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幕間
ユクスを部屋まで送り、国王陛下に報告を済ませたアキナは、一人城下を歩いていた。
路地裏に入って三回曲がると、薄汚い路地に出る。古びたコンクリート造りの建物の前で周囲に人の気配がないことを確認し、錆びた階段を下がっていく。
地下三階まで降り、重たいドアを開けると、外装からは想像もつかないオーセンティックな空間が広がる。
近ごろアキナが足しげく通っているバーの一つだ。
アキナは自然なそぶりで視線をさまよわせ、バーの中に誰もいないことを確認してから、カウンターの隅に座った。
接客用の柔和な笑みを浮かべて近づいてきた長身のマスター・ジルバは、アキナに気づくと軽く身を乗り出して握り拳を差し出した。
アキナは右手の拳をジルバの拳に合わせ、「ひさしぶり」と笑う。
「しばらく見ていなかったから誰かと思ったよ」
「ここさいきん忙しくてな」
ジルバは興味なさそうに相槌を打つ。
「注文は?」
「酒以外で」
「バーに来たのに酒を飲まないのはおまえくらいだよ」
ジルバはそう言って笑うと、カウンターの向こうに消えていった。
アキナはけっして下戸ではないが、騎士団長に就任してからは一度も酒を口にしていなかった。一種の願掛けのようなものだ。
ジルバのうしろ姿を目で追い、腰までしかない背もたれに体を預けると大きなため息をついた。
先日、アルバス国内にあるホムラの難民が暮らす地区で、難民たちが気がかりなことを口にしていたと騎士団員から報告を受けた。
『アルバスの王子がホムラ復興の要』
東の小国ホムラは、五年前に勃発した北との戦争により滅んだ。
その後、行き場を失ったホムラの民らを受け入れるために、アルバスを筆頭に諸国が立ち上がり、各地に難民地区が設置された。とはいえ公に保護された民は全体の数から見ると圧倒的に少数で、かつてホムラがあった土地周辺に非公式の難民地区が乱立している。それらは総じて衛生状況も治安もわるく、難民らは飢餓と犯罪に震えているという。
サザナミの一家は、彼の語り口からするとおそらく後者に身を寄せていたのだろう。
此度の戦をしかけた国主の一族は、終戦の間際に揃って自害してしまった。政治に関わりのない子どももだ。なんとも後味の悪い結末であった。
しかし、この北と東の戦争にはいまだに大きな問題が残っている。
『国主の隠し子がどこかに生き残っている』
そう、まことしやかに囁かれているのだ。
隠し子というのが誰を指すのか、そしてそんな者がほんとうに存在しているのかはわからない。
自国を失くしたホムラの民らの願望めいた噂話かもしれない。
しかし、終戦の間際からそのようなことが各地で聞かれるようになった。
その隠し子の候補としてささやかれているのがユクスだ。
もちろん彼はホムラの国主の末娘とアルバスの王との子なのだから、そんなめちゃくちゃな筋書きが成り立つわけがないのだが……
――火のないところに煙は立たないとでも言うべきなのだろうか。
アキナはテーブルに目線を落とす。
ホムラの民は、厳しい土地に生まれたからなのか団結力が強いと聞く。自国への誇りもいっとう高く、さらには敗戦の直前まで政治を仕切っていたのはいわゆる過激派と呼ばれる貴族たちだ。
今後、ホムラ復興をめざす過激派が、ユクスに接触しようとする可能性があるだろう。
――せっかく友だちもできてかつての明るさを取り戻しつつあると思っていたんだがな。しばらく外出は控えてもらうしかない。
「どうしたんだ、難しい顔をして」
上から声が降ってきて顔を上げると、ジルバがアキナの顔を覗き込んでいた。
「ああ、いや」とアキナはかぶりを振る。
「仕事のことか?」
アイスコーヒーの入ったグラスが置かれる。
「まあそんな感じだ」
ジルバはアキナがこれ以上この話を続ける意思がないことを察知すると、カウンターを出て扉を施錠し、アキナの左隣に座った。
「店じまいにはまだ早いだろう」
「ひさしぶりにおまえに会えたんだ。仕事なんてしている場合か」
ジルバは自分用の酒を手に、アキナの右隣に腰を下ろした。アキナはそれを横目で見て、アイスコーヒーを一口飲む。
ユクスの母シラユキは、アルバスとのパイプづくりのためにわずか十七歳で嫁いできた。
ホムラでは桜が咲く季節のこと。
シラユキ姫は城下で馬車を降り、わずかな供を連れて徒歩で王城に入城した。
好奇の目に晒されていたにもかかわらず、彼女の朱色の瞳はだ最初からひとつの恐れも映さず覚悟の色に染まっていた。幼くして己の使命を全うせんとする姿勢に、若かりし頃のアキナは尊敬の念を覚えた。
アルバスの民には、姫の濡羽色の髪に朱色の瞳という東の民特有の見た目がめずらしく映った。
もともとホムラは鎖国がちであったから、ホムラの民を見たことのある人間は市井にはほとんどいなかった。東の民はみなあのような見た目なのかと、時間と金を持て余した貴族が視察と称して外遊に行くくらいには、姫の容姿は目を引いた。
そのめずらしさを抜きしても、シラユキはいっとう美しかった。桃色の着物をはためかせて歩く姿を、アキナはいまでも忘れられない。長い髪が風に揺れるたびにそこかしこから嘆息があがるような、麗しい少女だった。
しかし、その息子であるユクスには東の見た目がいっさい現れていない。
金髪に菫色の瞳はまさにアルバスの王家特有の見た目だ。
――似ているのは性善説を信じてやまない根っからのお人よしぐあいと、意外と頑固な性格くらいか。
アキナは東の少年と手を繋いで歩く王子の後ろ姿を思い浮かべ、小さくため息をついた。
まだ子どもとはいえ成人手前の男が、男と手を繋いで歩く意味を、ユクスは正しくわかっているのだろうか。
あれをたんなる庇護欲だとあなどってはいけないと、アキナは直感で思っていた。子どもらしい執着心がこじれた結果なのかは知らないが、おそらく別の感情が芽生えはじめている。
いずれにせよ、これから彼が歩む王族としての人生に確実に不要な感情が芽吹きはじめているのを、アキナはひしひしと感じていた。
アルバスの王族は血統主義。
その血を絶やすことはゆるされない。
ユクスが彼をどう思っていようと、近い将来、生殖機能の備わった名家の令嬢とつがうことは避けられない。身分の差なんてものが問題なのではなく、同姓の二人では決して越えられない壁だ。
――そのとき、二人はいまのままの関係でいられるのだろうか。
おもむろにアキナの右手にジルバの手が重ねられる。
はっとして彼を見ると、挑発的な笑みを浮かべていた。
「それで、このあとは?」
「言わなくてもわかっているだろうが」
挑発的な言葉を返すと、ジルバの瞳はみるみる愉悦の色に染まっていった。
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