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名前を呼んで
俺の腕を掴む神子様の手はしなやかで、皮膚の薄さからこれまでどんな生き方をしてしてきたのか伝わってきた。
暴力や痛みとは無縁の暮らしをしてきたのだろう。だからこそそんな彼の身体に、この世界にきてから付けられた傷が一層痛々しく目に映った。叶うなら全ての傷をこの身に移してほしい。
どこまでも深く高貴な色が自分に向けられる。神子様の目は、いつだって全てを受け止める寛容な光が宿っている。
それでも向けられる目があまりに真っ直ぐだからこそ、相応しくない自分の姿をいつだって鎧の下に隠したくなった。騎士でも何でもない、"個"としての己を神子様に認識される事が何より恐ろしかった。
この人の騎士になるまでは良かった。
"神子"と言う存在への憧れも崇拝も執着も、全てが自分の中で完結できた。それがどれほど自分の中で煮詰められようと、手の届かない存在だからと言い聞かせられた。
けれどそれは、神子様の守護騎士となった時翻った。己の欲深さに自分自身が驚かされる。
物語や絵画、空想の中の神子ではない。目の前に存在している神子様から認識され、名を呼ばれる。言葉を向けられる。助けを請われる。手を伸ばせば、触れられる。
この人に全てを捧げて最期を迎えられたなら、それが俺にとって人生最高の瞬間だろう。
どれだけ表面を騎士らしく綺麗に取り繕おうと、近付く事を許される度、もっともっとと求めたくなった。
この願いはきっと騎士が求められる忠誠心からは程遠いものだ。
そして献身と言う殻で覆った自己満足を、何よりこの人に知られたくなかった。
「気味が悪いなんて思わない。ヴィクターが俺を何度も助けてくれたのは、神子と騎士の立場が理由だけじゃないんだろう」
騎士としての立場を考えるなら、あの日儀式の間に足を踏み入れる必要は無かった。
「神子と言う存在だけじゃなく、ヴィクターは俺自身の事も見てくれてる」
その目があまりに真っ直ぐだから、本当の自分を見透かされる事が恐ろしかった。そう、思っていたはずなのに。本心では他の誰よりもこの人に俺の事を見てほしいと思っていた。
「神子様・・・、いや、あなたの・・・あなたの名前が知りたい」
神子とは神に愛された存在だ。騎士の領分を超える願いどころか、その名を呼ぶなんてこの世界の人間には到底許されない恐れ多い事だ。
知りたいと願うどころか、まして口にするなんて欲深く恥知らずなのに。
故に神官も騎士もこの世界に訪れた神子に対し、かつて名を問うた事はない。
それでも今、希わずにはいられない。
きっと神子様は俺が名前を問う事にどんな意味を齎すのか知り得ないだろう。
だからそんな風に、花が綻ぶように優しく微笑む事ができるのだ。
「俺の名前はアケミツヨウ。"明るい光が耀く"と書いて明光耀」
「・・・ヨウ様」
ーーーヨウ様。
他の誰も知り得ない、自分のみが知る事を許された名前。心の中で何度も唱えれば、繰り返した数だけ一層尊いものだと感じた。やはりヨウ様は特別だ。名を呼ぶ。たったそれだけで胸いっぱいに感じたことのない温もりが広がるのだから。
そして本来なら許されない願いが叶えられた瞬間、この上ない誉れに天にも召される気持ちを抱いた。
深い闇を体現するような黒い色を宿しながら、眩い光を連想させる名前だった。尊いその名を口にした時、俺は自らの存在を許されたように感じた。
感情の昂りに比例し涙が溢れる。
「ヴィクター?」
「ヨウ様、俺は・・・許されるのならずっとあなたの側にいたい」
突然涙を流し始めた俺に戸惑う様子を見せるが、目元を拭う指先は優しい。涙を弾いた爪先がつるりと光沢を帯びる。爪の形ひとつ取ってもこの人は美しかった。
「あなたがこうして俺に触れている事も、俺だけがこの世界であなたの名を呼べる事も、全てが嘘みたいだ。ヨウ様が俺だけに与えてくれた奇跡だ」
怪我を癒す特別な力なんて必要ない。ただその身がこの場に存在するだけで良い。
「俺も・・・俺も嬉しい。この世界に来てから俺はずっと神子という存在以外の何者でもなかったから」
今すぐこの身に纏っている鎧を脱ぎ捨て、衝動のままに抱きしめたかった。
心臓が締め付けられるように苦しい。それでもこの感情を好ましく思うのは痛みの中に甘さを孕んでいるからだ。
この人を傷つける全てから隔絶させ、永遠に腕の中に閉じ込めてしまいたい。
「何度だって呼びます。あなたが許す限り、何度でも」
名を呼ぶ度、この方への思いを自覚するのだろう。おそらく人が恋と呼ぶその感情も、そんなきれいな一言では表せない執着をこの人に伝えるにはあまりに重い。
神子としてこの世界に呼ばれ、折れず戦うこの人の邪魔を俺がするわけにはいかない。
コンッと短く扉が鳴らされるのと同時に、潜めた声が扉越しのアドルフから掛けられた。
「おい、ヴィクター。神殿長がこっちに向かってきてる」
「え!?」
その言葉にヨウ様が反応する。キョロキョロと室内を見回すと、床に落いてある兜を拾いクローゼットの扉を開いた。
「物も殆ど無いし、ここなら隠れられるはずだ」
クローゼットの中身は祭服の着替えが3着掛かっているだけだ。確かに身を隠すスペースとしては十分だった。
神殿長に神子の部屋へ足を踏み入れている事が見つかれば確かに罰は免れないだろう。しかしこれまであらゆる口実で必要以上に折檻を与えられてきた。ここで多少の罰を与えられたところで今更何の感慨も抱かない。
今までなら正直に自分から罰を受けに行っていたところだが、俺がその選択を取る事でヨウ様が傷付くなら避けるべきだと今なら分かる。
俺は兜を受け取り被り直すと、クローゼットの中へ足を踏み入れた。
余計な音を立てないよう、静かに扉が閉められる。
内部が暗い為か、扉の隙間からは予想より室内の様子がはっきりと見えた。クローゼットの外では身体からシーツを外したヨウ様が焦った様子で祭服に着替えていた。
滑らかな白い肩に不釣り合いな、痛々しい痣が窺える。
先ほどまで薬を塗る為にあの肌に触れていたのだと、指の先に感じた皮膚の柔さを思い出せばあらぬ所に熱が篭るのを感じた。邪な思いに釣られた己の身体の変化に、不敬だと音が立たない程度に拳で頬を殴る。
一人茶番を繰り広げる俺の思考を打ち消したのは、再度扉がノックされる音だった。
「神子様、私です。コーニーリアスです。部屋に入ってもよろしいでしょうか」
神殿では耳にしない日はない。しゃがれた老人の声だ。
「どうぞ」
ヨウ様がベッドに腰掛けたまま神殿長へ許可を与えれば、ガチャリと扉が開かれる。そこにはいつも通り黒いローブを身につけた神殿長の姿があったが、目元に皺とは異なる翳りがあり心なしか疲れているように見えた。
「いつもは部屋の中まで入らないだろう。何の用事だ?」
敵意に満ちた声だった。
無理もない。この世界でヨウ様が理不尽な目に遭われている原因の多くは神殿長にある。それはヨウ様に限った事ではなく、俺が知らなかっただけで恐らく先代の神子の扱いも"そう"だったのだろう。
俺が神殿に勤める様になった時には既に、彼は長の座に付いていた。
いつの日かアドルフが庭園の警護に付いていた日があった。その時先代神子を見かけたかと問いかけた時、あいつは見なかったと言っていた。しかし今思い返せばアドルフの態度はどこかおかしかった。
もし異世界から呼ばれた神子が神殿長に生活の全てを支配されていたなら、かつて俺が夢想していた神子の姿はそこには無かったのだろう。
「昨晩は無事にヴィクターの傷を癒せましたか」
「・・・それを聞いてどうする」
「警戒しないでください。ヴィクターが罰を受けたのは騎士の領分を超えたからです。あの者が儀式の間に足を踏み入れなければ私だって地下へ送ったりはしませんでした」
神殿長の言葉は事実だったが、それが全てではなかった。この髪色を疎んだ騎士から、俺は幾度となく陥れられてきた。
それは警備の場所や時間の変更といった連絡事項を意図して伝えられなかったり、雑用を押し付けられた為に必須訓練を受けられなかった時。事あるごとに折檻を受けた。
この神殿において騎士と神官を統括するのが神殿長だ。俺の扱いをこの男が知らなかったとは思わない。
それでも直接手を下されたわけでもなく、神殿長に対し恨みを抱くことはお門違いだと最近まで意識して関わる事もしなかった。
「ただ私が言いたいのは、そろそろこの世界・・・いえ、この国の為に力を使いませんかと言うことです」
この世界に来て神子の奇跡を振るった相手は、蛮族街の男と俺だけだ。
本来神子とは祈りの間で傷ついた民を癒す決まりがある。その相手はこの国の貴族や商人が中心だが、たまに他国の王族が訪れる事もある。
神子と言う存在がバーソロミューにしか存在しない以上、彼の存在は自覚する以上に稀有であり、そしてこの国の権威として必要だった。
ヨウ様にしてみれば勝手な事だろうが、神殿長は義務を果たせと言っているのだろう。
「最初から拒否させるつもりなんて無いんだろ」
「まさか。我々が今まで神子様に暴言を吐いたり、暴力を振るったり、行動を強要させた事がありますか?」
「ああ、無いな。"俺には"な」
「そうでしょう。あなたがその祭服を纏う事も、食事を拒否した事も、儀式を行った事も全てあなたの選択の上に成り立っているのです」
神殿長の言葉に歯を食いしばる。
ヨウ様が選択を迫られる時、俺は立場の低い騎士故に側にいられない事が多く、そして浅慮な行動の結果怪我を負い更に彼に負担を強いる結果になった。
思わず自分を責めるが、神殿長の背中越しに伺えるヨウ様の表情は凪いでいた。
「だから私は、この国の神子である事もあなた自身に選んでいただきたいのです」
ヨウ様に向かい誘う様に手が伸ばされる。しかし素早い動作でその手を振り払うと、ヨウ様はベッドから腰を上げ立ち上がった。
「俺を思い通りにする為だけに、他の誰かに傷を負わせるのはやめてくれ」
「神子様はお優しいのですね、選びたく無いのなら捨て置けば良いのですよ。・・・神子様、どこか怪我をされているのですか」
飄々とした印象の神殿長の声がふと真剣さを帯びる。
「近付いて気が付きましたが、打撲跡に塗る薬の匂いです」
その言葉にひやりと背筋に冷たい汗が伝う。ヨウ様の怪我からブレット殿下とのやり取りを勘付かれる可能性を鑑み、薬箱はクローゼットに入る際持ち込んだ。神殿長の指摘は完全に予想外のものだった。
「・・・少し肩をぶつけた。今朝治療院で薬を塗ってもらったから匂いはその所為だ。そもそも俺が怪我しようと関係ないだろ」
「ーーーッ神子の奇跡では自分の傷を癒せないんです!その手の怪我といい、今回といい、簡単に怪我をしないでいただきたい!」
神殿長のあまりの剣幕に思わず目を剥く。普段のこの男なら「気をつけるように」と一言で終わらせるような些事だろう。
相手がヨウ様だからか。しかしそれだけでは無いような反応だった。
「怪我は肩と言いましたね、見せてください」
「ちょ、っま」
冷静さを失った神殿長の手がヨウ様の祭服に伸ばされる。思いがけない暴挙を止めようと身体が動いた瞬間、クローゼットの壁に鎧がぶつかりゴトリと音を立てた。
大きくは無いが、決して小さくも無いその音は当然彼らの耳にも届いただろう。
二人の動きがピタリと止まった。
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