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 樹一はパソコンの発注画面を見ながら、業者へ電話をかけ、事情を説明した。電話の応対者はそういう事情でしたら生産管理部に代わるから、直接交渉してくれと言う。十秒もしないうちに担当者が電話口に出た。  樹一は見えない相手に向かって何度も頭を下げて謝罪して、生産ストップをお願いした。 「そういう大事な用件は、あなたのような現場担当からでなくて、然るべき筋から通すべきじゃないですか。10や20ならともかく、3000という桁違いの数を、今更中止せいと言われても困ります。3000のために、こちらも人員配置を組み直したり、原料手配もしたのです。大地震で店が倒壊したり道路が寸断されたのとはワケが違います。あなたの責任ですから、申し訳ないが、とにかくキャンセルはできません」  説教されて、電話は切れた。  林店長が樹一の様子を険しい表情で窺っていたが、交渉に失敗したことがわかると、無言のまま書類に目を落とした。  然るべき筋の人に頼むとすれば、上司しかいない。普通の会社ならそうだ。しかし林店長はそっぽを向いてしまった。直属のチーフも応援体制を組むのに奔走していたからアテにできない。酸欠の水槽を泳ぐ金魚みたいな気分になった。  樹一は空気の吸い込み口を探すかのように時計を探した。普段見慣れているはずの事務所の風景の記憶が薄れるほど動揺していた。別に探さなくても、ケータイやパソコンでもすぐにわかるのだが。  パソコン画面は8:50を表示していた。この時間帯なら本部のスタッフたちが出勤しているはずだ。気を取り直して電話機へ手を伸ばした。 「デリカSV部、海老原です」  無愛想な男の声がした。SVとはスーパーバイザーの意で、ガーデンマート各店舗のデリカ部門のマネージメントや商品開発を担う部署だった。 「あ、おはようございます。白樺店デリカの花岡ですが、実は大変な事故がありまして…」 「え、事故?」 「実は、いなり寿司の発注ミスをして、30個を3000個にしてしまいました」  樹一は状況を説明し、助言を乞うた。  バカ野郎! 何やってんだ! 怒られると思い、身を固くしたが、海老原SVの声は意外にも冷静だった。 「3000個かあ。やってくれたね。厳しいけどやってみるよ。白樺店だね?」 「はい、そうです。お願いします」  樹一はほっとして膝の力が抜けそうになった。  安心したのも束の間、林店長が樹一の前に立ちはだかった。 「きょう、雷電崎(らいでんざき)統括部長のインタビューがあることを忘れていないだろうな。いなりの件がバレたら、えらいことになるぞ。くれぐれも、売れ残ったいなりを廃棄するようなことがないように」  まるで死刑宣告のように、その言葉は樹一の心に突き刺さった。  雷電崎巌(らいでんざきいわお)。関東ゾーン全ての店舗を監督する偉い人で、更迭などの人事権を持つ、大柄で厳格な人物だった。店舗の社員やパートたちは、腫れ物に触るように挨拶しなければならない。現場に入って来て数値目標を訊いたりするから、みんなから畏れられていた。答えられないと、「やる気あるのか」とか「なぜ数字が悪いのか分析して手を打っているのか」等と延々と説教されるのだ。当然と言えば当然だが、そのために本来の自分たちの仕事が滞ってしまい、その分残業になり、歯医者の予約をしていた者はキャンセルしなけらばならず、デートの約束は霧のように消えてしまうのだった。  
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