一杯のカクテル

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「お仕事の方はいかがですか?」 「うーん。順調だけど、もう限界かな」  私は正直に答えた。  私は外資系の証券会社に勤務しているトレーダーである。  顧客から受けた注文を執行したり、時には企業分析をして売買の提案を行なったりもする。私の提案はどれも堅実なものが多く、短期で大きな儲けを出すことはできないものの、長期間に亘って資産を増やしていくには最適なプランばかりだった。  他人のお金を預かり運用していく業務はプレッシャーが大きい。それに外資系の証券会社という特性上、職場や顧客には外国人が多い。英会話のスキルは必須として、厄介なのは専門用語である。  日本語の単語を英語に翻訳して説明するわけだが、聞き馴染みのない単語に対する反応というのは万国共通で、知ったかぶりをして理解できずに終わってしまうケースや意味を正確に伝えられたとしても理解できないケースなどがあった。そんな時はさらに簡単な表現や異なった言い回し、たとえ話などを駆使して説明していくのだが、中には女性や歳下から丁寧に説明されるのを嫌がる差別主義者もいる。そうなるともう何を言っても無駄で、徒労感を覚えることもあった。 「人に何かを伝えるのって難しいと、いつも思っています」 「そうですね。でも天音さんは頑張り屋さんだから、そんなことでギブアップをしようとしているわけじゃないでしょう?」  私は黒崎さんの言葉に驚き、その顔を改めて見返した。微笑の消えた彼の真っ直ぐな視線がこちらに向けられていた。  動揺。すぐさま私は自身の気持ちの揺らぎを誤魔化そうとしたが、上手く取り繕うことはできなかった。できたのは苦笑いである。 「マスターには敵わないなぁ」 「接客業をしていると色々な人と出会いますから、自然と人を見る目が養われてしまうんですよ」  再び微笑を浮かべて黒崎さんは言ったが、そうではないと私は思った。  いくら接客業を続けていたとしても、注意力がなければ他人の心の機微には気づかない。  目の前にいる相手の気持ちになって考える。言葉にするのは簡単だが、実際に実行に移そうとすると難しい。だけど知ろうとする。それは真冬の冷たい水の中に自ら手を入れていくかのような、覚悟とわずかな苦痛を伴う行為であった。
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