第二章 ホムラの民⑫

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第二章 ホムラの民⑫

 アキナが退室すると、室内は波を打ったように静かになる。  ユクスは医師から預かっていた熱止めの薬と水を渡してくれた以外、なにもしようとしないので、サザナミも大人しくしているしかない。  ――でも、せっかく残ってくれているんだから、気を利かせてなにかしゃべったほうがいいのだろうか。  会話に困ったサザナミは、さっきはぐらかされたことを聞いてみることにする。 「あの、さっきの内緒の約束ってなんですか」  ユクスは上品な顔をゆがめてサザナミを見た。 「すみません、余計な詮索でした」 「いえ、ほんとうにたいしたことではないですから」  ユクスは気まずそうな顔でサザナミを一瞥すると、ふたたび口を開いた。 「そんなことより顔が赤いですね」  そう言うと顔を近づけ、額を合わせる。  サザナミは驚いて距離を取ろうとするも、身体が思うように動かず、ユクスに肩を掴まれてしまう。 「さっきより熱が上がっているんじゃないでしょうか。アキナの前だからって、むりしなくていいのに」 「……すみません」  ユクスはため息をついて身体を離した。 「アキナも気づいていると思いますよ。だから用件だけ済ませて早く退室したのだと」  やけに事務的だったのは、自分の体調を慮ってのことだったのか。気を遣われていたことにまるで気づけなかったことに、サザナミは落ち込む。 「この熱は魔力のせいなので、ユクスさまに移すことはないと思うのですが」 「私の気遣いはいいですから」 「すみません」とまたサザナミが口にすると、ユクスは顔をしかめた。 「こういうときはありがとうって言うんですよ。ミルダ夫人も言っていたでしょう。あと、敬語」  ユクスはぶっきらぼうにそう言い放ち、サザナミに掛布団をかけ直す。 「すみませ……あ、ありがとう」 「ほかに欲しいものとか、してほしいことはありますか?」 「大丈夫」 「お腹は空いていませんか?」 「いや、あまり減ってない」 「そうですか。じゃあおまえが眠るまでここにいます。用があれば、声をかけてください」  つっけんどんにそう言うと、手近にあった椅子を引き寄せ、どかっと座って脚を組んだ。  そのぶすっとした表情と、雑な振る舞いにサザナミは内心驚く。いつもの微笑みをたたえた穏やかな表情とはほど遠い顔つきだった。  ――こんなユクスさま、見たことない。  不安に思ってユクスの表情をぬすみ見ようとすると、目が合う。 「なんですか?」 「あ、あの……ユクスさま、怒ってる?」 「いいえ、まったく。どうしてそう思うのですか」 「声色が、いつもより固いから」  ユクスは長い長いため息をついた。あきれられたのではないかと思い、サザナミの身体が強ばる。  しかし次にユクスが口にした内容は、サザナミが恐れていたこととはまるで正反対だった。 「私ね、サザナミが起きなかったらどうしようってずっと心配していたんです。でも、お医者さまはいずれ目覚めると言っていましたから、三日間ずっと待っていました。おまえが起きたときに一人だったら寂しいと思って、なるべくここに足を運ぶようにしていたのです」  気が気じゃなかったんですよ、とユクスは呟く。  口端はゆがみ、眉間には皺が寄り、顔はくしゃくしゃ。いまにも泣きそうに見えた。  サザナミはようやく、ユクスに心配されていたのだと気づいた。 「え、あの、俺のことを心配してくれてた……ってことですか」 「そうじゃなかったら何度も来ません! というか、なんでわからないんですか! おまえ、ちょっと鈍すぎやしませんか!?」  顔を真っ赤にして叫ぶユクスを目の当たりにし、サザナミは驚いて目を白黒させる。  ふと、妹が看病してくれたときのことを思い出した。  高熱にうなされる間、妹は一緒の布団に入り、ずっと手を握ってくれていた。あたたかな小さな身体を抱いて、無力な少年はふたたび眠りが訪れるのを待つ。最愛の妹との記憶は、彼女が死んだことを思い出すのがつらくてずっと蓋をしてきたものであった。  自分のことを心配してくれる人がいるという事実が、やさしさを向けてくれる人がいるという事実が、サザナミの心をあたたかくさせる。 「ありがとう……ございます」 「お礼を言われるようなことじゃないです。私のせいでおまえを巻き込んでしまったのですから……」  そう言ってユクスは俯く。顔を覗き込むと、やはりいまにも泣きそうな顔をしていた。 「俺は大丈夫です。それよりも本当にあんたがぶじでよかった。俺、もっと強くなるから、見捨てないで……」  熱止めの薬が効いてきたのか、サザナミの瞼は急に重くなる。ユクスがふたたび掛け布団を直してくれたところで、サザナミの意識は途絶えた。 「見捨てるわけないじゃないですか。私の、大事な大事なサザナミ。誰がなんと言おうと、おまえが私から離れることはゆるしませんから」  ユクスは眠るサザナミの瞼に唇を落とした。  ***  眠りについたサザナミの呼吸が穏やかになったのを見届けて部屋を辞したユクスは、廊下の壁にもたれかかって腕組みをするアキナの姿を認めると片眉を上げた。 「ユクスさま、あんまり長居しないようにとお伝えしたはずですよ……って、なんですかその顔は」 「てっきり帰ったのかと」  扉の向こうで眠るサザナミを気遣って、ユクスは小声で答える。無表情なのが余計に不満を抗議しているように思えて、アキナは内心で苦笑する。 「あのね、これでも俺はあなたの護衛ですよ。おいそれと一人で帰れるわけがないでしょう。あとあなたね、ついこの間、暗殺されかけたんですからもっと危機感を持ってください」 「あれはまた別の種類の悪意でしょう」  ユクスはつまらないものを見るような目でアキナを一瞥する。  ――相変わらず聡いこと。  アキナは肩をすくめてみせるが、ユクスは興味のなさそうにふいっと視線を逸らす。歩き出したユクスの半歩後ろを続きながら、アキナは苦笑した。 「……まあその話はここではやめましょう。誰が聞いているかわからないですから」  ユクスは前を見据えたまま頷いた。  ユクスとサザナミがホムラの民に襲われてから三日。雲隠れしたホムラの民は騎士団のなかでも精鋭を揃えて捜索させているが、まるで足取りがつかめていなかった。  ――あのときたしかに斬った手応えがあった。人間を斬ったとき特有の感覚だ、間違えるわけがない。  しかしあの後、周辺で目撃者はおろか、血痕のひとつすら見つからなかった。 「それで、サザナミの様子はどうでしたか?」 「アキナが退室してすぐに眠りましたよ。熱が上がってきたので眠ってからも苦しそうにしていましたが、薬のおかげかしばらくしたら落ち着きました」 「ならよかったです。急いでいたのもあったが、むりして話を聞いてしまったからな」  ええ、と返事をしたユクスの声色は低く、平坦だった。  ちょっと怒っているな、とアキナは思う。  大好きなサザナミが軽んじられて苛立っているが、早く状況を聞き出したいアキナの気持ちも痛いほどわかる。だから、ユクスは面と向かってアキナに抗議できず、ただぶすっと膨れっつらを見せている。きっとそんな感じだろうとアキナは予想する。  アキナはそんな正直で他者思いの子どもが嫌いじゃなかった。 「ところで坊ちゃん、いつまであの感じで行くんです?」 「あの感じ、とは」  ユクスは立ち止まってうしろを振り返った。 「サザナミの前ではすこしばかり猫をかぶっているでしょう。必要以上に聖人君子ぶるというか、無垢なふりをするというか、より王子らしく振舞っているというかなんというか。あれ、わざとですよね?」 「べつに猫を被っているつもりはありませんよ。好かれたいと思うのなら、相手が望む姿でいるべきだと、私の短い人生で学びましたから」 「……そうですか」  ユクスは、サザナミが清廉潔白な貴族を求めていると思っているのだろうか。  たしかにそれは間違いではない。  アキナも詳しくは知らなかったが、おそらくサザナミは奴隷時代に貴族たちから手酷い仕打ちを受けている。身も心も暴力で支配されていたのだろう。まことに許しがたいがよくある話だ。  アキナの推察が正しければ、その経験から、彼は貴族らしい風貌の人間を見ると身体を強ばらせる。本人も気づいていないだろうが、明らかに緊張感が漂うのだ。騎士団の宿舎でエーミールと初めて対面したときの彼の表情は忘れられない。  だが、サザナミの過去のことは本人が話していないならユクスは知らないはず。ユクスは彼のその複雑な事情を言外に汲み取っているのだろうか。 「そうか、これが猫を被っているということなんですね」  ユクスは愉快そうに笑う。  この王子の本来の姿は、素直に笑ったり怒ったりするただの十四の子どもだ。  サザナミが騙されているのはよしとしても、いい歳したエーミールまで釣れてしまっているのだから勘弁してほしい、とアキナは苦笑いする。  休憩時間にエーミールが目を輝かせてユクスの話をしていたのを思い出す。悲惨なご境遇だったのにもかかわらず、お心は清いままでなんて美しいのだ、と鼻息荒く褒めたたえていた。  ――まあ、それは間違いではないのだが。  ユクスはそんなことを思いながらため息をつくアキナを一瞥すると、口を開いた。 「それにしても、サザナミは自分を卑下する癖が抜けませんね。なにかしようとするたびに『俺は元奴隷だから』って。あのしゃべりづらそうな敬語だって指摘しなければ使い続けるし……王子たる私がこんなに熱心に会いにいっているのだから、もう少し打ち解けてくれてもいいと思うのですが」 「東の民はとくに階級を気にしますから」  ユクスはピンときたようで、わずかに目を細めた。 「……ああ、そういうこと」 「それと、本人のまじめな性格もあるかもしれませんが」 「どちらかというと私はそちらのほうが大きいんじゃないかと思います。彼が国を出たのは八つのときです。もともと平民だという話ですから、上流階級の人々と関わることはほぼなかったでしょう。教育の一環として、大人たちから上流階級の人間を敬うように口酸っぱく言われて、そうあるべきだと体に染みついているのでしょうね。まあもちろん、奴隷だったことも影響しているでしょうが……」  よく見ているな、とアキナは思う。  考え込むユクスを邪魔しないように黙っていると、しばらくしてユクスは言葉を続けた。 「私には、奴隷という制度がどれほどの精神的苦痛をもたらすのか、わかって差し上げられません。ときどきそれがとてももどかしく、また心苦しく思います」 「彼は、業務に必要な範囲で自分の過去を話してくれますが、それ以上はなにも言いません。だいぶ打ち解けたエーミールや少年団の子らにもです。それとなく探ろうとすると、敏感に察知して話を逸らされると、エーミールがこぼしていました。わざわざ言うほどのことでないと思っているのか、よほど言いたくないことなんでしょうね」 「いっそのこと私が彼を買ってしまえばよかったのでしょうか。そうすれば、有無を言わせずいまよりももっと親密に……」 「それはね、絶対に違いますよ」  言葉を遮ってそう言うと、ユクスははっと瞳を揺らした。 「……わかっています。サザナミと民らに失礼なことを言いました」 「大丈夫。サザナミは坊ちゃんに死ぬまで尽くすくらいの恩を感じていますよ」  ユクスはわずかに眉間にしわを寄せた。  この年若く聡明な王子が欲しい言葉がそれではないことくらいアキナはわかっていたが、それだけは言ってはならないと決めていた。  ユクスがサザナミに見せる執着心。  最初はものめずらしい異国の子どもに興味を持っているだけだと思っていた。しかし、この異常さとしつこさにを見るに、別の感情が宿りはじめているのは間違いがない。本人が気づいているのかいないのかはわかならないが。  ――「普通」の子どもなら、誰になにを思おうと誰にも文句を言われる筋合いはない。でも彼は王子。将来、王位に就いてこの国を統治し、そう遠くないうちに後継者問題が台頭するはずだ。  そのとき、いま彼のうちに芽生えはじめている感情は確実に邪魔になる。  あれこれ考えるアキナであったが、はじめてできた同年代の心をゆるせる友だちを取り上げることはできないのであった。 「あとね、いろいろ考えているんでしょうけど、そろそろサザナミにご自身のことをきちんと説明しないといけませんよ。今回のことでわかったとおり、彼はもう巻き込まれているのですから」 「……それもわかっています」 「あなたの出自も向けられた悪意の数も、きっと彼は気にもとめませんよ」
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