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集会所の床下から這い出て、白い息を吐きながらニェスが宿泊に使っている小屋まで移動する。
村の中で、人の動く気配はない。十分に夜は深くなった。みんな寝ているはずだ。
小屋の前まで来ると、軽く戸を叩いた。
しばらく待つ。
小屋の中を歩く気配がして、「どなたです?」と声がした。
「オレ、ツルギと言います。巫女様に見てもらいたいものがあって」
「具体的に言いなさい」
「像を作れます」
ぎぃ、と開いた戸の向こうにはニェスが立っていた。
青く染められた神殿の着物を身に着けている。そして、その手には抜き身の小刀が握られていた。
ツルギを見下ろす鋭い視線に、ごくりと喉がなる。
「彫像師はみんな死んだと聞いています」
「彫像師じゃありません。オレの弟です」
ニェスが眉をひそめる。老齢ながらも、かすかな月明かりに照らされるその顔は、とても美しいものに感じた。
「具体的にと言いました」
「弟は、目が悪くて。でも、さわったものの形を覚えられるんです。だから、子どものころからさわっていた彫像も」
「再現できると。ふむ」
考え込むような仕草。
すぐに「見ます」と続いた。
ニェスの先頭に立って、家まで案内する。
村の者に気づかれないように、なるべく静かに歩いた。
巫女も、あまり騒ぎにしたくないという点では一致しているようで、背後からは衣擦れの音だけが聞こえてきた。
「ここです。中で弟が待っています」
「わかりました」
戸を開いて、先にニェスを家の中に入れる。
だれにも見られていないだろうかと、背後を振り向いたとき、「おい、ツルギ」と声をかけられた。思わず跳びあがりそうになる。
声がした方に目をやると若者がふたり、月明かりの下に立っていた。
ツルギを「臆病者」と呼んだ、年上の狩り師見習いたちだ。
「な、なに?」
「巫女様を知らないか? 小屋から出ていったようだ」
戸を閉める。中は見られていないはずだ。
「知らない」
若者たちの表情に、ツルギを嘲るような笑みが浮かぶ。
――こいつら、巫女様を見張ってたんだ。
ニェスが小刀を手にしていたのは、それに気づいていたからだろう。税に関して村と揉めたのだから、命を狙われる可能性もあると考えたのだ。
「知らないわけないだろう。おまえの家に入っていくのを見たんだ」
言い訳はできない。だが、家に入れるわけにもいかない。
だから言い訳はしないことにした。
「知らない」
戸の前で仁王立ちになり、もう一度、同じ言葉を口にする。
「ちっ」
若者たちが苛立つのがわかった。
足が震えだす。山の中でイッポンヅノと対峙しているような気分だ。
若者のひとりがツルギとの距離を詰める。顔を近づけて言った。
「どけよ、臆病者のツルギ」
視線を通して害意が伝わってくる。
怖い。
歯がガチガチと鳴り、頭が真っ白になる。
我を忘れて叫びそうになるのを、手を強く握ってなんとか踏みとどまった。
「どかない」
鼻に熱いものを感じた次の瞬間、自分が地面に倒れていることに気づいた。
どうやら殴られたらしい。
「あ」
鼻に手をやる。ぬるっと血がつくのがわかった。
ツルギを殴った若者は、家に入ろうと足を踏み出す。その先には弟がいて、神殿の巫女に彫像を見せているはずだ。
ふと、狩り師に伝わる言葉を思い出した。
――だれよりも前に立て、さもなくばどいていろ
狩り師見習いの足にしがみつき、そのスネに思い切り噛みついた。
「いってえ!」
口の中に血の味が広がる。
それはもしかしたら自分の血かもしれなかったが、もうどうでもよかった。
口を離して若者の足を持ち上げる。体勢を崩した狩り師見習いは、地面に倒れ込んだ。
ツルギはふらつきながら立ち上がると、足を抑えている若者に向けて言った。
「オレは、ヤスリの前からだけは、絶対にどかない!」
鼻からも口からも血を流すその姿に気圧されたのか、若者たちが息を呑む。
「おい、おまえら」
そのとき、狩り師のオサが姿をあらわした。
どこからか見ていたのだろう。
血で顔を汚しているツルギを見て、次に若者たちに視線を移した。
「殴れとは言っていない」
若者たちが気まずそうな表情になる。
オサはツルギの前に立つと、じろっと見下ろしてきた。
「ツルギ。巫女はお前の家に入っていった。お前たち兄弟がなにかするとは思っちゃいないが、巫女がお前たちを使ってなにかすることはある、と思っている」
たしかに、そういうこともあるかもしれない、と素直に納得した。
ニェスならば、利用できるものは利用するだろう。
「だから、そこをどいてくれ」
ツルギはしっかりと目を見ながら答えた。
「どきません」
オサが静かにため息をつく。
また殴られるだろうか。
そう思っていると、背後から戸の開く音がした。
「この村は、ずいぶんと騒がしいですね」
ニェスが家の中から現れる。
その手には、ヤスリが彫った木像が握られていた。
この村に昔から伝わる、冬の精霊をかたどったもので、ツルギから見ても美しい仕上がりだ。死んだ彫像師たちにも負けていない。
本来であればイッポンヅノのツノを彫るのだが、貴重なものなので持ち出せなかった。
驚きでだろうか。オサの目が見開かれた。
「それは、彫像か?」
「ここは寒いですね」
ニェスはツルギに視線を向けると、まるで戦う相手を見つけたかのような笑みを浮かべた。
「場所を変えましょうか」
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