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それから十日後、引越しの日がやって来た。
前日に市役所へ行き、転出届を提出した。
それまで会社を辞めたことも、引っ越すことも両親には伝えていなかった。
昨晩電話で報告すると、初めのうちこそ驚いていたが案外あっさりと納得してくれた。
彼は四人兄弟で、上に兄がふたり姉がひとりの末っ子である。
そんな事情もあり、親に期待される事もなく成長してきた。
今回もまったく心配していない様子だ。
煩くなくていいのだが、どこか寂しさを感じたのも確かだった。
朝早くに業者が、現在住んでいる部屋へ荷物を取りに来た。
ひとり暮らしなだけに持ち物は少なく、一時間もかからずに積み込みは完了した。
「お届け先は、この住所で間違いありませんか」
荷物の届け先の住所を確認し、荷室に余裕を残した2tトラックは、都内へ向かって走り去っていった。
引越し先の部屋の鍵は、不動産業者が朝一で開けてくれる手はずになっている。
彼自身はこれから電車に乗り新居へと向かい、引越し業者とは現地で落ち合うことになっていた。
「あ、石上です。いま引越し業者が出ましたので、部屋の鍵を開けといてもらえますか。わたしもすぐに電車で追いかけます」
スマホで不動産屋へ連絡を入れると、すでに担当者が物件へ向かっているとの返事だった。
彼の人生二度目の引越しは、なんの問題もなく順調に進んでいた。
それからの彼は、のんびりとしたものだった。
事前にネットで丹念に調べた結果、新居まで二時間ほどで着く予定である。
T駅構内で牛丼を食べる余裕を見せ、生まれて二十六年住んだT市へ別れを告げた。
まずは『Tエクスプレス』に乗り『北千住駅』で降りる。
東京メトロ千代田線に乗り換え『西日暮里駅』まで行き、そこから徒歩で十分ほど歩き『N・Tライナー』と言う全自動運転である新交通システムを利用して、終点の『M親水公園駅』と言うコースを辿った。
そこから二十五分歩くと、新居であるアパートへ到着となる。
路線バスが通っているらしいが、バスの利用は天気の悪い日だけにして、通常は自転車を使用するつもりでいる。
とりあえず今後のために駅前のバスの停留所を確認し、時刻表をスマホで撮っておく。
しかし今日は土地勘を把握するためにも、ゆっくりと歩いてアパートまで行くことを選んだ。
両親には東京へ引っ越すと自慢気に伝えたが、なんのことはない最寄り駅こそ東京都A区だが、荒川を渡った先のアパートがある住所は埼玉県K市であった。
初めて歩く道に戸惑いながらも、彼は北方面へ向かい歩を進める。
スマホの地図アプリを使いながら、見知らぬ街をキョロキョロと眺め回す姿はどこか不審者めいて見えそうだ。
前方に橋が見えてきた。
「おお、あれが荒川か」
知らず知らずのうちに、声に出していた。
橋を渡りきった辺りで、彼は異様な感覚を覚えた。
その切っ掛けは、車道を走っていたトラックが鳴らしたけたたましいクラクションだった。
〝プオォーッ!、プップッ、プオォ―ッ!〟
トラック特有の、凄まじく大きな警笛だった。
予想もしていなかった分、その衝撃は彼の耳だけではなく身体にまで響いた。
その時いままで一度として経験したことのない、身体の奥底、いや心そのものさえもが〝ぐにゃり〟と捻られるような、得も言われぬ感覚を味わった。
それと同時に見ていたスマホの画面が、歪に乱れたような気がする。
彼は軽い目眩を感じ、ふらりとバランスを崩し危うく転びそうになる。
しかしそれは一瞬で、すぐに正常に戻った。
〝えっ、なんだいまのは?――〟
奇妙な感覚と目眩に彼は立ち止まり、周りを見回したが特に変なことはなにもなかった。
道路を確認すると、当のトラックはすでに走りすぎていた。
事故の気配もない。
地震でも起きたかかと考えたが、あんな一瞬だけの揺れなどあるはずがない。
釈然としない思いを抱えながらも、彼は歩き始めた。
しかしその目に映る気色は、いままでとどこか違うような気がする。
スマホの画面さえ、なにか違和感がある。
言葉では説明は出来ない、感覚としか言いようがなかった。
〝変だぞ、なんか変だぞ〟
頭のどこかで、そんな自分の声が聞こえた。
「早くアパートへ行って、ゆっくりしよう」
そんな不安を振り払うように、かれはわざと声に出し歩き続ける。
目の前には新居アパートへと続くはずの、なんの変哲もない道があった。
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