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「ナイメリア……」  どうします、と、フロイデが敵を睨んだまま小声で聞く。敵もこちらに気がついている。絶妙に離れた位置で、窺うように首をかしげている。扱える戦闘曲の種類を必死に考えていると、敵のほうから動いた。外套を着たその楽器は、静かにフードをおろした。現れたのは端正な顔の青年だった。フロイデより少し年上の、二十歳くらいにみえる。冷ややかな黒の相眼は、ありったけの憎悪と悲しみ、怒りにぎらついている。青年は静かに呼気を吐く。呆れているようにも、驚いているようにもとれる態度だった。眉がかすかに、神経質そうにひくつく。 「フロイデか──」  澄んだつめたい声だった。フロイデは相手が誰かといぶかっていたが、そのとき、ナイメリアは息をのんだ。青年の怒りの対象はフロイデではなく、真っすぐに自分へ向けられている。その眼差しに恐ろしいほどこめられた憎しみは、初対面のはずの自分に据えられているのだ。つき刺すような殺意にさらされ、ぞっとした。フロイデが怯えを察し、前へ出る。 「何者です? あなたは……楽器ですか?」 「人間風情が、ひとりで空を飛べるとでも?」 「私たちも、ソティルなしには飛べないはずでしょう?」  青年は嘲るような瞳になる。背後ある宮殿の輝きをみて、ひとり言のようにぼそりとつぶやいた。 「お前がいるなら、ここにはギルデロイも……」 「今すぐ立ち去りなさい。でなければ、死ぬことになります」 「その甘さは変わらんか」  青年は浅くため息をつく。黒手袋をはめた両手が上がるのをみて、フロイデがぎょっと身を引く。青年の手に、緑の小さな光が産まれつつある。とっさに、内心で準備していた曲のイメージをフロイデへ送った。それは小さな円形のドーム覆いを産み出す音だ。フロイデの口から硬質な三重の和音が紡がれる。自分たちを守るように、黒いドーム覆いが現れた。叔母が不可思議な緑光にやられたと聞いてから、グランドマエストロと一緒に、その対策についてずっと考えてきた。グランドマエストロはこう言っていた。 「一番いいのは、逃げることです。怪しげなその緑の光を浴びないようにすること。緑光はとくにソティルに作用するようですから、まずはソティルの身の安全をはかることが大切です。けれどもし、逃走が間に合わない距離であれば、そのときには……」  光をなにかで遮ること。たとえば、黒いドーム状のもので──大きさは小さくても構わない。重要なのは緑光が放たれた瞬間、ドームを作る素早さと、光がおさまるまで耐えしのぶことだと、グランドマエストロは言っていた。  なんとか一瞬で光を遮る黒いドームを産み出すことに成功した。漆喰を固めたような質感の半円のドームは、十分に役割を果たしている。自分たちをすっぽり覆って光から守り、敵との間に巨大な盾のように立ちはだかっている。敵の姿はドームのせいで見えないが、緑光がおさまってから様子を窺えばいい。ほっと息をついたとき、鼻で嘲る吐息がすぐそばで聴こえた。緑光を掲げた青年が、剣を黒壁のドームに突き立てていた。その剣の切っ先がドームを貫き、目と鼻の先にある。ぎくりと、後方へ身を引いた。黒壁のドームに亀裂が入る。壁の向こうから、青年の笑い混じりの声がする。 「人間を信じ、人間に騙され──その優しさで、いったい何人を殺してきた? 無知と博愛は害悪だな」  フロイデ、と。青年が冷たく吐き捨てたとき、黒壁の一部が崩れた。とっさに光を両手で遮ろうとしたが、間に合わなかった。緑光に飲み込まれる──!  フロイデが庇うように前へ出る。その全身で、自分の代わりに緑光を浴びている。はっと、フロイデが息をのんだ。驚愕にその身が強張る。 「フロイデ!」  振り向いたフロイデは、ぎこちなく体を動かした。何事か口ずさみ、とん、と、自分の胸を押した。  瞬間、ガラスが壊れるような音がした。  お互いを繋いでいた鉄鎖が粉々になった。フロイデとの繋がりが切れたのだ──。  自分の足がたたらを踏んで宙に浮き、鐘楼の下へ落下する。  落ちる寸前、逆光になったフロイデの鋭い瞳がみえた。  激しい憎しみと怒りと、心の底からの戸惑いの色。  その内心はわからないが、「どうして?」と問われているだった。  「どうして」──?  紫の瞳は今にも崩れ落ちそうで、やり場のない感情に困惑していた。あのまま放っておいたら、フロイデは壊れてしまう。そんな気がした。今すぐフロイデの元へ行かなければならない。けれど、体は落ちていく。手を離す寸前、フロイデが小さく口ずさんだ音が、しだいに落下速度を緩めていた。緑光は鐘楼のおかげで遮られ、ここまでは届いていない。緩やかに落下していた速度が、突然増した。二階の窓ぐらいの高さからいっきに落下し、痛みにのたうつ。幸運にも、頭は打っていない。両手や肘、膝にはいやな衝撃と軋みがあったが、よろつきながらもなんとか立つことができた。  緑光はおさまっていた。元通りになった夜空には、先ほどの青年と、白い球体のなかに囚われたフロイデの姿があった。フロイデは意識を失っているようだ。ぐったりと頭を垂れている。青年が手で合図すると、外壁のほうから楽器と奏者が続々と空を飛び、現れた。その数は三組。全員が頭までをすっぽりと覆う、黒の外套を身に着けている。彼らはフロイデを丸い球に捕らえたまま、宮殿のほうへ飛んでいく。空をみて、転びそうになりながら後を追った。異変に気付いた街はひっくり返るような騒ぎで、宮殿からもたくさんの兵が出ている。時々、空へ向かって大砲が撃たれるが、それはかすることもなく、反対に楽器の手のひと薙ぎで街が建物ごとえぐられる。敵の楽器の発する音は耳障りな金属を叩く音で、それが一音響くたびに、家々が一列ずつ消し飛んだ。何度も人にぶつかり、転んで、それでも空を見あげて走った。  三組もいる。ソティルと楽器が三人も。それに、たったひとりで音を操る、あの青年の楽器だ──。  グランドマエストロは、楽器はわが国と二つの友好国にしかないと、そう胸をはっていた。だからこそ軍備にさほど気をつかう必要もなく、ソティルがひとりいれば国は盤石なのだと。みながそう思っていた。楽器をもたない国は黒鍵に侵攻されるが、我が国は安泰なのだと。叔母の死によって、敵国にも楽器がひとつあることはわかったが、他にも楽器があるなんて知らなかった。たったひと組で国を滅ぼせる力が、これほど簡単に頭上に集まっている。混乱し震えながら、それでも走った。フロイデは白い球体に囚われ、運ばれていく。長らくその温もりと一緒だったから、離れてみて初めて、全身が冷気に包まれた気がした。周囲には人がたくさんいるのに、世界にひとりきりになった気分だ。フロイデの気配を感じない。その温もりも声も、鼓動もなにもない──心の繋がりを感じない。すこし先で火炎が上がり、爆発とともに悲鳴がおこる。敵の楽器たちはあっという間に、宮殿の中へ入りこんだ。
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