差し出された傘

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 朝、家を出る時は雨が降っていたから傘を持ってきたはずだったのに、気がつけば手に持っていないことにたった今気づいた。  空からはしとしとと雨が降っていて、どこに置き忘れたのかを必死で思い出す。  トイレに行った時か……、本屋で料金を支払った時か……、色々と考えるけれど、まるで駄目。全く思い出せない。  仕方ない――、走るしかないか――。  そう思って一歩踏み出しそうになった瞬間に、ぱっと視界に何かが映り込んできた。  ふと顔を上げると、そこには見覚えのあるキャラクターがプリントされた傘が拡げられている。 「えっ……?」  たった今失くしたと思っていた自分の傘が目の前にあり、ゆっくり人の気配を感じる方へ顔を向けると、傘よりも数倍、いや数百倍驚いて思考が全部吹っ飛びそうになった。 「雨宮くん……」 「宇津見くん、入る?」 「入るって、それ僕の傘でしょ?」 「そうだね。さっきカフェを出る時に忘れてったから」 「カフェって……」  ほんの数分前までいたカフェのことを思い出す。  確か傘は椅子の後ろに倒れないように引っ掻けていた。喉を潤し、買ったばかりの漫画の最新刊を読みながらしばらくゆっくりすると、飲み終えたジンジャーエールの入っていたグラスを返却口へと運んだ。 「あっ……」 「思い出した?」 「忘れてた……。けど、どうして雨宮くんが?」 「たまたま姉貴の買い物に付き合わされて休憩がてらに入ったカフェで宇津見くんのこと見つけて。そしたら傘忘れてったから」 「そ、だったんだ……」 「はい」 「あ、ありがとう……」 「どういたしまして。じゃあ、俺はこれで……」  拡げられたまま差し出された傘をしっかり握ると、役目を終えてほっとしたように笑顔でバイバイと手を振って僕に背を向けた雨宮くん。  その先にいるのは、彼とよく似た綺麗な女の人で、こちらに気付き軽く会釈された。  真似るように会釈を返した僕に優しく微笑むと、駆け寄ってきた弟の肩をたたいてこちらを指差して合図を出してくれる。  振り返った彼がもう一度笑顔で手を振る姿に、胸の奥がとくんと音を立てたのを感じた。  週明けから気がつけば視線の先で雨宮くんのことを追っている。傘のお礼が言いたいけど、もともと一人で過ごしていた僕と、クラスで人気者の彼とでは話しかけるきっかけなんてほぼない。  目の端で捉えては「はぁ……」とため息する毎日が続いていた。  今まではただ見ているだけで良いと思っていたはずなのに、人間というのは欲張りな生き物だということを痛感する。  たった一度話しただけで近づけたと勘違いしてしまう。  もっと話したいと思ってしまう。  そんなこと叶うわけもないのに――。 「おい、雨宮! 次、移動教室だって。行こうぜ」 「おー、わかった」  教室中に響き渡る声で同じクラスの杉浦くんが彼の名前を呼ぶ。ただそれだけのことに、胸がドキッと高鳴った。  急いで机の中から次の授業の教科書を探している後ろ姿を眺めながら、自分もゆっくりと席を立つ。 「宇津見くん、急がないと予鈴なるよ」 「あっ、うん……」  僕の存在に気づいていたようで、一瞬だけ振り返るとにこりと笑顔で声をかけてくれて、すぐに杉浦くんの待つ廊下へと駆けていった。  僕もその後ろから授業に遅れないように出来るだけ早歩きをして教室を移動する。  まさか雨宮くんから声を掛けてもらえるなんて思ってもいなかったから、すごくテンションが上がっていた。  そんな自分に気付きながら、移動教室でもクラスメイトと仲良さそうにじゃれあっている彼を盗み見していた。  放課後の誰もいなくなった教室で一人、日直の仕事をしていると、窓の外から雨の降る音が聴こえてきて、昼間とは違ってじめっとした空気に変わっていることに気づく。  早めに終わらせて帰らなきゃ――雨がひどくなる前に――。  少しだけ筆を書くスピードを上げて日誌を書き上げると、教室の戸締まりをして職員室へ行き、担任の大塚先生にそれらを渡すと、「失礼します」と挨拶をして下駄箱へと向かう。  天気予報は夕方から雨となっていたから、きちんと傘を持ってきてクラス専用の傘立てに置いてたはず――。 「あれ? かさ……」  今朝置いたはずのキャラクターのついた傘が見当たらない。確かにここへ置いたはずなのに――。  下駄箱から外の様子を伺うように空へ顔を上げると、さらさらとした雨が降っている。 「探し物はこれ?」 「あっ、それ……僕のかさ……」 「ばれたか……」 「そりゃ、ばれるでしょ」 「見覚えのある傘があったから、つい……ね」 「つい……?」 「そう、つい……」  いや、もう君は笑っちゃってるのに、誤魔化しなんてきかないよね? 「良かったら、一緒に入ってく?」 「いいの?」 「そのつもりで待ってたんでしょ?」 「ばれたか……」 「ばればれ……」  差し出されていた傘を手に取ると、大好きなキャラクターのプリントされたそれを空に向かって開いた。 「どうぞ」 「じゃあ、遠慮なく」  左側に立ち、右手で傘を持つと入るように伝えた僕に微笑んで左手で僕から傘をそっと奪うと、二人で入れる高さに調整してくれた。 「ありがとう」 「どういたしまして」  そう言って、雨の中を一つの傘に入って帰り道を歩き出す。  どうか、心臓の音が彼に聴こえませんように――。       完
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