割れる

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 その町の影が見え始めたのは、山を登り始めて五時間がたった頃だった。  梅雨独特のまとわりつくような湿気のせいで、私は汗にまみれ疲弊していた。  だが、これで名誉を手に入れることができるのだ。士気はみなぎっていた。  その光景を見るまでは。  記者である私が上司から指示を受けたのは、朝の五時だった。  ――あの町への道を聞き出した。今すぐ行ってくれ。  すぐに地図のデータが送られてくる。私の寝ぼけた頭はあっという間に覚醒した。  胸が高鳴る。あの町の真実を記事にできれば、私はのし上がれる。  その町、山萩町はここ一週間、音信不通となっていた。  山間部にあり、近年再開発が進むいたって普通の町だ。大型チェーン店やショッピングモールが進出し、住宅街も増えてきている。  欠点があるとすれば、その交通の便の悪さだろう。車がないと生活できないような場所だ。  その町に異変が起きたのはちょうど一週間前。突然の地割れにより町は孤立した。  もちろん住民の救出のため、国が動く。救出に向かった自衛隊のヘリコプターは帰ってこなかった。  それだけではない。様子を見に行った親戚や友人、取材に行った記者もだ。  皆が固唾をのんで見守った生中継のニュース番組。ヘリコプターに乗ったアナウンサーが興奮気味に現地に向かう。  そして、町に入った途端、何も言わなくなった。カメラも伏せられた。そして、そのまま爆発音を上げる。取材陣がどうなったかは想像に難くない。  私はそんな町の取材を命じられたのだ。上司は私を捨て駒にした。死んでこいと言われているようなものだ。  だが、だからこそ、これをスクープにすることができれば、私は一躍世間の注目を集めることができる。あの上司などもはや相手にすらならないくらい。  私の気合は有り余るほど十分だった。    不自然な地割れに落石。上司に示された道はあまりに険しかった。  体力には自信があった。中学から大学まで体育会系の部活で通したのだ。一般的な男性より優れているはずだ。  だが、町までの道のりは生半可なものではなかった。一時は上司が私を殺すために嘘をついてこの場によこしたのではないかと思ったほどだ。  しかし、町の影は見えてくる。私は安堵し、歓喜した。  スマホを確認すると時刻は昼の十二時だった。そして、気付く。電波を示すアイコンが最小と圏外を行き来している。  ここは山間部だ。不思議ではない。  だが、私はどこか心細さを感じた。外部との連絡を絶たれるというのはなかなかに不安なことのようだ。  私はスマホを片付け、山の斜面を登る。  一歩一歩町に近づく。異臭に口元を覆った。近づけば近づくほど、耐えがたくなっていく。顔をしかめた。   町に足を踏み入れた。胃液が喉までこみあげてきた。  砕けた地面に無惨な姿の民家。何かの燃えかす。黒く焦げた日用品。  そして真っ二つになった、死体。 「おい」  なんとか胃液を飲み下した私だったが、突然声をかけられ、肌が粟立った。  恐る恐る振り返るとやつれた男が縋るような目でこちらを見ていた。  そのぎらついた瞳に、私は異様さを覚える。寒気が走った。 「あんた、外の人だろ?」  外の人、というのがこの町の外から来た人間のことを表していることに、私は少したってから気付いた。  だが、この男の問いに答えていいのか?  異様な光景と、男の目に動揺し、私は全てを疑っていた。  背中に小さな衝撃があった。小石ほどの何かが当たったような。 「振り返るな!」  男の叫びに、反射的に振り返りそうになった体が不自然に止まる。 「走れ! 殺されるぞ!」  体が強張る。何が起きているか分からなかった。  男についていく方が危険かもしれない。頭を過ったが、殺されるという言葉は私を走らせるのに十分だった。  私は男の後に続く。  いかにも新興住宅という小綺麗な一軒家が連なる区画に出た。白い壁に赤色が散り、見るも無残な死体が転がっている。  男はある家の前で立ち止まり、鍵を開けた。私は男と転がるように、その中に逃げ込んだ。 「おそらくここまでは追ってこないはずだ」  鍵を閉め、男は言った。おそらく、という言葉に不安を覚えながらも私はやっと息をついた。  中はごく一般的な新築の家だった。そこには瓦礫も、血も、死体もない。  案内されるままリビングに向かう。  暗かった。暑かった。電気が来ていないのだろう。外の様子から容易く推測はついた。  あんな状態でライフラインが生きているわけがない。  閉じられたカーテンの外から物音がする。それだけで、私の体は大きく跳ねた。  情けないと思う隙もない。ただただ、恐ろしかった。  席を勧められ私は大人しく、品の良い木製の椅子に座る。男が私の正面に座った。 「昼はあいつらがうろついてる。夜だ。夜になったら逃げだそう」 「あいつら……?」  私のか細い問いに男は目を伏せる。 「狂っていったやつらだよ」  そして彼はひとり話し出す。  それはあまりに異常で、やけに生々しい話だった。 『割れること』がもたらす災厄の話。    気味の悪い始まり方だった。  それはショッピングモールのガチャガチャコーナーから起きる。  小さな子どもが親に見守られ、ガチャガチャを回していた。何の変哲もない休日の風景だ。  転がり出てきたカプセルを、子どもは親に渡す。貼られたセロハンテープをうまくはがすことができなかったのだ。  親はそれを取り去るとあとはふたを開けるだけになったカプセルを子どもに返す。  表情を輝かせ、子どもはそれを、ぱかり、と二つに割った。  床が音を立てた。ガチャガチャコーナーは真っ二つになった。地面に亀裂が入ったのだ。  地震ではない。揺れは一切感じなかった。  町のショッピングモールは騒然とした。急ぎ出口に走った客のもみ合いで、けが人も出たが、大事には至らなかった。  客の避難が行われ、スタッフらは原因究明を急いだが、結局は何も分からず、ただ不安だけが残った。  その夜、轟音とともに大きな地割れが起こった。  道路が崩れ、町外に繋がる道が絶たれる。水道、電気、ガス。ライフラインが失われた。  人々は不安に駆られ、スマホを手にし、あらゆるところに電話をかけ、SNSで情報を流した。虚偽が入り混じり、町はますます混乱した。  翌日の早朝、町の役場では緊急の会議が開かれていた。何時間も話し合いがなされるが、一向に有用な手立てが見つからない。  その間にも町のあちこちから地割れの報告があがっていた。  そして、もう一つ。  真っ二つになった死体が道路に転がっていたという。  顔を青くした職員の声に、会議室は静寂に包まれた。  空気を変えようとしたのだろう。一人の事務員が会議室に人数分の弁当を運んできた。ショッピングモールからもらい受けてきたものだ。  場をなごませるように町長は明るい声を出し、手を合わせる。紙の入れ物から割り箸を取りだした。  そして、割る。  正面に座っていた町議が真っ二つに裂けた。赤い血が殺風景な灰色の会議室を染めた。  住民はパニックに陥った。皆が町から出ようと必死になった。  そのせいだろうか。町の至るところで変死体が見つかり始める。  その体は縦二つに分かれ、包丁で切ったような綺麗な断面を見せていた。  周りには必ず割れたものが落ちていた。食器、花瓶、画面が砕けたスマホ。  町から逃げ出せたものがいたかは分からない。  だが、人々は慌てふためくことに恐怖を覚え始めていた。  さらに翌日、自衛隊のヘリコプターがやってきた。住民たちはむせび泣いて喜んだ。  着地したヘリコプターがその場にあった小枝を割った。ヘリコプターは真っ二つになり、燃え盛った。  死体安置所にはもう入りきらないほどの死人が出ていた。町のあちらこちらに回収されない死体が転がり始めた。暑さで異臭を放っていたが、どうすることもできなかった。  日に日に被害は大きくなる。  人だけではない。建物も二つになった。  六月の雨が降り注ぐ。  家を失った者もいた。手を差し伸べるものはいなかった。皆、己のことで精いっぱいだった。  町は静かになっていった。  焦り、慌てふためくことがどれだけ危険なことか、住民たちは身をもって理解したのだ。  割ることがすべての元凶だ。  住民は細心の注意を払った。足元をじっと見て、割れ物を柔らかな布で包み、己の一挙一動に怯え、それでも、最後の希望として助けが来るのを待った。  だが、救出に来る者たちは迂闊だった。  簡単にものを割った。壊れた町には瓦礫が転がり、その破片を踏みつけるだけでまた悲劇が起きる。  原因究明に来た研究者は絶句し、そして、何かメモを取り始めた。血が噴き出た。彼は割り算をしていた。  希望を失う者も出てきた。酒に逃げる者もいた。  誰もいない酒屋に侵入した彼はウイスキーを手に取り、瓶から直接飲んだ。それは濃く、男は咳込み、吐き出す。  男は外に出る。降り注ぐ雨の中、瓶を天に捧げるように持ち上げる。瓶の中でウイスキーが水と混ざった。  完成したのはウイスキーの水割り。  男は突然奇声を発し、近くの瓦礫に瓶をぶつけた。そして、その尖った凶器を持ち、隣家へ向かう。  心が割れた。割れて壊れた。  割れる、われる、ワレル、コワレル。  地面が、建物が、人が、心が、壊れる。 「正気で生き残っている人間を、俺は俺以外知らない」  あまりに荒唐無稽な話だった。  私は男を哀れに思った。悲痛な現実に向き合えず、自らおかしな話を仕立て上げたのだと。  そう、思いたかった。  町の光景を見てしまった私はその話を笑い、蔑むことはできなかった。  逃げよう。  もうスクープなどどうでもよかった。目の前の男もどうでもいい。一刻も早くこの町から逃げ出したかった。  私は勢いよく立ち上がる。 「夜に逃げるぞ。今はやめとけ」  そんな静止など聞いていられなかった。こんな狂った場所に夜までいるなんてありえない。  だが、男は私の肩を掴み強引に止める。 「やめろって言ってんだろ!」  私はそれを弾くように払った。窓の外でドンッ、と鈍い音が鳴った。  私は震えあがり、そちらを指さす。 「今にも狂ったやつら襲ってくるかもしれないんだろ!?」 「落ち着け! あんたみたいな人間が何人死んだと思ってるんだ!」 「知るか! 俺は今すぐ逃げる!」 「夜まで待てと言ってる――」  目の前で男が二つになった。綺麗な断面だった。鮮明な赤だった。  今逃げる。夜まで待つ。  意見が割れた。  ただ、それだけのことだった。 了
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