2-7

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「フロイデ? 誰だそりゃ」  目をひらくと、空を飛んでいた。  正確には、空を飛ぶ少年に右腕をつかまれ、無造作にぶら下げられていた。 「ふん」  少年が自分の体を腕ごと持ち上げる。  明るい月光の下、同じ目線の高さまで引き上げられると、少年の自信たっぷりの笑みがみえた。外見は同じ歳ぐらいなのに、はるかに長い時を生きてきたとわかる傲慢な笑い方だ。嘲るような口角、凶悪さをはらんだ黒い瞳。漆黒のつややかな長い髪。笑みからこぼれる犬歯は鋭く、いまにも噛みつかれそうだ。まるで悪魔だった。もしその背に黒い羽があったら、物語に出てくる吸血鬼だと信じたかもしれない。とにかく顔つきがおそろしい。悪意が滲み出ている。 「悪魔? 吸血鬼? 馬鹿か。俺は楽器、ギルデロイだ」  耳障りな音をたて、武骨な鎖が現れる。ギルデロイと自分の首を結ぶように、重い鎖がひとりでに巻きついてくる。フロイデと初めて会ったときに得た鎖よりも重い。苦痛に顔をしかめると、ギルデロイが指を鳴らした。足元が軽くなり、勝手に体が宙に浮く。息も絶え絶えに、目の前の楽器を見つめるしかない。言葉を紡ぐのに時間がかかった。 「あ、あなた……楽器? これって……契約の鎖?」 「そのようだな」  ふん、と鼻で笑った少年は、小さな子供に教えるように口調を和らげる。 「言っておくが、どんな経緯があったにせよ、お前の短い命はもう俺のものだ。さて、今回のソティルは何日もつか。一日か、二日か」 「どういう意味? あなた……」 「ギルデロイだ。死ぬ前くらい、仲良くやろうぜ」  愉しげな微笑みにぞっとする。足元では敵兵がこちらを指さし、弓を用意している。遠く空に散っていた三組の楽器たちが、異変に気づき集まってきた。地上から空へ上がった青年の楽器が、フロイデを捕らえた球体を離れた場所へ移動させる。それらすべてを睥睨し、ギルデロイは恍惚とため息をついた。夜の殺気と混乱の気配を愉しんでいる。彼の喜びが──混沌を愛する凶暴さが、鎖を通じてじかに伝わってくる。 「俺は人間の望みをひとつ叶えてやるんだ。お前の命で、俺が自由に音を鳴らす代償にな。お前の望みは?」  それは死刑宣告のように聞こえた。フロイデよりもさらに重い契約の鎖──楽器ギルデロイは、おそらくソティルの言うことを聞かないのだろう。ソティルが死ぬまで自由に歌ってやると、隠されもしない内心が伝わってくる。それでも、やるしかない。震える唇を必死に動かした。恐怖に負けているときではない。 「フロイデを助けて。奴らを、追い払って」 「それはふたつだが。ふうん……いいぜ」  にんまり笑んだギルデロイは、自分を荷物のようにかつぎ上げた。頭を上げてもギルデロイの足と地面しか見えない。そのことに文句を言う暇もない。 「あーはっはっはぁっ!」  ひゅぅと、肺が外から押しつぶされる。息ができない。  全身を太い鎖が締め上げる。  ギルデロイが闇雲に、稲妻に似た轟音を放ったのだ。  ギルデロイにはまだ、具体的には何も命じていない。この曲を紡げとも、あの兵を攻撃しろとも言っていない。ソティルの指示を聞かず、楽器がかってに音を紡ぐなんてあり得ないことだ。小さな音や、ソティルのためを思い楽器がかってに演奏することは、ごくまれにある。けれどそれにしたって、これほど大掛かりな曲はない。そんなことをしたら、ソティルの体調が著しく悪化すると楽器はみんな知っている。だから、ソティルの指示に楽器は従うのだ。伝えられた音や曲へのイメージを忠実に紡ぐのが、彼らの仕事だからだ。  このギルデロイという楽器は、まったく勝手が違っている。  ギルデロイが奏でたのは、大掛かりな戦闘曲だった。  武骨で荒々しく、自由で激しい。大自然の怒りにも似た傲慢な響き。  考える余裕があれば、「楽器が暴走した」と思ったかもしれない。実際、思考を巡らせる余裕はいっさいなかった。  紅紫の雷が鋭い槍のごとく地上の敵兵を貫き、蒸発させる。  放たれた稲妻が、じゅっ、とナイメリアの髪と頬を焼いた。  敵の楽器たちが攻撃してきたが、その音ですら、落雷の轟音にかき消されてしまう。  ギルデロイは軽やかに宙を舞う。かえす手で稲妻を素早く放っている。  ひと組、またひと組と、楽器とソティルが落とされる。最後の楽器とソティルは、フロイデを運ぶ青年の楽器を守るため、捨て身の体当たりで稲妻を受けた。その衝撃でよろついた青年の楽器が、フロイデの白い球体を守るように引き寄せる。憎々しげにギルデロイのことを睨んでいる。近づいたとき、青年の楽器の歯ぎしりするような声が聞こえた。 「ッ、ギルデロイ……!」 「なんだ、知り合いか? 悪いな。俺はなんにも覚えちゃいねぇんだ!」  あはは! と、ギルデロイは見境なく稲妻を放つ。  ナイメリアは途中から切れ切れの意識になっていた。鎖に締め上げられた骨が軋み、嫌な音がする。全力で倒れるまで走った後、海底に沈められた気分だ。全身が重くてぴくりとも動かせない。  息ができない。  死ぬ──……!  気がつくと、木の根元にもたれて座っていた。 「う……」  意識を失っていたらしい。  霞む目でちらりと全身をみる。すくなくとも──両足は折れてはいない。手も、指も無事だ。体中がきりきり痛く、まったく動かせない。苦しいと思って息を吐いたら、喉の奥から血が零れてきた。咳をした拍子に胸が激痛を訴える。あばらが折れたかもしれない。空から舞い降りてきたギルデロイが、やれやれと肩をすくめている。 「悪りぃな、見失った。まあ、敵兵は追い払ってやったぞ。お前もまだ生きてるし」  上々だろと、ギルデロイは鼻で笑う。どこかで火の手があがっているらしい。燃える火の粉が風に舞っていた。 「そういや、お前の名前は?」  動けない自分を荷物のように担ぎ上げたギルデロイが、今気づいたという風に尋ねてくる。運ばれていく途中にまた息苦しくなり、そのまま意識を失った。
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