一 かぐや姫の娘

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 夜の国に似合わぬ粗暴な足音が響いている、と瀬織津姫は思った。釣殿で天の川を泳ぐ空魚を眺めていたが、足音の主を迎えるべく背後を振り返る。其処に立ったのは、思った通りの一柱であった。 「スサノヲさま……」 「久しいなあ、瀬織津姫! 相変わらず渓声のような声音、木雨のような美しさ!」 「気持ち悪いことを仰るのは、およしになって」 「冗談だ冗談。おぬしに手を出したら、次はこの日の本から追い出されるわ」  天照大御神と月読命の弟神──建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。  かなり奔放な問題児で、幾度となく姉兄たちを困らせてきた。しまいには腹に据えかねた天照大御神によって高天原から追い出され、天津神から国津神となった男神。  スサノヲ曰く「俺が乱暴に振る舞えば振る舞うほど、姉上や兄上の慎ましやかで思慮深いところが際立つであろう? おふたりを立てているのだ。なんと姉兄思いな弟だろう!」ということらしい。まあ良く言ったものだなあ、と瀬織津姫は思うのであった。  気怠げに川へ視線を戻し、瀬織津姫はあしらうように言葉を放つ。 「一体何の御用ですか? 月弓さまでしたら、お休みになられておりますよ。曲がりなりにも、此処も天上でございます。日孁(ひるめ)さまに知られる前にお帰りになっては?」 「かぐや姫の娘」  ちゃぷん、と空魚が跳ねた。  たちまち瀬織津姫の表情が強張る。横に立ったスサノヲが「何故、という顔だな」とこぼした。 「いまや都にまでこの噂は轟いておるぞ。このままでは天津神らに子の存在を知られるのも時間の問題。いやなに、噂を聞いた妻がたいそうかぐや姫とその娘を心配していて、気の毒でな。ま、当然だろう、姉妹のひとりと姪なのだから」  さっと瀬織津姫の顔が青ざめる。  かぐや姫の出産時、赤子を取り上げたのは瀬織津姫だ。短い間ではあったがかぐや姫に代わり世話もしていた。少なからず情があり、かぐや姫への負い目もある。だからこそ、せめて子は健やかにあれと願っていたのに。  立ち上がり裳を翻して渡殿を駆け抜けようとしたところ、スサノヲが待て、と引き留めた。 「子を保護してやらなくては……!」 「そこは一先ず安心してよい。おぬしらより先に動いた者がおる。人の世で、あそこが一番安全な住まいだろうよ。人の怨念や思惑が渦巻いてはいるが、ははは」  一に安全な場所。すぐにある人物が思い当たった。かぐや姫と何年も文を交わし、友と呼ぶに相応しい間柄であった高貴な人間が、ただ一人いる。  瀬織津姫は、僅かに胸を撫で下ろした。スサノヲは顎に片手を添え、俺が思うにだなあ、と呟いている。 「誰かが、故意に噂を流したのではないか」 「一体誰が?」 「それはもちろん、天津と国津の争いを望むものが」 「……まつろわぬ神、ということでございますね」  天津神と国津神。諍いごとあれども、多くの神が互いを受け入れている。婚姻によって深く交わってもいる。けれど当然、従わぬ受け入れぬと主張する神もいれば、胸の内に嫌悪や憎悪を秘めている神もいる。平定を望まず、混乱と争いを狙い噂を流したとしても、何も驚くことではない。 「しかし、そうだとして、どうやって知ったのでしょう。わたくしと月弓さま、日孁さま、人間である翁媼しか知り得なかったことを」  身籠っていることが判明したかぐや姫は、月弓によって厳重に隔離されていた。出産に立ち会ったのも瀬織津姫のみ。かぐや姫の隠ろへは、きちんと守られていたはずなのだ。  他に考えられるとすれば──誰かが月弓たちの会話を盗み聞いていた? しかし果たして、そんなことが可能だろうか。三貴子(みはしらのうずみこ)である月弓の神域へ気付かれず紛れ込み、かの二柱の傍へ近付けるものなど──  沈黙に包まれた二柱の元に、流星が降りそそぐ。  スサノヲがおもむろに手をかざすと、きらきらと瞬く残滓がその手に募る。  己が手のひらを暫し見つめ、スサノヲは、低く呟いた。 「星…………」
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