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8.真犯人
そのとき、二人の背後で飄々とした声がした。
「やあ。これは良いサフランでしょう? この品質ならクレオパトラも喜んで入浴しますよ。おたくの奥方にもどうです?」
それはフランクだった。
フランクはアルベルトとモニカに近寄り、間に割って入った。
アルベルトをちらりと見て、君には妻がいるだろ、と牽制している。
モニカは肩を震わせた。
「あなたがアルベルトを追い出したの」
フランクはそっと目を逸らした。
「さあ。何のこと。」
モニカはまた声を荒げた。
「何のこと、じゃないでしょ!」
フランクはモニカの方を向いた。
「さっぱりなんだけど」
しかしモニカは疑惑の目をしたままだ。フランクはため息をついた。
「モニカ。もうアルベルトは結婚してる。今更言ってもどうにもならないだろ」
そのときアルベルトが口を挟んだ。
「いや、どうにもならなくない。そういうことなら私が離婚すればよいだけの話だ。妻とは『形だけの夫婦』だから」
「は? 離婚?」
フランクは思わず口をポカンと開けた。
「ええ」
アルベルトは険しい顔をした。
「あのときは私も若かったから、モニカが幸せになるためなら身を引こうとも思ったがね。どうやら、モニカが私に身を引いてもらいたがっていたのは嘘だったようだ。それなら身を引く理由はないよ」
「いや、だからって離婚なんて。いくら『形だけ』でもそんなあっさり急には」
フランクは少し焦った。
「いや、モニカが私の求婚を承諾したと今の妻に伝えれば、ものの一時間で離婚が成立するだろう。モニカとのことは誰よりも応援してくれているからね。私たちは、難しい恋に身を窶した自分たちを慰めあう同志だから」
アルベルトは呆気にとられた顔のフランクを面白そうに眺めた。
「今の妻の方もね……。ははは、近々政変が起こるかもしれないよ。これ以上は言えないけど」
それからアルベルトはモニカの方を向いた。
「悪かったね、モニカ。マイルズ殿の縁談話を聞いたとき、よっぽど自分が立候補しようかと迷った。しかし横入りもあまりに無粋で。代わりにイノシシを届けたけどどうだったかな?」
「まあ! イノシシはあなたの嫌がらせだったの!?」
モニカは目を見張った。
「そうだよ。モニカはきっと気分を害すると思ったからね」
アルベルトはうまくいったとばかりに、にっこり笑った。
フランクは顔を顰めた。
「今日はアルベルト様は何しに来たんです。まさか本当にモニカに求婚するつもりで?」
「うん」
アルベルトは大きく肯いた。
フランクの目つきが険しくなったが、冷静に言い返した。
「モニカは俺と結婚してバーニック家を継ぐ。あなたの出る幕はありません」
「うん」
またアルベルトは肯いた。
「そうだったんだけど……でも、今は私もバーニック伯爵には手土産があるから」
「手土産?」
フランクは息を呑んだ。
アルベルトはまたにっこり笑った。
「私の今の妻の実家はバーニック伯爵領の隣。自殺未遂までした娘を嫁にもらってやる代わりに、我がサスマン家が持参金でいただいたのは、ここバーニック伯爵領を潤すラテリア川の水源地帯。バーニック伯爵がずっと欲しがっていた制水権をなんと土地ごとだ。今の妻との偽装結婚も意味があったんだよね」
「偽装結婚……」
フランクは虚ろな声で繰り返した。が、ハッと気づいた。
「いや、逆にそんな持参金もらってちゃ、離婚できないだろーが!」
「まあ、それはできるんだ。妻の方も私との偽装結婚で……いや、まだ言えないな。でも、とりあえずたぶん、あんまりあの人は敵にしない方がいい、ははは」
アルベルトはあっけらかんと笑った。
フランクは話が自分に不利な方に進むのでだんだん青ざめた。
アルベルトは微笑んだ。
「ところで、フランクとも久しぶりだね。元気にしてた? モニカと一緒にサフランを育ててくれたんだね」
フランクは何も答えず、凍り付いた目でアルベルトを睨んだ。
そのときふとモニカが声を上げた。
「でも、あなたが去ったあの日、なんであなたはサフランを私に手渡したの。あの沢に咲いていたのはイヌサフランだったでしょう」
「ああ、気付いてたんだね」
アルベルトは面白そうに笑った。
「イヌサフランは毒草だ。食べりゃ人が死ぬからね。庭に植えるわけにいかないだろ」
「『庭に植える』って。私が植えると思ったの?」
モニカは胡散臭そうにアルベルトを見た。
「思ったよ。確信があった。サフランは私からバーニック家への、せめてもの嫌がらせだよ」
アルベルトは笑った。
「紫の花が咲いてるうちはモニカは結婚する気にならないんじゃないかってね。価値がある花ならみんなも世話するだろうし。そうしたら、その通りになった!」
フランクはぎゅっと唇を噛んだ。
こいつの思い通り?
モニカは少し悔しそうな顔をしたが、観念したようにふふふっと笑った。
「策士ねえ」
それからモニカはフランクを振り返った。
「ってことで、私アルベルトと結婚するわ! あんたはバーニック伯爵家を継ぐ大事な人だから、私はこれ以上何も言わないことにするわね。メリッサをよろしく!」
フランクはじっと黙っていたが、やがて盛大なため息をついた。
「はああああ。こんなことになるなら、泣き叫ぶおまえでも何でも、さっさと抱いときゃよかった! 既成事実さえ作っちまえば、こっちのもんだったのにな!」
アルベルトは目を剥いた。
フランクはそんなアルベルトを恨めしそうに見た。
「そんなに怒るなよ。うまいことあんたを追い出したのに、あんまり毎日モニカがあんたの名前を呼ぶから、手を出せなかったんだ。俺の気持ちも分かれよ。ササっと横から搔っ攫いやがって!」
アルベルトは正直に目を落とした。
「まあ、その気持ちは分かる。私も婚約が約束されていた君や……今回のマイルズ殿には……全く同じ気持ちにさせられたから」
「共感しちゃだめじゃん!」
モニカが突っ込んだ。
アルベルトは首を振った。
「いいんだよ、モニカ。でもフランク、祝福してくれよ。3年待った俺たちの気持ちを汲んでやってくれないか。絶対に幸せにするから」
「嫌だと言ったら?」
フランクが聞くと、
「イヌサフランを盛る」
とアルベルトは即答した。
「こらっ!」
モニカが突っ込んだ。
「いや、嘘だよ」
アルベルトはにっこりした。
フランクはふうっと息を吐いた。
「お袋が親父と離縁してそれぞれが別の人と再婚したから、俺にはもう帰る場所がない。バーニック伯爵家にいられるだけマシなんだ。できればそれがモニカの横だったらと夢見ていただけさ」
「フランク……。ごめんなさい。あなた本当の本当に、本気だったのね」
モニカは申し訳なさそうに言った。
「これだもんなあ」
フランクは苦笑した。
「いいよ。分かったよ。アルベルトとくっついてしまえ。俺はおまえにも、バーニック伯爵夫妻にも世話になってるからな。これ以上駄々は捏ねない」
「ありがとう、フランク!」
アルベルトは嬉しそうにフランクの肩を叩いた。
「それで、私の今の妻が近々起こすだろう政変なんだけど、バーニック伯爵家の乗り切り方を教えるから……」
「おいっ! 待てっ! さっきから気になってたんだ! おまえの妻が起こす政変って何だよ!」
フランクはもう我慢できないと、アルベルトの言葉を遮った。
「あ、いや、それはまだ言えないんだけど……」
アルベルトは笑顔のままだ。
「あと、『妻』じゃなくて『今の妻』ね」
「くそっ! もう、ややこしいな! 言えないのに乗り切り方は教えてくれるのかよ」
フランクはイライラした。
「それから、俺はこのサフラン畑はどうしたらいいんだ?」
「私の思い出にしてよ」
さらっとモニカが言った。
「死ね」
とフランクは返した。
「こんな手のかかる草、正気じゃねーわ」
「そうか。じゃあ、遠慮なく、球根は全部掘り起こさせてもらうから」
アルベルトはにこっとして言った。
それから小声で、
(残ってたらメリッサ殿のご不興を買うでしょうからね。)
といたずらっぽく言った。
「死ね」
ともう一度フランクは苦々しそうに言った。
「傷心中に別の女の名前を言うんじゃねーよ」
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