第二章 ホムラの民⑩

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第二章 ホムラの民⑩

 馬車の外では、黒の外套を身にまとった男が一人、突っ立っていた。フードを深く被っていて、顔がよく見えない。  彼は扉が飛んできたことなんてまったく動揺もせず、さらにはサザナミにも目もくれずに、目的のユクスが走り出したほうに向かって腕を伸ばした。手のひらからはいまにも閃光が放たれそうに光っている。おそらく魔術の類だろう。  ユクスから意識を遠ざけようと距離を詰め、間合いに入って短剣を振るうも、簡単に避けられてしまう。 「そんな未熟な力で俺を倒せると思っているのか?」  フッと鼻で笑われ、サザナミはカッと熱くなる。  その通りだった。サザナミは男と対峙してから、勝てるイメージがまったくできなかった。  手のひらの光を向けられ、サザナミは眩しくて目を瞑りそうになる。  しかし、その光はすぐに消えた。 「おまえ、東の民か……?」  サザナミを一目見た男の声はひどく動揺していた。  ――なんだ?  サザナミは訝しみながらも、時間を稼げるかもしれないと思い、黙って頷く。 「なぜ西の王子に侍っているのだ? いや、おまえもこちら側の人間なのか」 「は?」 「どうなんだ! おまえはいったい何者だ」  叫んだ拍子に男のフードが外れた。  男は、サザナミと同じ濡羽色の髪と朱色の瞳の持ち主だった。  間違いなく、ホムラの民の特徴。  なぜホムラの民がアルバスの王子を襲う必要があるのか。今度はサザナミが動揺した。  西のアルバスと東のホムラは国境を接しているが、これまで戦争はおろか小競り合いの類ですら一度も起きたことがなかった。というか、サザナミの記憶のかぎり、西の大国アルバスは世界平和軍に参加するのみで、自ら戦を仕掛けたことはなかったはず。  子どもの自分が知らないだけで東西の仲は険悪なのか、それとももっと個別的な事情でユクスを害そうとしているのか、サザナミには判断がつかない。 「答えろ!」 「……それはこちらの台詞だ。おまえのほうこそいったい何者なんだ。見たところ俺と同じホムラの民だろう。なぜこんなことをしている」  サザナミがそう問うと、男は舌打ちをした。 「どうやら仲間ではなさそうだな。まあいい、おまえのようなろくに魔力も扱えぬ未熟な子どもであれば、殺してもあの方は惜しまないだろう」 「あの方って誰だ」 「愚か者が知る必要はない」  これ以上サザナミとしゃべる気はないとでも言わんばかりに、向けられた手のひらの光がいっそう強まった。  気づけば男がサザナミの目の前にいた。  男は音もなく間合いを詰めていたようだ。そのまま、サザナミの額にそっと手をかざした。  たがいに確実に急所をねらえる距離。危険だとわかっているのに、殺されるのだと本能で理解しているのに、サザナミは恐怖で一歩も動けない。右手に持つ短剣を落とさないように握るので精一杯。膝がわなわなとふるえ、いまにもしゃがみこんでしまいそうになる。  サザナミがきゅっと目を瞑ったそのとき――。  男はうしろから真っ二つに切り裂かれ、視界が急に開けた。  返り血がサザナミの顔に飛び散る。 「大丈夫か!?」  長剣を構えたアキナが必死の形相で叫んでいた。剣にはべっとりと血がついている。 「おい! サザナミ! 聞こえているのか」 「……ユ、ユクスさまは」  絞り出した言葉はなんともか細い。が、アキナには聞こえていたようで大きく頷かれる。 「ああ、無事だ。市内を巡回していた騎士団員に保護された」  その言葉を聞いて安心したサザナミは、今度こそ地面にしゃがみこんでしまう。  ――俺が手も足も出なかった相手を一太刀で切り裂いてしまった。動揺も躊躇いもなく。これが、騎士団長。 「怪我はないか」  差し出された手を掴むと、強い力で引っ張りあげられる。 「大丈夫です。申し訳ございませんでした」 「いいや、これは俺の過失だ。すまなかった。馬車にぴったりくっついて馬を走らせていたつもりだったんだが、気がついたら全然違うところにいたんだ……いったいどういうことなのだろうか」  奇妙な術を使う賊だったから、幻覚などでアキナのことを惑わしたとしても不思議ではない。よくある術だ。サザナミはホムラにいたころ、似たような術を使う大人を何度か見たことがあった。 「まあ退けたからいいさ。さあ、賊の顔を拝もうじゃないの」  アキナにしてはめずらしく苛立ちをふくんだ声でそうつぶやくと、男のフードをめくる。  しかし、切り裂かれたはずの人間の身体がどこにも見当たらなかった。乾きはじめた血溜まりが不気味なほどどす黒い。 「……消えた?」  あっけに取られたアキナは、すぐに怒りの表情で「どういうことなんだ!」と怒鳴った。そばに控えていた騎士団員を呼び付ける。 「おい、エーミールを呼べ。この血痕と外套を調べさせろ」  アキナに命じられた騎士団員が走り去るのと入れ違いで、別の騎士団員がやってくる。  そのうしろにはユクスがいた。  肩で息をし、髪も衣装も乱れているが、外傷は見当たらない。地面に座り込んで血まみれのサザナミを認めると、顔を真っ青にし、駆け寄ってくる。 「サザナミ!」  サザナミに抱きつくやいなや、ユクスはわんわんと泣きだした。  身体から伝わる温もりが、サザナミにじわじわと安堵の感情をもたらす。  ――あたたかい。  あなたがぶじでよかった。走らせてしまってすみませんでした。俺は大丈夫ですから、ユクスさまこそ怪我はありませんか。血がついて汚いから離れてください。  そう言いたいのに声は出ず、ゆっくりと意識が遠のいていく。  ユクスが自分を呼ぶ声が遠ざかる。  サザナミの意識はそこで途切れた。
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