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3.愛の思い出
1,2か月が経った頃、バーニック伯爵はモニカに、マイルズ・グリーソン男爵令息の身上書を手渡しながら婚約の件を伝えた。
「は?」
モニカは素っ頓狂な声を上げた。
「いや、普通に嫌ですけど」
「バカもんっ!」
バーニック伯爵は怒鳴った。
「嫌とか言える歳か!?」
「ひどいわ! 娘の幸せとか考えずに結婚させちゃうわけ?」
モニカが言い返す。
「うるさい、うるさい、うるさいっ! お前はさっさと結婚しろ!」
バーニック伯爵はまた声を張り上げた。
「結婚して赤ん坊でもできたら、そのうち『ああ~幸せだな』とか思うものなんだから」
「なによ、そんなの嘘! 結婚は人生の墓場って顔してる人、いっぱいいるわよ! 変な価値観押し付けないでよね!」
モニカは手に持っていた身上書を床に叩きつけた。
「あっ! こらっ!」
バーニック伯爵が慌てて拾い上げる。
「とにかく、私は誰とも絶対に結婚しませんから!」
とモニカは言い捨てて、すごい勢いで部屋を飛び出して行った。
「許さんっ! 何があろうとマイルズ殿との縁談は進めるからな!」
バーニック伯爵は顔を真っ赤にして、モニカの背に向かって大声を出した。
何よ、何よ、何よ!
モニカは泣きそうな顔をして拳をぎゅっと握った。
絶対嫌よ。
誰よ、マイルズって。
アルベルト以外の男の人とは絶対に結婚なんかしないんだから。
アルベルト……。
モニカは自室に戻ると、ベッドに突っ伏した。
アルベルトとの思い出が否が応でも浮かぶ。
モニカはある日のアルベルトとの馬の遠乗りの日を思い出した。
あの日モニカは、お気に入りの山の岩場に行こうと、アルベルトを誘ったのだ。
初めはなだらかな丘陵地帯を行くが、途中からは木の多いところを抜けていく。
細い尾根道を辿っていくと、急に木がごっそり姿を消し視界が開ける。そこは岩場の露出した崖になっていた。
崖に端に大きな岩が埋まっていて、頭の部分を土からはみ出して空に突き出していたのだ。
その岩からは眼下の緑の谷を一望でき、またとなりの山の全貌を眺めることができるので、モニカのお気に入りだったのだ。
二人は御供も連れず、気ままに出かけた。
しかし、途中まではとても天気がよかったのに、急にぶ厚い雲が太陽を隠したかと思うと、ゴロゴロと雷が鳴りだした。雨もぽつぽつ降り始めた。
二人は嫌な予感がしていたが、木々を抜けて開けた岩場に出た瞬間、案の定、ピカっと空を切り裂く稲妻が走った。
臆病なモニカの愛馬は、怯えて足を止めた。
雷となると、岩場も、木々の少ない丘陵地帯も怖い。
まだ木々の中にいた方がましかもしれない。とはいえ、木にも雷は落ちる。
雨もだいぶ激しく降り出した。
「モニカ。横道に反れよう」
アルベルトは冷静に言った。
「雷が近い。沢沿いへ下りる。沢筋に横土が抉られている場所があるから、そこで雨も凌げるだろう」
モニカは少し躊躇った。
「沢筋は雨で水が増えたとき危なくないかしら」
「水の湧き出し口から比較的近い場所だ。雨が激しくなるようなら考えるが」
その時、またゴロゴロと空気を震わす音が聞こえた。
馬がさらに怯えて首を垂れた。
その様子を見てモニカは頷いた。
「そうね。わかったわ。とりあえず行きましょう、馬が動くうちに。落雷に巻き込まれてもつまらないしね」
モニカとアルベルトは馬を降り、道を外れると、比較的歩きやすそうな場所を探してそろそろと慎重に沢の方へ下りて行った。
木々のおかげで斜面はしっかりしていたが、馬がいるとめんどうだ。
「モニカ大丈夫か」
とアルベルトは心配そうに声をかけたした。
「大丈夫よ。誘ったの私だもの。悪かったわね」
「雷は仕方ない。ははは。いつまで馬がおとなしくしてくれるかな。こんなところで馬に機嫌を損なわれると厄介だね」
しかし、アルベルトの予想は当たってしまった。
モニカの馬の性格は他の馬より臆病だったので、歩きなれない悪道で、耳を落ち着きなく動かしたり、首を振ったり、歩みを止めたりした。
そのうち雨は本降りになってしまった。
アルベルトは遠慮するモニカと半ば強引に馬を交換すると、モニカの馬を引きずって、なんとか横穴まで辿り着いた。
少し沢から離れた足場の良いところに馬をつなぐと、二人は一先ずほっとした。
そして、横穴に潜り込むとできるだけ雨を避けて奥まで入り、二人はぴったりと寄り沿って座った。
モニカの耳には、しとしと降り落ちる雨の音や沢を流れる水の音と、アルベルトの呼吸音が聞こえてくる。
と、途端に、またゴロゴロ、ゴロゴロゴロ……と太く長く雷が響いた。
「雷をやり過ごすまでの辛抱だから」
アルベルトは安心させるように柔らかく言って、そっとモニカの肩を抱いてやった。
モニカはドキっとして心臓が急に早く高鳴りだした。
ああ。アルベルトの体温が伝わってくる。
ふと見上げたアルベルトの横顔。耳が少し赤かった。
ずっと好きでよく遊んでもらったけど、こんなに近くに座るのは初めてかもしれない。
ふとアルベルトがモニカの方を見た。
二人の目が合った。
「何見てんの」
アルベルトは照れて口を尖らせた。
モニカがドキドキして何も答えられずにいると、
「めずらし。モニカが弱って見える」
と、アルベルトはそっと目を細めて笑った。
「もう」
モニカはそう言うと、仕返しにぐいっとアルベルトの腕を引っぱった。
「あ、あぶなっ」
アルベルトは思わず倒れかかりそうになって、腕を土壁についた。腕で踏ん張って体を支える。
「モニカ、ちょっといたずらが過ぎるだろ」
アルベルトが驚いて目を上げたとき、モニカはいきなり、無防備なアルベルトの唇にキスをした。
アルベルトは驚いて目を見開いた。
慌てて唇をずらしてモニカの目を見る。
モニカは急に恥ずかしくなり、真っ赤にした顔を背けた。
(ぎゃあああ、やっっっちゃっっった! なにしてんの、私!)
耳まで真っ赤になる。そして、どうしたものかと唇をぎゅうっと結んだ。
アルベルトは「そうか」と思った。そしてモニカの心がいじらしくなった。
思わずアルベルトの口元が緩む。
「モニカ、ごめん。顔を上げて。」
アルベルトはそっとモニカの頬に手を伸ばした。
モニカは自分からキスしたくせに、びくっとして肩を竦ませた。
(いや、恥ずかしすぎて無理だろっっ!)
「モニカ」
アルベルトは真面目な顔でモニカを覗き込んだ。
「大丈夫。」
モニカの背を冷や汗が流れた。目をぎゅっと瞑る。
(何が大丈夫なのよおっっっ。恥ずかしすぎて死ぬっ)
アルベルトは、モニカがきっと心の中でオロオロしまくってしているのだろうと思って、可笑しくなった。
「モニカ。大丈夫だって。同じ気持ちだから」
「え?」
はっとしてモニカが顔を上げると、アルベルトの少し照れた微笑みにぶつかった。
「いいってことだよね」
アルベルトはそう言ってモニカの腕を掴んで体を引き寄せた。
「えっ、ええええっ」
モニカが(自分で蒔いた種なのに)仰け反った。
(嘘っっ、これアリだったの!?)
「雷もよい仕事をするもんだね」
そう言ってアルベルトはモニカの腰に手を回し、口づけた。
(あ……)
モニカはアルベルトにキスをされて心臓らへんがぎゅっとした。
好きだって気持ち、伝わってくれた。アルベルトもこんなに優しくしてくれる。
そして、そのままアルベルトの肩に手を回し、身を任せた。
二人はしばらくお互いに気持ちを確かめるように唇を重ねていた。
そのとき、何というタイミングだろうか、急に、パキッ、カサッと沢沿いを歩く気配がした。
(誰っ!?)
二人は思わず体を離した。
アルベルトも咄嗟のことで驚きながら、モニカを守ろうと身をすっと前に身を乗り出した。
ガサッカサカサッ パキッ
足音はこちらへ近づいてくる。
(こんなところに誰が……)
モニカは乱れはないか、ささっと髪を撫でつけ、胸元を正した。
と。
横穴の二人の前に現れたのは、イノシシの親子だった。
母イノシシが2匹のウリ坊を連れている。
「イ、イノシシ!?」
モニカは思わず声を上げた。
母イノシシは子供らを雨宿りさせようとこの横穴に連れてきたに違いない。
先客を妬ましそうな目つきで見た。
「あははっ」
とアルベルトは笑った。
「イノシシと考えていることが全く同じだったとは」
アルベルトはイノシシに向かって
「すまなかったね」
と優しく声をかけた。
せっかくお互いの気持ちを確かめあっていたのにイノシシに邪魔された、とモニカはむすっとした。
(くそうっ。イノシシめっ。鍋にしてくれるっ)
アルベルトはそんなモニカのほっぺたをつんつんと突いた。
「そんな顔しなくても。イノシシに言ってもしょうがないだろ」
それでもモニカがしゅんとしていたので、アルベルトは「はははっ拗ねないの」と笑ってモニカの肩を抱いてやった。
イノシシの親子はしばらく二人の前をうろうろしていたが、やがて諦めたのか姿を消した。
「雨宿りさせてやろうだなんて、母イノシシの愛情も深いものだな」
アルベルトのモニカを抱く手に力がこもった。
(あ……、アルベルトの手……。まあイノシシに邪魔されたけど、アルベルトが抱っこしてくれてるからいいか)
モニカは気を取り直した。
二人は黙ったまま、満ち足りた気持ちで雨を眺めていた。
やがて雨が止んで、輝くような木漏れ日が二人のいる沢まで差し込んできた。
「晴れたね」
アルベルトが呟いた。
ふと沢の方に目をやったとき、紫の花が岸辺に群生で咲いているのが見えた。
クロッカスに似た紫の花は光を浴びてピッカピカだ。
きれいだな、とモニカは夢見心地で思った。
私、この日のこと、絶対に一生忘れない。
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