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「日が傾いてきたな。そろそろ村に戻ろう」  今日はこれまでだと、数馬は無理やり村役人との会話を打ち切る。堤の補修工事について、この場で数馬が彼に伝えられることはない。  数馬は村役人の返事を待たずに、その場からさっさと歩き出した。今日のことを片倉に報告をしに行こうと、足早に山を下りる。 「……ん、あれは?」  山のふもとまで下りて、例の堤がある川沿いを村に向かって歩く。しばらく無言で歩いていると、道の先に女の姿があることに気がついた。  女は川にかかった橋のたもとにある山桜の木の下に、一人でぽつりと立っている。着ている着物は薄汚れている上に激しく着崩れしていて、髪は結わずに乱れている。生気のない顔で佇んでいるため、不気味な雰囲気を漂わせていた。  数馬が妙な女だなと思っていると、そばにいた村役人が顔を青褪めさせて震え出した。 「……あ、ああ。で、出たあ!」  村役人はそう叫ぶと、どさりと音を立ててその場にへたりこんだ。村役人は震える手で女の方を指差しながら、その場から後ずさろうと必死に身体を動かしている。 「いきなりどうしたのだ。出たとは、あそこにいる女のことか?」  数馬は真っ青な顔で腰を抜かして地面を這いずっている村役人を見下ろしながら尋ねた。  村役人は数馬の問いに、頭を上下に激しく動かす。 「あの山桜の木のところにいる者だろう? ただの女ではないか。なにをそこまで怯える必要がある」 「……あ、あれは。あの女はこの世の者ではないのです。怨霊なのです!」  村役人の言葉を聞いて、数馬はおもいきり顔をしかめた。  数馬は以前から霊やあやかしといった類のものは、存在が疑わしいと思っている。なぜなら、これまでの人生の中で、実際にそういったものを目にしたことがないからだ。 「なにを馬鹿なことを言っているのだ。怨霊などといった存在は、そう簡単に人前に姿をあらわすものではない」 「で、ですが。い、いまあそこにいるではありませんか!」  村役人は必死の形相で訴えてくる。数馬はそんな村役人から目をそらし、女の方を振り返った。  目を凝らして女を見つめる。たしかに様子のおかしな女ではあるが、数馬にはどこからどう見てもただの人間にしか見えなかった。 「まったく、いつまで腰を抜かしているのだ。さっさと片倉さまの元へ行って、今日の報告をするぞ」  数馬は呆れながら、地面にへたりこんでいる村役人に向かって手を伸ばす。さっさと彼を起こして村に戻り、今日の報告を済ませて休みたい。  しかし、村役人は差し出された数馬の手を取らずに、身体を縮こませて震えている。いつまでも彼がそうしているので、数馬が少し苛立ち始めたところに、背後から人々の騒ぐ声が聞こえてきた。
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