人を殺せる女

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人を殺せる女

大勢の人間が同時に喋ると本当に『ザワザワ』という音になる。 新宿駅に入り込む度に、僕は、そう実感していた。 特に新宿の東側あたりの映画館からの帰り、巨大スクリーンのあるビル から地下へと降りた改札口付近だ。 人と重ならないように空いた改札口をみつけてスマホをかざし、十数本 あるホームへの通路を歩くあいだ、すさまじい量の人々が行きかう。 そしていつも意識する。 人とぶつからないようにしようと。 なんとなく僕のなかで『人を上手く避けたい』と率先するのだが 誰かしらの足を止めたり、ぶつかりかけたりする。 そうして『自身はまだまだ都会に不慣れなのだ』と、思ってしまう。 今夜もまた14番線ホームへの方向がわからず、上部の矢印を見ながら 向かっていた。 そのとき。 妙なものを見てしまった。 大き目のトイレのある場所で男女がいた。 男が壁側になり、女性が壁に片手をついて見つめていた。 いわゆる壁ドンの状態だが、男女が逆なのは少し違和感があった。 人と人の関係性というものは目にぼんやりと見えるものであり、雑踏でも それは瞬時に情報として入ってくる。 たぶん恋人同士、たぶん友人同士、たぶん親子、たぶん仕事の同僚。 もしくは僕のような一人で、チェック柄のシャツに白いTシャツで黒の チノパンに黒いスニーカー。 いかにも20代くらいの青年風とか。 それは密着性や会話の端々から感じ取れるものだが、そのときの女性と 男性には、それが無い気がした。 美しい女性と、中年男性、いま会ったばかりの他人同士だと。 気になった僕は、立ち尽くしたせいで通行人とぶつかった。 おもわず二人へと近づいた。 蒸し暑い夜を感じさせない涼し気な瞳と、栗色のショートカットに赤い口紅。 グリーンと黒の調和の取れた服装とタイトなスカート、黒いハイヒール。 そんな20代くらいの女性に見つめられているのは、ネクタイのゆるんだ 薄汚れた背広姿の、やや太めの男だった。 女性は人差し指を突き出した。 そして男性の汗ばんだ額を人差し指で軽く突いた。 男性が力が抜けたように壁を背にしたまま、ずり下がり座り込んだ。 まるで女性が『なにか』したみたいだった。
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