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 引っ越しをしたのは良いが、その引っ越し先に行くことができない。  彼の名は〝石上(いしがみ) (けい)〟現在無職の二十六歳。  渾名は小さい頃から〝ほたる〟と決まっていた。  高校を卒業して以降八年間勤務した、小さな食品会社を一ヶ月少し前に退職したばかりだ。  北関東に位置する茨城県T市、いわゆる学園都市にある従業員三十名足らずの零細企業、というより町工場の営業職だった。  別に好きで入った会社ではない、学校からの紹介で渋々勤めだしたのだ。  同県で生まれ育ち、県内の公立高校を卒業した。  そうして、同じ県にある会社に就職。  いままで絵に描いたような、平凡な人生を送ってきた。  よく八年間も続いたものだ、と自分でも思う。  特に不満はない。  他の社員もみな気の良い人たちで、和気あいあいとした家庭的な雰囲気の会社だった。  しかしどうにもやる気が出ない、毎日が退屈なのである。  五月のゴールデンウィーク明けに、ふと魔がさした。  八年も務めていた上に、年齢も二十六歳。  いまさら〝五月病〟という歳でもあるまいし、自分でも訳が分からない。  気付けば〝退職願〟を、上司に渡していた。  目の前に白い封筒を置かれた田中部長は、状況がつかめずにぽかんと口を空けたまま彼の顔を数十秒見詰めた。  そうしてやっと出て来た言葉は、 「なにこれ? 冗談だろ――」 「いや、本気です」  彼が頭を掻きながら答える。  それからしばらくは、辞めたい理由やこの後どうするのかと言ったお決まりの遣り取りをした。  必死で引き留めようとする田中部長も、彼の決意が固いのを悟り最後には諦めた。  五月いっぱいで退職した彼は、ひと月以上をなにもすることなくダラダラと過ごした。  やがて七月に入った頃、一念発起して上京することを決意した。  上京と言っても『Tエクスプレス』に乗れば、秋葉原まで四十五分で着く。  昔ならいざ知らず、電車に乗ってすぐの場所だ。  僅かながら退職金も出ており、彼はその金を引っ越すための費用に充てた。  まずは住むところを探さなければならないと思い立ち、さっそく上野にある不動産屋に飛び込み部屋捜しをした。  狭い不動産事務所で賃貸物件情報が綴じられた冊子をめくり、一時間近くも物色するがなかなか良いところが見つからない。  半分諦めかけた頃、一件のアパートが目にとまった。  A区の外れに建つ、築八年の三階建て物件だった。  電車の駅がA区内だったために、彼はアパートの場所も同じだと錯覚していたが、実は現地は埼玉県に入っていたのである。  この時点で彼は、その事に気付いてはいなかった。  気付いたのは、T市の部屋に戻ってからだった。  二階の角部屋1DKで25㎡、風呂トイレ別の上に小さいがベランダも付いていた。  家賃は七万五千円、管理費月三千円と格安だ。  駅までは徒歩で二十五分(実際は三十分強だろう)だが、路線バスを使えば十分ほどだという。  敷金・礼金を払っても、退職金による予算の範囲内だった。  不動産会社の営業車に乗って、石上は現地を内見しにいった。  初めての土地でもあり、後部座席の彼はどこをどう走っているのかも分からず、ただ黙って外の景色を眺めるしかなかった。  駅からかなり離れていることもあり、アパートの周りは住宅ばかりのなんの特徴もない閑静な場所だった。  物件自体もまだ築浅で、室内も綺麗だった。  ひと目で気に入った石上は、事務所に戻るとすぐに契約の手続きをした。  その場で敷金・礼金・二ヶ月分の家賃の前払いまで済ませ、二本の鍵を受け取った。  小腹が減った彼は不動産屋の隣のファストフードバーガー店で、期間限定のハンバーガーセットを買い、帰りのTエクスプレス内で食べた。  通路を挟んだ隣の席の子どもが、においにつられ物欲しそうに彼を見ていた。
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