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 その後なん度探しても、アパートは見つからなかった。  そうして分かったことは、「○○六丁目」という住所自体が存在しないことだった。  ○○という住所は、五丁目までしかないのである。  ポケットのメモを見ると、そこには自分の字でK市○○6―2―18コーポ△△△205号と記されている。  いまとなってはこのメモだけが、アパートのあるべき場所を記憶してることになる。  最初は機能していたはずの地図アプリも、いまでは入力してもエラーとなるだけだ。  不動産屋と取り交わした正式な契約書は、引越しの荷物の中で確認しようもない。  担当者がスマホに出ないので、不動産会社の固定電話へかけて見たが、やはり繋がらない。  最終手段で、彼は上野の不動産屋へ行ってみた。  驚くことに十日前にそこにあったはずの店舗が、まったく違う雑貨屋に変わっていた。  幾度も辺りを探し回ったが、それらしき店はない。  間違いなく不動産屋は、彼の目の前の小さなビルの一階にあったはずだ。  それが証拠に隣のファストフード店では、あの日彼が注文した期間限定のバーガーが売られている。  どう考えても、場所はここで間違いはない。  彼は恐る恐る雑貨店へ入り、十日前までここは不動産屋ではなかったかと聞いてみた。  まだ二十代前半らしいギャル店員が、半笑いしながら応える。 「ここは二年前からウチの店だけど。ナニお兄さん、因縁でもつける気」  と胡散臭そうに睨みつけて来た。  店の奥の椅子に座った、腕にタトゥーの入ったピアスだらけの男の目が物騒に光っている。 「い、いいえ、すいませんでした」  彼は頭を下げ、慌てて店を出た。  夏とは言えすでに陽は大きく西へ傾き、街の喧騒も徐々に薄暮へと変化しつつあった。  もう一度あそこへ戻りアパートを探そうかとも思ったが、夕暮れ間近と言うこともあり今日は上野に泊まることにした。  彼は朝T駅で牛丼を食べたっきり、なにも口にしていなかったことに気付き急に空腹を覚えた。  ガッツリ系のチェーン店で味が濃く油っぽい丼飯を喰い、しばらくの間上野の街をぶらついた。  漫画喫茶でひと晩を過ごすと、彼はまた朝からアパート探しを始めた。  それから三日間探し回ったが、どうしてもアパートの所在は不明だった。  不動産会社とも連絡が取れず、彼に出来ることはなにもなくなった。  こんな状態で東京に居ることも出来ず、ひとまず実家に戻る事にした。  電話でここ数日のことを話すと、母親は声を立てて大笑いする。 「あんたねぇ、引越し先へ行けないなんて子どもじゃないんだから。冗談言って笑わせないでちょうだい」  からかっていると思ったらしく、まともに受け取ってくれない。  しょうがないので、とにかく今日そっちに行くから寝る場所を確保しといて欲しいと告げ、電車に乗り込んだ。  それから約一ヶ月、彼の姿は東京のとある公園にあった。  彼はほとほと疲れ切っていた。  結局実家へは帰れなかった。  生まれ育ったわが家が、存在しなかったのである。  間違いようのない場所なのに、そこには見知らぬ家が建っていた。  表札の名前も他人のものだ。  家の固定電話を手始めに家族全員のスマホへ掛けたが、電話は誰にも繋がらない。  隣の××さん宅の呼び鈴を押すと、子どもの頃からよく知っているおばさんが顔を出した。  いつも〝ホタルちゃん、ホタルちゃん〟と愛称で呼び、可愛がってくれていた。 「あ、おばさん、隣の石上ん()(けい)です。ウチの家族引っ越したんでしょうか」  勢い込んで話す彼を、おばさんは怪訝そうな顔で見ている。 「は? あなた誰ですか、それにお隣はむかしから○○さんですけど。石上なんて聞いたことないわ、変な勧誘なら帰って下さい。しつこくすると警察呼びますよ」  そう言って、乱暴にドアを閉められた。  新アパートどころか実家さえ失ってしまい、彼は深い喪失感に心身共に包まれた。 「いったいどうなってるんだろ、これから俺はどうすりゃいいんだ――」  誰に問うでもなく、彼は呟いた。  それから彼は知っている限りの連絡先へ電話をかけたり、直接訪ねたりしてみた。  結果は存在自体がないか、実在していても彼に関する記憶は一切ないというものだった。  いま彼は都内の、或る公園のベンチに座っていた。  同じベンチに腰掛けている男が、彼に話しかけて来た。 「こんな時間に公園に居るなんて、なにか事情があるんですか」  時刻は夕暮れ時であった。 「笑わないで聞いてもらえます?」  彼は自分の身に起きた出来事を、淡々と喋った。  予想に反して、男は笑わなかった。  それどころか気の毒そうに、彼の顔を優しく見ている。  そして思いもかけない言葉が、男の口から出て来た。 「最近そういう人が増えてるらしい、ほら向こうのベンチに座ってる方もそうですよ。引越し難民と言うんですって、かくいうわたしもですが」  うらぶれた三十後半のスーツを着た男が、そう言って自嘲気味に笑った。                         終わり
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