Ⅰ.最期の時

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Ⅰ.最期の時

 ――40階建てのビルの屋上には照明もなく、漆黒と呼ぶに相応しかった。  それでも目が慣れてくると、徐々に月明かりに助けられて、周囲がおぼろげに見渡せてくる。高架水槽やら機械室やら、給気口の群れのような一帯は、夜中だと言うのに騒音を響かせている。 「最期くらい、静かに逝かせてほしいもんだ」  そう独り言ちると、俺は真っ直ぐに進み、屋上端のフェンスへと手をかけた。思ったより高かったが、登れない構造では無い。俺は折り重なるフェンスの溝に足先を食い込ませながら、よじ登って行く。  ちょうどフェンスの頂点に跨った体勢になった時、夜風がびゅうと吹き付けてきた。死を覚悟していなければ恐怖を感じるのだろうが、今の俺には特段何も感じられなかった。  ここで反射的にフェンスにしがみついたり出来たなら、俺は自分に生きる意欲を見出だせたかも知れないのに、手汗ひとつかいていない事実に、どこか安堵するような、それでいて軽蔑するような、不思議な心境になった。  フェンスから飛び降りて、外側に下り立った。  要するに屋上のフェンスに守られていない、無防備なビルの(へり)である。最後の砦とばかりに一段高くなっている最外部のそれに腰掛けた。  足をぶらつかせるその下には何も無い。ちょっと反動をつけて飛び降りれば、後はもうひたすらに死が待っているだけだ。覗き込んでも下は見えなかった。ただ単純に黒い空間が、おいでおいでと揺らめいているように見えた。  この黒と俺の今までの人生と、どちらの方が色味があるだろう。意味もなくそんなことに思いを馳せた。  さて――。  無意味に引き伸ばしても仕方がない。そろそろ逝くとするか。  そう思い、立ち上がろうとした、その時。  俺から十数メートル離れたところに、全く同じ体勢で縁に腰掛けている人影が見えたのだ。
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