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5.破談の口実
さて、その頃自室に戻ったモニカは肩を震わせていた。
「アルベルトめ! 何なの! 私が本当にあんな男のものになればいいと思ってるの!」
「あんまりカッカしないで」
フランクは心配そうな顔でそっとモニカの肩を抱いた。
「フランク! あんた、なんでしれっと私の部屋にいるのよ!」
「ええ! ダメなのかよ。慰めに来たのに」
「さっさと客間に戻ってあの男を追い出してちょうだい!」
「そりゃ喜んで追い出すけども」
フランクは苦笑した。
「しかし一体なんで急にあんな男が来たんだろうね?」
「お継母さまよ。私を追い出したくてしょうがないの。アルベルトに期待していたのにそのアルベルトが結婚してしまったから、別の候補を探してきたんだわ」
「ちょっと、ちょっと、ちょっと! 俺は何さ。モニカの婚約者の体でここに引き取られてるのに」
モニカは無表情でフランクを見やった。
「なんであんたが私の婚約者なのよ! 冗談も休み休み言いなさい」
「ええっ? 冗談なの、これ!? はあ……」
フランクはため息をついた。
「とにかく、フランクはあの男を追い出してちょうだい。イノシシの死骸なんか持ってきて、バカにしてますと言っておいて」
「追い出すのは異論はないけどね」
フランクはため息をついた。
「そろそろ俺のことも本気で考えてくれよ」
モニカは手元にあったクッションをフランクめがけて投げつけた。
「誰が考えるか! フランクのクセに!」
「投げんな! 分かったよ。まあ、行ってくるさ」
フランクはもう一度ため息をついて立ち上がった。
ちっとも俺のことは眼中にないんだな、とフランクは思った。
どれだけ待てばいいんだ?
でも、こうしてアルベルトがマイルズを推したということで、モニカも大分アルベルトには失望しただろう。
アルベルトはとっくに結婚しているのだし……。
それにしても。
『追い出したいお継母さま』
そういうことか!
たぶんバーニック伯爵夫人は、モニカを追い出して、俺とメリッサを結婚させて爵位を継がせるつもりだな。
それであの気の毒なマイルズ・グリーソン男爵令息がやってきた、と。
俺はずっとモニカが好きだった。『婚約者だから』といって引き合わされた可愛らしい天真爛漫な少女。
しかし、すぐさま出現したアルベルトにモニカの関心は奪われ、モニカはアルベルトの名前しか呼ばなくなった。
それでも、この思いは消えなかった。
今更メリッサと結婚なんてできるか。
とにかく、マイルズ殿には帰っていただこう。
マイルズ殿にモニカを嫁るわけにはいかないから。恋敵には消えていただく。
フランクは、侍女から『先ほどの客間はもうお開きになっていて、マイルズ殿は晩餐までの時間、別室へ案内されている』と聞いたので、そちらへ足を運ぶことにした。
マイルズ殿に何と弁解しようかなどと頭を巡らせながら。
フランクがその客室に辿り着くと、急に扉があいて、屋敷の使用人が飛び出てきた。
使用人の慌てぶりを見るとこの部屋の準備に少々抜かりがあったようだ。
「おっと。マイルズ殿が気分を害されていなければよいが」
とフランクが思った時だった。
扉の隙間から、フランクの目に、異様な物が飛び込んできた。
マイルズは客室の長椅子に腰かけながら、何か胡散臭そうな目で小瓶を眺めていたのだ。
あの小瓶は!
フランクは知っていた。
バーニック伯爵夫人が、何かここぞというときに、手にしているのを見かけていたからだ。
バーニック伯爵夫人の持ちモノ……。
フランクは嫌な予感がした。
「マイルズ様!」
フランクは思わず声を上げた。
閉まりそうになる扉を礼儀もなく咄嗟に開けてしまう。
「おや? これは、え~っと、フランク様?」
マイルズは目を丸くしながら、突然の訪問客の方を見た。
「大変失礼いたします。しかし、マイルズ様。お手持ちのモノは何でしょうか!」
フランクは声を荒げた。
「ん? あっ!」
マイルズは途端にバツの悪そうな顔になった。
「いや、これは違うのだ。私のモノではない。バーニック伯爵夫人に渡されてね」
「中身はなんです」
フランクは刺すように聞いた。
「ん? あ、ああ、惚れ薬だったかな?」
マイルズはフランクの勢いに押される形で思わず素直に答えてしまった。
周りの使用人たちが思わず手を止めた。
「なんですと!」
フランクの目が吊り上がった。
「マイルズ様、あなたという人は!」
「え!? あ、いや、誤解ですよ! 私はこんなものを使おうなどとは露にも思っておりません!」
マイルズはようやく事の次第に気づいた。
そして自分の間の悪さに悔しくなった。
「どうでしょうか。先ほどのモニカの態度ですからね。力ずくで既成事実でも作ってしまおうとお考えになったのでは!?」
フランクが突く。
「違う! 私は本当にそんなことは考えていない! ただ渡されたことを思い出して、ふと手に取り眺めていただけだ!」
マイルズは弁解した。
それはその通りだったのだと思う。
この実直そうな男がそんなセコイ手を使うとは思いにくい。
しかし、フランクはこれはいい口実になると思ったし―――、『惚れ薬』なんて代物をこの男が持っていることが気に入らなかった。
「バーニック家はそのような薬を使ってまで婦女を手籠めにする者を認めるわけには参りません。事は公には致しませんから、どうぞ適当にお帰りくださいませ!」
フランクは断じた。
マイルズは顔色を変えた。なんという恥だろうと思った。
この薬はバーニック伯爵夫人から手渡されたものである。濡れ衣だ。なぜ自分がこのような汚点を作らねばならない。
「フランク様。これで私が帰れば、そのような汚らわしい小細工を私が弄していたことになる。決して認められません」
「ほう」
フランクは睨み返した。
「ではマイルズ様は我がバーニック家がそのような汚らわしい小細工を弄したと仰りたいのかな」
マイルズはぐっと言葉に詰まった。
その通りなのだが、フランクの手前、バーニック伯爵夫人の名を穢すようなことは軽々しく言えない。
バーニック伯爵家とグリーソン男爵家。
マイルズには身分の壁もあった。
「私は口が堅い。黙っていますよ」
フランクは言った。
(そもそもバーニック伯爵夫人がやったことなのだから誰にも言えぬ。)
そのとき、ようやくマイルズは、フランクの目の奥の意図に気付いた。なるほどおそらくフランクは、全部を分かっていて何か茶番をやっているのだ。
それからマイルズは、モニカのさきほどの頑なな態度を思い出した。
モニカは私を容易には受け入れまい。
ここはフランクに貸しを作って手を引いた方が得策のようだ。
「分かりました。そういうことに致しましょう」
マイルズは腹を決めると、すぐさま使用人たちに「郷に帰るぞ」と告げた。
ハラハラしながら話を盗み聞いていた使用人たちは、マイルズの言葉に一斉に頷き、帰り支度を始めた。
マイルズがモニカとの縁談を辞退するという話は、すぐさまバーニック伯爵夫妻に伝えられた。
バーニック伯爵は暗い顔をした。しかしさきほどのモニカの態度を見て多少の覚悟はしていたので、あまり何も言わなかった。
対して、バーニック伯爵夫人の方は金切り声をあげた。
「まあ、どういうことですの!? マイルズ様がお帰りになる!? ああ、昼間のモニカの態度ね!?」
(いやいや、あなたのせいですよ。)
とフランクも、あの場に居合わせていた使用人も思ったが、惚れ薬の件についてはフランクが戒厳令を敷いたため、誰も何も言わない。
「まったくモニカときたら!」
バーニック伯爵夫人は忌々しそうに唇を噛んだ。
追い出せないじゃないの。
しかし、バーニック伯爵夫妻には特に何かできるわけではなかった。
そうして、結局気まずいしこりを残して、マイルズ・グリーソン男爵令息は帰っていった。
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