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この世界で生きるという事
コーニーリアスに案内されたのは同じ建物内の地下だった。一階の一番奥、門番が守護する扉のその奥に地下へ続く階段は存在した。日の光が遮られた階段は蝋燭の火があると言えど薄暗く、召喚の間や儀式の間とはまた異なった不気味さだった。
階段を降りきるとコーニーリアスが扉の鍵を開けた。扉を開いた先にはいくつかの牢屋があり、鉄格子の奥には手錠が掛けられた人間たちがそれぞれ力なく座り込んでいた。
迷いの無い歩みでコーニーリアスは一番奥の鉄格子の前へ進むと、中に立っている男へ声を掛けた。男は鎧を纏っていなかったが、軍服を連想させる制服を身に付けている。その手には一本の鞭が握られていた。思わずはっと息を呑む。
その鞭は血に濡れていた。
誰の血かなんて、この状況で分からないほど鈍く無い。
「コーニーリアス様!何故このような場所に!?」
「ヴィクターの様子を確認に」
「丁度今罰を与え終えた所です。たがが銀騎士の者の為に神殿長自ら足を運ばれなくても・・・」
男がこちらへ近寄ると、その影に隠れていたヴィクターの姿が露わになった。
「ヴィクター!」
思わずコーニーリアスを押し退け鉄格子にしがみ付く。ヴィクターは両腕をそれぞれ鎖で吊るされ膝立ちの状態にされていた。いつもの銀鎧は外され上半身は何も纏っていない。どうやら気を失っているようで、頭は項垂れており俺の声に対し反応が返される事はなかった。
無理もない。筋肉質な広い背中には、痛々しい無数の鞭の跡が残されていた。
慣れない暴力のその跡に、鉄格子を握る手が小刻みに震える。涙が滲みそうになるのを堪え指先にぎゅっと力を込め、乱れそうになる呼吸を誤魔化すように大きく息を吸う。
目を逸らしたくなるその姿を目に焼き付ける。これがヴィクターに助けを求めた結果だ。俺が受け入れなければならない罪。
「罰を与え終えたのなら早く治療を施してください」
「その髪の色、まさか神子様!?」
「ヴィクターは俺の守護騎士です。彼を返してもらいに来ました」
内心の動揺を悟られないよう背筋を精一杯伸ばす。じっとその目を見据えれば男は居心地悪そうにたじろいだ。
コーニーリアスは持っていた鍵で鉄格子の錠を外すと、ヴィクターを解放するよう男に声を掛けた。
「あなたはヴィクターを治療院へ連れて行くように」
「ハッ!」
コーニーリアスに指示され男は慣れた動作で両手を拘束する手錠を外すと、意識の無いヴィクターの腕を肩にかけ牢屋から出た。二人の後ろをついて行こうと後を追いかけるが、不意にコーニーリアスに声を掛けられる。
「神子様。ヴィクターの姿を見てもあなたの心は変わらないですか」
「・・・いいや」
変わらない?
ーーーそんな筈がない。
このクソみたいな世界への怒りも、理解の及ばない風習も規則も何もかも。俺が全部壊してやる。その覚悟が一層強固なものへ変わった。
手始めにお前だ、コーニーリアス。
神殿の権力者として君臨し、高みから余裕ぶっていられるのも今のうちだ。
俺はゆっくりと背後へ向き直ると、相変わらず飄々とした笑みを浮かべるコーニーリアスを真っ向から睨み付けた。
ヴィクターの目が覚めたのは翌朝の事だった。
神子の奇跡で癒した背中の傷は、今は跡一つ残らず綺麗に治っている。本当なら治療院に運ばれた後、怪我をすぐに治したかったのだが儀式一回につき起こせる奇跡は一度限り。
儀式の時間が来るまで、怪我の影響で熱にうなされるヴィクターの姿をただ見ている事しか出来なかった。
こんなにも歯痒い思いをしたのは初めてだった。嫌悪感を抱いていた儀式を早く行いたいと思う程に。
そして三度目の儀式は、一度目、二度目の儀式の時にあんなにも手こずったのが嘘のように、呆気なく終わった。
ヴィクターを癒す為に手段は選んでいられなかった。傷だらけの背中に治療を施す医者の目を盗み、俺は治療院からこっそり薬を盗んだ。
日記に残されていたが、過去には俺と同じように儀式を遂行するのが難しかった神子がいた。その神子が処方された薬と同じ名前のものが棚に並べられていた。気分を高揚させ、身体の感度を上げる所謂媚薬のようなもの。
本来ならきちんとした手順を踏み申請しなければならないが、それでは数日を要する。俺は今夜すぐに儀式を成功させたかった。ヴィクターの怪我を治し、全てが終わった後医者には素直に謝ろう。そう心に決め、薬を祭服の下へ隠した。
ヴィクターが復帰するまでの仮の守護騎士には、継続してアドルフと呼ばれていた騎士がつけられた。コーニーリアスと共に自室へ戻ってきた俺に声を掛けたそうに口を開閉していたが、複雑そうな表情を浮かべたまま結局言葉を発する事は無かった。
俺としてもアドルフと話したい事はなかった為、軽く会釈をしてから自室の扉を潜った。
ベッドに腰を掛け、中指ほどのサイズのアンプルを日に透かす。透き通った琥珀色の液体が、透明な容器の中で揺らぐ。僅かに逡巡してから、再びベッドから腰を上げ扉を開ける。アドルフは突然開いた扉に驚きぎょっと表情を崩していた。
「ど、うされました?」
「食事がしたい」
正直空腹は感じていない。
しかし空腹で薬を飲むのは些か憚られた。この世界に来て口にしたものは、元の世界から持ってきたペットボトルの水一本のみ。
先程コーニーリアスにはヴィクターがいなければ食事もままならないかと嘲られたが、その指摘は半分的を射ていた。この世界の食べ物を口にすると、元の世界に戻れないんしゃないかと、そんな思考が過ぎったのだ。
昔話でも黄泉の国の食べ物を口にすると現世に戻れなくなる、そんなイメージがあった。しかしこの薬を口にすると決めた以上、水や食事を摂ろうとこの際同じ事だ。それにいつまでも何も食べない訳にはいかない。
この際きちんと栄養を取り英気を養った方が良いだろう。
そう時間が経たないうちにコーニーリアスは食事を運んできた。因みに嬉々とした様子だった。
俺は廊下で食事を受け取ると、さっと部屋の中へ戻る。備え付けられた机に受け取った料理を置き、勢い良く椅子を引き腰掛ける。勢いに椅子がギシッと軋む。
俺は料理に視線を向けると驚いた。どうやらこの世界には日本と同じように米があるらしい。細長い形ではなく、ちゃんと丸みを帯びた楕円の米だ。準備された食事は、数日食事を取っていなかった胃に優しい粥だった。
俺はスプーンを手に取り米を掬う。
口を開け米を含むーーー、本来なら簡単なその動作が今はひどく恐ろしかった。
たったスプーン一杯。されどこの一口は俺にとってそれほどまでに大きな意味を持つ。
スプーンを一度皿に戻し深呼吸する。
俺はもう一度粥を掬うと、勢い良く口へ運んだ。何か考えるより早く米を飲み込む。
「・・・っ」
食べた。
味は至って普通の塩味だ。異世界らしい香辛料の味も無い。しかし異世界の食べ物を口にする忌避感から、嘔吐反射に胃が収縮する。一度動きを止めたら次は口に出来ない。
俺はとにかく無心でスプーンを動かした。
全てを食べ終えた頃には疲労困憊の有様だった。椅子の背もたれに背を預け、ぐったりと天井を見上げる。皿には米一粒残っていない。
食事をした。たったそれだけの事であろうと、一人でやり遂げたと言う達成感は俺に大きな勇気をもたらした。
大丈夫だ。これなら儀式だって一人で出来る。
日記の記録には、薬は三十分程度で効果が出始めると書かれていた。コーニーリアスが迎えに来る時間を逆算し薬を飲まなければならない。
俺は祭服の下に再び薬を隠すと、空になった器を乗せた盆を扉の外に控えているアドルフへ預けた。突然渡された盆をどうするべきかオロオロとするアドルフの姿に、こんな時だが僅かに笑みが溢れた。
持て余すほどの身体の熱とは裏腹に頭はひどく冷静だった。杯の中身が空になる様子を、ただ無感情に見つめる。
「はっ、はぁっ、ッう」
儀式は無事に成功させた。
予想外だったのは、薬の効き目が思った以上に強かった事。日記には使用量が書かれていなかった為、俺はアンプルを一本全て飲んだ。アンプルのサイズ的に大した量でも無かった為、大丈夫だろうと高を括っていた。しかしこの世界の人間と体格の違う神子には量が些か多かったのかもしれない。
先程から服の擦れる僅かな刺激にさえ声が耐えられない。
「っ、ひ、う」
背筋をぞくぞくと悪寒が走るのに、全身燃えるように熱がこもっている。ぎゅっと目蓋を瞑れば、生理的に滲んだ涙が顎を伝った。その小さな刺激に再び吐精する。
触れてもいないのに情け無いーーー、そう思い下を見下ろすと、吐き出した筈の精液は残っていなかった。
「あ、れ」
普段より鈍くなった思考も、それによって急にクリアになる。相変わらず身体は熱かったが、それ以上に無視出来ない仮定が俺の脳裏に浮かんだ。
涙を拭い時計を確認すれば深夜二時一分を指している。
供物を捧げる時刻は二時。この一分間でもう一度精液を捧げれば、奇跡を起こせる回数は二回。
ーーー奇跡をストック出来る?
これはまだ仮定に過ぎない。それに一分間にもう一度射精するなど、今のように薬に頼らなければ難しい。
それでもこの仮定が正しいのなら、俺はコーニーリアスを出し抜く事が出来るかもしれない。
俺は汗と涙と唾液で顔面をぐしゃぐしゃにしながらも、僅かに生まれた期待に口角を上げた。
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