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 初めてフロイデに曲を紡がせた日のことは、今でも鮮明におぼえている。  それまでは「戦闘向け」とされる曲に何度か挑戦し、そのたびに過大な負荷のせいで失神していた。音を紡ぐときにはフロイデと手をつなぎ、曲についての指示を心で念じる。音階やイメージ、曲の展開を強く想像すると、それが鎖でフロイデに直接伝わるのだ。  何度目かの練習のあと、フロイデは手をつなぐのをためらう様子をみせた。この練習自体がナイメリアの負担になっていることは明らかだ。それでも練習しないわけにはいかない。ソティルが楽器を扱えなければ、次に敵が攻めてきたとき、国は滅ぼされる。だからこのままではいけない。そうはわかっているが、と──フロイデの紫の瞳は暗く沈み、こちらを慮るような影を帯びていた。だから、構わず手をとった。びくりと震えるフロイデには申し訳なかったが、「恐れるな」と何度も自分自身に繰り返した。なにごとも恐れていては前へ進めない。たとえ失敗しても、試みることに意味がある。 「……今日は違う曲にしよう。これじゃなくて」  目の前の譜面台には、グランドマエストロが用意していった「最低限こなすべき戦闘曲」が広げられていた。それを潔く閉じる。不安げなフロイデの瞳に頷き、頭のなかで曲を思い浮かべる。それは市井の子守歌で、子供たちがよく口ずさむ言葉遊びの曲だった。音階とメロディ、フレーズ。その響きを、できるだけ詳細に思い浮かべてみる。音の形は──輝く小さな星をつらねたようだった。すべての歌詞は簡素ながら、きらきら瞬き、メレンゲシュガーでできた菓子にも似て軽い。甘い印象さえある──……。  頭のなかで口ずさんだその音が、フロイデの口から紡がれたとき、驚いてその口元を見た。フロイデ自身の声ではなく、自分が想像した通りの音階やメロディが紡がれていた。音は、きらきら輝く黄色い星になり、空中に表れた。 ネックレス状に連なった星が、羽のようにどこまでも空へあがっていく。フロイデが音を切ると、ネックレスの紐が切れたように星は淡く散開した。そのまま透明になり、青空に溶けるように消えていく。ほう、とフロイデがそれを見つめていた。初めて産み出した音の形は異様に美しく、その軌跡の跡をふたりで寸の間、うっとり眺めていた。  ひとつ曲を鳴らした後は、不思議と他の曲もどんどん扱えるようになった。練習を続けると体力は消耗したが、それでも音を紡ぐ作業はとても楽しかった。フロイデが指示に従い曲を紡ぐ。それが硬さと色のある実体になる。そのたびに彼は恍惚のため息をつき、美しい音の形に見惚れていた。何度か繰り返すうちに気づいたが、フロイデは曲を奏でることに悦びを感じている。歌い終えるとその頬は上気し、目は幸福に潤んでいる。嬉しそうに振り返り、曲の感想を口にしようとして、けれど真横で今にも倒れそうになっている自分の顔色に気づき、ようやく慌て出す──練習はその繰り返しだった。実際の戦闘では、物体として作り上げた音や、曲のイメージで敵を攻撃する。まだその域に達してはいなかったが、着実に成果をあげてはいた。  その頃からだろうか。時おり、フロイデから請うような視線を向けられるようになった。アメジスト色の瞳に揺れるその熱が、劣情の色だとはわかったが、それに真っ向から応えるだけの勇気がなかった。フロイデのことは好きだし、好ましく思う。それが己のなかで、家族や親友へ向ける感情より大きな想いになっていることは、確かだった。けれどそこから先のことを考えると、途端にわからなくなってしまう。フロイデは楽器だ。それなのに、人間との区別がつかなくなっている。自分の首からさがる鎖のせいか、お互いの感情がごちゃまぜになり、フロイデを自分の一部のように感じることも増えていた。一緒にいると体の境界線が消え、ふたりでひとつの人間のように感じることもある。フロイデがいなければ、もう生きてはいけない。同じことをフロイデも感じている。それがわかる。とにかくふたりでいれば幸せだし、なにもかもがうまくいく気がした。ふたりでいれば──それだけが今、もっとも大切なことだった。  жжж  初夏の緑すがしい風の吹く夕暮れ、苦労してフロイデに音を紡がせた。この日、なんとか一緒に空を飛ぶことに成功した。よろよろと尖塔の上に着地したフロイデは、荒い息のままに輝く笑みを向ける。 「見てください。上からだと、こんなに街を見渡せます。すごい──」  綺麗だ、とフロイデは満足そうだった。美しい茜色に染まる街を、アメジスト色の瞳がうっとり眺める。フロイデに抱えられ、息を整えながらふと思った。 「これまでだって、空を飛んでたでしょう?」  フロイデは過去に三人のソティルと契約の鎖をかわしている。楽器とソティルは戦場で空中にいるものだ。そのほうが戦いやすいし、楽器の能力も存分にふるえる。自分は奏者に関する知識が足らず、訓練に入るのが遅れたが、フロイデは他のソティルたちと空を飛んだことがあるはずだった。フロイデは首を振る。 「ここまで私を使いこなせたのは、ナイメリアが初めてです」  フロイデの瞳の紫色が暗みをおびる。 「私を得た人は、三年で死んでしまいます。その話をすると、みんな私のことを怖がったんです」  これまでの奏者たちはみんな、フロイデを選んだことを心から悔いたという。死への恐怖が足かせとなり、ソティルたちとうまく関係を築けなかったと、フロイデは淡くため息をこぼした。 「でも、あなたは違いました。私の重さもすぐに受け入れ、必死に努力してくださった」 「そうするしかなかったから」  通常、ソティルになる者は二年以上の訓練を積んでいる。楽器を選ぶときも、あんな簡素で混乱した場ではなく、もっと荘厳な儀式を用意され、祝福とともに任命されるものだ。けれど自分の場合は違った。混乱のなか、引っ立てられるようにソティルになったのだ。当然、楽器について吟味する余裕も、己の命があと数年と震える余裕もなかった。数年どころか、うまく楽器を扱えなければ、明日にも敵に殺されるかもしれない状況だった。結果的にはその過酷さが、フロイデとのコミュニケーションを円滑にした。出会ったときとは比べようもないほど、フロイデは愛情に満ちた笑みを浮かべている。 「本当に、あなたは私にとって最高のソティルです。本当は──」  ──私を使わせたくない。  フロイデは心のなかで悲痛にそう願っていた。音を奏でれば奏でるほど、ナイメリアは命を削り、死に近づいてしまう。けれどソティルが楽器を使わないことは許されない。敵がいないときでも、最低限の訓練を行うことは義務とされている。だからフロイデは言葉をのみ、かわりに優しく微笑んだ。 「できるだけ一緒にいて、体力を温存しましょう。あなたが末永く、何十年と生きられるように」  そっと寄り添い、フロイデの温もりと鼓動を感じながら夕陽を見る。楽器を得てからすでに一年。これまでのフロイデの持ち主の平均寿命からすると、あと二年の命だ。グランドマエストロは、この様子ならもっと長く生きられると言っていたが、どうなるかはわからない。あと数年しか生きられないなら──このまま、何事もなく穏やかに過ごしたい。口にされなかったその望みをフロイデが受け取り、しっかりと頷いた。
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