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勇者ならば進め得る!
2.
時荆州未定,復遣遼屯長社。臨發,軍中有謀反者,夜驚亂起火,一軍盡擾。遼謂左右曰:「勿動。是不一營盡反,必有造變者,欲以動亂人耳。」乃令軍中,其不反者安坐。遼將親兵數十人,中陳而立。有頃定,即得首謀者殺之。陳蘭、梅成以氐六縣叛,太祖遣于禁、臧霸等討成,遼督張郃、牛蓋等討蘭。成僞降禁,禁還。成遂將其衆就蘭,轉入灊山。灊中有天柱山,高峻二十餘里,道險狹,步徑裁通,蘭等壁其上。遼欲進,諸將曰:「兵少道險,難用深入。」遼曰:「此所謂一與一,勇者得前耳。」遂進到山下安營,攻之,斬蘭成首,盡虜其衆。太祖論諸將功,曰:「登天山,履峻險,以取蘭成,蕩寇功也。」增邑,假節。
(訳)
時に荊州がいまだ平定されておらず
再度張遼を遣わして長社に駐屯させた。
出発に臨んで軍中で謀反した者がおり
夜中の混乱で火が起きて
一軍盡くが擾れてしまった。
張遼は左右の者に言った。
「動く勿れ、これは一つの屯営
盡くが反いたわけではない、
必ずや造反者がおり
人を動乱させようとしているにすぎぬ」
かくて軍中に、反いていない者は
落ち着いて着座するよう命令した。
張遼は親しき兵数十人を率いて
陣の中央に立っており、
ややあって(陣中が)落ち着くと
即座に首謀者を得て、これを殺した。
陳蘭、梅成が氐の六県を以て叛くと
太祖は于禁、臧覇等を梅成の討伐に遣わし、
張遼は張郃、牛蓋等を監督して陳蘭を討った。
梅成が偽って于禁に降伏すると、
于禁は戻っていった。
梅成はかくてその部衆を率いて陳蘭に就き
転出して灊山へと入った。
灊の中に天柱山があり
高峻(高さ)は二十余里、
道は険しい上に狭かったが、
歩行できる小径が纔かに通じており
陳蘭等はその上に塁壁を作った。
張遼が進もうとすると、諸将は言った。
「兵は少なく道は険しい、深入りは用い難いぞ」
張遼は言った。
「これは所謂一と一というもので、
勇者だけが前進できるのだ」
かくて前進して(天柱)山下へ到り
屯営を設けると、これを攻めて
陳蘭、梅成の首を斬り
その部衆を盡く虜とした。
太祖は諸将の功績を論じて言った。
「天山に登り、険峻を履んで
陳蘭、梅成を取ったのは、盪寇の功である」
食邑を加増され、節を仮された。
(註釈)
長社県は豫州の穎川郡にある。
以前駐屯した臨穎も穎川に属している。
張遼の前回の江夏攻めはいつだったんだろう?
曹操が203年8月に荊州を攻めると、
協力してその隙を突けばいいものを
袁譚と袁尚はあべこべに兄弟喧嘩を始め
敗れた袁譚は曹操に援軍を要請し、
曹操は10月以前に引き返した。
その後に鄴攻めがあって、
張遼は魏郡、遼東郡と転戦したあとに
「復別撃荊州」した。
「復」なので203年8月に攻めた前提で
「別」は曹操と別行動してた。
205〜206年かな?
陳蘭や梅成、あと雷薄の記述を拾ってみると、
・袁術伝
術前為呂布所破,後為太祖所敗,奔其部曲雷薄、陳蘭於灊山,復為所拒,憂懼不知所出。將歸帝號於紹,欲至青州從袁譚,發病道死。
・袁術伝の引く「呉書」
吳書曰:術旣為雷薄等所拒,留住三日,士衆絕糧,乃還至江亭,去壽春八十里。問廚下,尚有麥屑三十斛。時盛暑,欲得蜜漿,又無蜜。坐櫺牀上,歎息良乆,乃大咤曰:「袁術至於此乎!」因頓伏牀下,嘔血斗餘,遂死。
・夏侯淵伝
十四年,以淵為行領軍。太祖征孫權還,使淵督諸將擊廬江叛者雷緒,緒破,又行征西護軍,督徐晃擊太原賊,攻下二十餘屯,斬賊帥商曜,屠其城。
・劉曄伝
太祖至壽春,時廬江界有山賊陳策,衆數萬人,臨險而守。先時遣偏將致誅,莫能禽克。太祖問羣下,可伐與不?咸云:「山峻高而谿谷深隘,守易攻難;又無之不足為損,得之不足為益。」曄曰:「策等小豎,因亂赴險,遂相依為彊耳,非有爵命威信相伏也。往者偏將資輕,而中國未夷,故策敢據險以守。今天下略定,後伏先誅。夫畏死趨賞,愚智所同,故廣武君為韓信畫策,謂其威名足以先聲後實而服鄰國也。豈況明公之德,東征西怨,先開賞募,大兵臨之,令宣之日,軍門啟而虜自潰矣。」太祖笑曰:「卿言近之!」遂遣猛將在前,大軍在後,至則克策,如曄所度。太祖還,辟曄為司空倉曹掾。
・劉馥伝
後孫策所置廬江太守李述攻殺揚州刺史嚴象,廬江梅乾、雷緒、陳蘭等聚衆數萬在江、淮間,郡縣殘破。太祖方有袁紹之難,謂馥可任以東南之事,遂表為揚州刺史。
・于禁伝
後與臧霸等攻梅成,張遼、張郃等討陳蘭。禁到,成舉衆三千餘人降。旣降復叛,其衆奔蘭。遼等與蘭相持,軍食少,禁運糧前後相屬,遼遂斬蘭、成。增邑二百戶,并前千二百戶。
・張郃伝
別征東萊,討管承,又與張遼討陳蘭、梅成等,破之。
・臧覇伝
從討孫權,先登,再入巢湖,攻居巢,破之。張遼之討陳蘭,霸別遣至皖,討吳將韓當,使權不得救蘭。當遣兵逆霸,霸與戰於逢龍,當復遣兵邀霸於夾石,與戰破之,還屯舒。權遣數萬人乘舩屯舒口,分兵救蘭,聞霸軍在舒,遁還。霸夜追之,比明,行百餘里,邀賊前後擊之。賊窘急,不得上舩,赴水者甚衆。由是賊不得救蘭,遼遂破之。
・先主伝
先主表琦為荊州刺史,又南征四郡。武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙範、零陵太守劉度皆降。廬江雷緒率部曲數萬口稽顙。
廬江の灊山に屯する陳蘭、雷薄は
もともと袁術の配下だったが、
呂布や曹操に敗れた袁術を受け入れず、
行き場をなくした袁術は死んだ。
(袁術の廬江太守の劉勲は
孫策にやられて曹操を頼っている)
これが199年。
後に孫策の置いた廬江太守の李述(李術)が
揚州刺史の厳象を攻めて殺害した。
廬江の梅乾、雷緒、陳蘭らが
軍勢数万を集めて江水・淮水の間に在り、
郡県は残破した。
曹操はちょうど袁紹との兵難の最中で、
劉馥になら東南の事業を委任できると判断し、
かくて上表して彼を揚州刺史とした。
これが200年頃。
劉曄伝でも廬江の山賊の陳策が出てくるが
劉曄がこの時司空倉曹掾に任命されてるので
まだ曹操が司空だった(196〜207)頃の
出来事のようだ。
曹操が司空時代に
寿春に行ったのっていつ?
この時の陳策の「臨險而守」は
張遼伝の陳蘭の動きそのまんまなので
陳策=陳蘭なのかもしれない。
司空は丞相の書き間違いで。
208年12月から209年3月までに
劉備が荊南の四郡を平定すると、
廬江の雷緒が部曲の数万口を率いて帰順した。
劉馥伝の「聚衆數萬」
劉曄伝の「衆數萬人」と合致する。
雷緒と雷薄、梅乾と梅成が
同一人物だと仮定すると、
張遼らの陳蘭・梅成攻めも
209年初頭と推測できる。
夏侯淵が雷緒を攻めたのが
建安14年(209年)とあるし
ほぼ間違いないだろう。
曹操軍に叩きのばされ
どうにか落ち延びた雷緒が
廬江の人々(氐六県)を引き連れて
劉備に降った…と見るのが自然かな?
曹操は赤壁で敗れた後
曹仁を南郡の江陵に留め、
夏侯淵に諸将を監督させて
廬江の雷緒を撃たせた。
ここの表記が
「廬江叛者雷緒」になってるので
昌豨のように一度は帰順したが
後になってまた反いたものと思われる。
劉琦が荊州を挙げて
曹操に降った際に
とりあえず帰順したけど、
赤壁で負けたのを見て
また反逆した、という文脈っぽい。
曹操自身は3月に鄴へ帰着し
船団を整備したあと
7月には合肥に布陣した。
臧覇は巣湖へ入って居巣を下したあと、
張遼らの陳蘭・梅成攻撃と並行して
皖城を攻めている。
臧覇は韓当を撃ち、孫権に陳蘭を救援させない。
韓当が派遣した兵を、
臧覇は逢龍、夾石で迎撃して打ち破り
舒に駐屯した。舒も皖も、廬江郡。
孫権は船に数万人を乗せて舒口へ駐屯させ
兵を分けて陳蘭を助けようとしたが、
臧覇が舒にいると聞くと
兵たちは引き返してしまった。
臧覇はこれを追撃して破り、
結局孫権の目論見は失敗した。
梅成は三千人を率いて于禁に投降したが
これは偽りであり、
于禁が引き返してから再度叛いて
陳蘭とともに天柱山へ流れた。
天柱山については、晋書地理志にある。
「廬江郡の灊県の南に天柱山がある」
また、水経注から
灊山と天柱山の記述を探したところ、
以下を発見しました。
・灊山
灊者,山、水名也。〝開山圖〟,【灊山】圍繞大山為霍山。郭景純曰:灊水出焉,縣即其稱矣。〝春秋·昭公二十七年〟,吳因楚喪,圍灊是也。
・天柱山
〝地理志〟曰:縣南有【天柱山】。即霍山也。
浙江又東與蘭溪合,湖南有【天柱山】,湖口有亭,號曰蘭亭,亦曰蘭上里。
霍山為南嶽,在廬江灊縣西南,【天柱山】也。〝爾雅〟云:大山宮,小山為霍。
現代の天柱山は標高1489mのようです。
「高峻二十余里(8600m〜)」は盛りすぎ、
エベレスト級になっちゃうよ。
とはいえ行軍するには
かなりの難所なのは間違いなく、
睨み合ってるうちに
食糧が払底しかかった。
そこで、食糧の輸送は于禁自らが担当。
陳蘭の偽投降を見抜けなかった
罰としてやらされてる?
諸将は深入りは難しいと考えて
張遼を諌めていたが、張遼は
「勇者なら進めるさ!」として突貫。
見事に陳蘭と梅成の首を取った。
雷緒も見た感じ夏侯淵に敗れたようで、
前述の通り、劉備のもとへ落ち延びた。
このしばらくあとに劉備の部将として
雷銅という人物が登場するが、
雷なんて姓は滅多にいないので
雷緒の係累なんだと思われる。
相方の呉蘭は、実は生き延びた
陳蘭だったとか……それはないかw
この後は馬超と韓遂が
関中で乱を起こすため
曹操、夏侯淵、曹仁らは一旦西へ…。
2024.6.30
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