張遼伝

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合肥の戦い。 3. 太祖旣征孫權還,使遼與樂進、李典等將七千餘人屯合肥。太祖征張魯,教與護軍薛悌,署函邊曰「賊至乃發」。俄而權率十萬衆圍合肥,乃共發教,教曰:「若孫權至者,張李將軍出戰;樂將軍守護軍,勿得與戰。」諸將皆疑。遼曰:「公遠征在外,比救至,彼破我必矣。是以教指及其未合逆擊之,折其盛勢,以安衆心,然後可守也。成敗之機,在此一戰,諸君何疑?」李典亦與遼同。於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛饗將士,明日大戰。平旦,遼被甲持戟,先登陷陳,殺數十人,斬二將,大呼自名,衝壘入,至權麾下。權大驚,衆不知所爲,走登高冢,以長戟自守。遼叱權下戰,權不敢動,望見遼所將衆少,乃聚圍遼數重。遼左右麾圍,直前急擊,圍開,遼將麾下數十人得出,餘衆號呼曰:「將軍棄我乎!」遼復還突圍,拔出餘衆。權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣,還修守備,衆心乃安,諸將咸服。權守合肥十餘日,城不可拔,乃引退。遼率諸軍追擊,幾復獲權。太祖大壯遼,拜征東將軍。建安二十一年,太祖復征孫權,到合肥,循行遼戰處,嘆息者良久。乃增遼兵,多留諸軍,徙屯居巢。 (訳) 太祖は孫権の征伐から帰還したあと 張遼と楽進(がくしん)李典(りてん)らに 七千余人を率いさせ合肥(ごうひ)に駐屯させた。 太祖は張魯(ちょうろ)を征伐する際 教勅を護軍の薛悌(せつてい)に与え (はこ)の周辺に〝賊が至ったら開けよ〟と(しる)した。 (にわ)かに孫権が十万の部衆を率いて 合肥を囲むと、かくて共に 教勅を発す(箱を開ける)と、 教示にはこのようにあった。 「もし孫権が至ったなら 張・李将軍は出撃して戦い、 楽将軍は護軍を守ってともに戦う勿れ」 諸将は皆疑ったが、張遼は言った。 「公は遠征されて外部におり 救援が至るころには、間違いなく 彼奴等は我らを破っているだろう。 これは、彼奴等が 集合しきらぬうちに逆撃して その威勢を挫き、皆を安心させ 然るのちに守るべきと ご教示くださったのだ。 成功と失敗の機はこの一戦にある、 諸君らは何を疑うのか」 李典もまた張遼に賛同した。 こうして張遼は 敢えて従わんとする勇士を募って 八百人を得ると、 牛を打ち殺して兵士たちに振る舞い 翌日の大戦を期した。 平旦(黎明)の頃になって 張遼は鎧を纏って戟を手に取ると 先頭に立って陣を落とし 数十人を殺し、二人の将を斬り、 大音声で自らの名を呼ばわって (とりで)へと突入し、孫権の麾下まで至った。 孫権は大いに驚き、 衆人はどうしてよいかわからず、 (孫権は)走って高冢へ登ると 長戟によって自衛した。 張遼は「下りて戦え」と孫権を呵叱したが 孫権は敢えて動こうとせず、 張遼の率いる衆が少ない事を望見すると かくて(兵を)集合させ 張遼を幾重にも囲んだ。 張遼が包囲の指揮者を 左右(に動いて撹乱)してから 直進して急撃すると、囲みは開き、 張遼は麾下の数十人を率いての 脱出を果たした。 (取り残された)余勢が、 「将軍は我らを見捨てられた!」 と呼号すると、張遼は また戻って囲みを突き 余勢を抜き出した(助け出した)。 孫権の人馬は皆披靡(潰散)してしまい、 敢えて当たろうとする者は無かった。 旦(夜明け)から日中に至るまで戦うと 呉の人々は戦意を喪失し、 帰還して守備を整えると 衆人の心はかくて落ち着き、 諸将は(みな)感服した。 孫権は合肥を十日余り看守していたが、 城を抜く事はできず かくて引き退がった。 張遼は諸軍を率いて追撃し、 幾度となく孫権を獲えかけた。 太祖は張遼を大変に壮烈であると見なし 征東将軍に拝した。 建安二十一年(216)、 太祖は再度孫権を征伐して 合肥まで到ると 張遼が戦った場処(ばしょ)を巡行し、 やや久しく嘆息した。 かくて張遼の兵を増やし 多く諸軍を留めて居巣に屯営を(うつ)した。 註2. 孫盛曰:夫兵固詭道,奇正相資,若乃命將出征,推轂委權,或賴率然之形,或憑掎角之勢,群帥不和,則棄師之道也。至於合肥之守,縣弱無援,專任勇者則好戰生患,專任怯者則懼心難保。且彼衆我寡,必懷貪墯;以致命之兵,擊貪墯之卒,其勢必勝;勝而後守,守則必固。是以魏武推選方員,參以同異,爲之密教,節宣其用;事至而應,若合符契,妙矣夫! (訳) そもそも(いくさ)はもとより詭道であり 奇道と正道が互いにたすけ合うもので、 もし将に出征を命じ 轂(車)を推して権利を委ねたなら 卒然の形を頼みとする事もあり ※掎角の勢を(たの)みとする事もあろう、 (※二手に分かれて挟み撃ちをする形) 将帥たちが不和であるのは 則ち棄師(戦を捨てる)の道である。 合肥の守備に至っては 県が弱い上に救援も無く 勇ましき者に専任すれば則ち 好く戦って憂患を生じさせる事となり、 怯える者に専任すれば則ち 恐怖心で保全し難い。 且つ、あちらは(おお)くてこちらは(すく)なく (数で圧倒している側は) 必ず貪欲、怠惰の心を(いだ)くもので、 致命(命を投げ出す)の兵を以て 怠惰な士卒を撃ったなら その勢いからして必ず勝ち、 勝った後に守れば、守りは則ち 間違いなく堅固なものとなる。 これは、魏武(ぎぶ)(曹操)が 方員(周囲)から推挙選抜し 異同によって参入させ 密かな教示でその用(はたらき)を 節宣(上手く行くよう調節)したもので 事が至って、まるで 符契(割符)が合わさるかの 若くに応じたのは、 なんと絶妙な事かな! (註釈) 潼関(どうかん)馬超(ばちょう)とやり合い 濡須口(じゅしゅこう)で孫権と戦って 今度は漢中(かんちゅう)張魯(ちょうろ)討伐、 60過ぎて一層忙しい曹操。 休むのは死んでからにする、と言わんばかりだが 方面司令官を任せられる人材は 魏ですら少ないという事と、 劉備や馬超や孫権がそれほどの難敵だと いう事でもあるのだろう。 合肥には7000ほどの兵しかなく 前年には皖城を呂蒙と甘寧に落とされて 田地を奪われてしまっている。 劉備陣営との荊州領有問題も 一応の決着がついた形になっており 孫権軍は間を入れずに合肥へ駒を進めた。 張遼や温恢(おんかい)にとっては 不意を突かれた形だろう。 孫権の軍勢は10万。 いかに劉馥(りゅうふく)が鉄壁の要塞に 仕立て上げたとはいえ、多勢に無勢。 皖に続いて合肥が落ちれば、 魏側は廬江の拠点を失う。 張遼らは相当厳しい状況に置かれていた。 曹操の密命は、 「張遼と李典は城から出て戦い、楽進は城を守れ」 というものだった。 張遼は呂布軍にいた頃から 騎兵での戦いをメインにしていただろうから 籠城戦では持ち味を発揮できないと 考えたのだろうか。 結果、張遼はたったの八百人で 孫権軍の戦意を喪失させ、 追撃時に陳武(ちんぶ)を殺し、 凌統(りょうとう)を再起不能にするほどの 大打撃を与える事に成功した。 項羽(こうう)彭城(ほうじょう)で18.7倍の敵に勝ち 劉秀(りゅうしゅう)昆陽(こんよう)で53.8倍の敵に勝ち 張遼は合肥で125倍の敵に勝った。 いずれもやはり、孫盛の言うように 多勢の方が油断していたからなのだろう… にしたって、包囲から脱出を果たし 挙げ句戻ってきて 味方助け出してるあたり、 張遼個人が規格外すぎる。 曹操の、部下の性格まで考慮して 的確な指示を与える采配も さすがというほかないが、 後日曹操が合肥の戦場を巡察して 溜息が止まらなくなってるあたり さすがにここまでやるとは 思ってなかった事だろう。 曹操が孫子に註釈をつけて 軍学の質がどんどん向上していくなか 圧倒的な個が戦局を変えるという場面は 自ずと減っていくのですが、 それだけに張遼の大暴れは痛快でした。 孫権は今後、このバカ高い授業料を活かせるか。 それはまた次回で(三国志演義風に 2024.7.1
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