況に納得していません」 ハロルドもまた、理由は違えど変えたいと思っているのか。今の神殿を。 「だからこそ適任だと思うのですよ、何せあなたとハロルドの利害が一致している。それに彼自身は高位貴族ではありませんが、アドルフはハロルド殿下に気に入られてますから」 「ハロルド殿下?」 「バーソロミューの第二王子です」 「・・・王子」 騎士に貴族に、果ては王子。元の世界ではどれも日常では触れる機会のなかった存在だ。 コーニーリアスに対抗できるような権力者とアクションが取れれば良いとは思ったが、相手が王子となると不安になる。何せこの世界の常識を知らない。相手の不況を買い罪に問われるとも限らない。 医者は俺のそんな思考が通じたのか、安心させる様に目元を緩めた。 「ハロルド殿下は"神子様"と言う存在に憧れておいでですので、多少失礼な態度を取られたからと言っていきなり罰を与えたりしませんよ」 「そう、なのか」 「それにまずは、殿下とお会いする場を設ける為にアドルフへ話をしなければなりませんね」 医者はベッドへ一歩近付くと、そっと目元を覆った。暗くなった視界に安心するのは医者が俺にとって敵では無いと分かったからだろう。 「この話はここで一旦終わりにしましょう。あなたはまず身体を休めることに専念してください」 その言葉に促され、思考がゆっくり解けていく。身体に入っていた力が無意識に抜ける頃には、俺は深い眠りへと落ちていた。 ーーー神子。 神に愛され異世界より呼び出された奇跡を起こす存在。この世界の"異端"。 私が神子の姿を拝見したのは過去に三人。先々代と先代、そして今代の神子だ。 神子が不在の時代も過去に当然あった。この短いスパンで三人もの神子にまみえるのは奇跡に他ならないし、だからこそ私の様な人間は珍しいのだろう。 彼らに対するこの世界の人間の振る舞いへ疑問を持つ者は少ない。与えられる奇跡が、誰もが当然だと享受する。 神子として彼らが、どれだけ心を擦り減らしているか想像もしない。 私は神子と関わる機会は立場上多くなかったが、今代の神子は正直これまでの神子とは違った"危うさ"があった。それこそ口を出さずにはいられないほど。 この数日、水も食事も十分に摂っていなかったのだろう。本人に自覚があるかも怪しいが脱水症状を起こしている。その上で薬の使用だ。ヴィクターやアドルフはともかく、なぜ他の誰も口を挟まずにいなかったのか。いや、何より神子自身が口を挟ませなかったのだろう。 真面目で責任感が強い。そして目的の為なら手段を選ばない自己犠牲的な面もある。 これを危ういと言わず、何と言う。 コーニーリアス様は焦ったのだろう。じゃじゃ馬なだけなら御しやすかっただろうに、蔑むべき蛮族街の犯罪者にさえ慈悲を与える。 どこか繊細で慈悲深い。だからこそ対応を見誤った。傀儡にするどころか、真正面から敵対する羽目になる。 神子様にとってこの場で一番の敵はコーニーリアス様だ。私と同じで、過去の神子二人を知る唯一の人間。 神子様が今後コーニーリアス様と対立し、神殿がどう変わるかは分からない。何も変わらないかもしれないし、今よりもっと状況が悪くなるかもしれない。私のようなたかが一介の医者に出来る事なんて知れている。 それでも神子様の助けになりたいと思ったのは、かつて口を噤んだ事への後悔も確かにあったのだろう。 青白い顔で眠りにつく神子様の前髪を整えると、私は音を立てないようそっと扉を開いた。
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