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「もはや一刻の猶予もありません。今すぐ降伏を──」 「馬鹿を言え! そんなことができるか!」 「敵はすべての楽器を手中に納めたのですぞ!?」 「まだ近隣に味方の楽器はいる。アスモリンクや、ロガリン、カバルダにだって……!」 「そのカバルダが攻め落とされたのです! 緑光が空高くを覆ったと報告が」 「まだ攻め落とされたと決まったわけではなかろう!」  怒声に頭痛をおぼえ、ナイメリアは目をひらいた。頭を金づちで殴られているようだ。薄目で窺うと、どうやらここは兄の部屋だ。きらびやかな寝室には傷ひとつなく、普段と変わりなくみえるが、室内の空気は今にも乱闘が起きそうだ。ふたりの大臣と長兄、グランドマエストロが集まり、大声で怒鳴りあっている。父だけが、沈鬱な表情で椅子に腰かけ、議論をうつむきがちに聞いていた。 「よう。死んだかと思ったぜ」  ギルデロイがベッドのふちに腰掛け、顔を覗きこんでくる。声を出すのが億劫で、その手を握った。こうすれば声を出さなくても、直接心で考えを伝えられる。ギルデロイは一瞬、身を強張らせた。手を引きかけたが、諦めたように視線をそらしてじっとしていた。疑問を悟り、教えてくれる。 「お前がどこで死ぬべきか、今みんなで議論してるところだ。第一皇子はお前をここに留めて、全員で一緒に死のうと言っている。敵に楽器を奪われた以上、抵抗しても皆殺しにされるだけなのに。反対に、あのハゲとでぶの親爺は降伏しようと言っている。その場合、お前は敵に差し出される生贄だ。敵に捕まりあっちで殺される」  あけすけな物言いに、しぃんとその場が静まりかえった。ギルデロイが「ハゲ」と侮蔑したのは軍統括大臣で、「でぶの親爺」は参謀大臣だ。重々しい父のため息が聞こえた。 「どちらの案も私には好ましく思えんな。……少し、考える時間をくれ」  父が出て行くと、大臣たちは慌ててその後を追った。持論を父に説きたいのだろう。兄のアルケリスがそばへきて、青ざめた顔で水を飲ませてくれた。ひと口吸い込んだ水は甘く、血の味がした。実際せき込み血を吐いていた。兄が布を取り、口元を清めてくれる。その手はかすかに震えていた。 「ナイメリア、お前はなにも心配しなくていい。ただ安静に……休んでいろ」  兄の手が執拗にナイメリアの頬をぬぐう。口元ではなく、なぜ頬を清められるのだろう。気だるく自分の頬を拭うと、手のひらに血がべっとりとついた。ひう、と思わず悲鳴がこぼれかける。部屋の向かいにある鏡台に、血涙を流す自らの姿が映っていた。服はべっとり血に染まり、兄がぬぐうはしから血があふれてくる。恐怖に身震いした視線の先を追い、グランドマエストロが体で鏡台を隠すように移動した。その声には末期患者に向ける優しさがあった。 「ご立派でした。フロイデのことは残念ですが、ソティルのおかげで我々は命拾いしました。あなたの貴い、犠牲のおかげで」 「犠牲……?」  グランドマエストロはちらりと、ギルデロイを窺った。兄の瞳は潤み、しだいに口惜しさと怒りに歪んでくる。グランドマエストロがためらいがちに口を開く前に、慌てて遮った。 「待って。すこし、休ませてください。お話はどうか、それからに……」 「あ、ええ。もちろんです」 「兄上も。そばにいてくださらなくて、大丈夫ですから」 「何をいう。私はずっとここにいる。お前のそばにずっと」 「お願いです。どうか……しばらくひとりにしてくださいませんか?」 「しかし……」  兄は不安げにギルデロイを何度か見たが、グランドマエストロに促され、結局は後ろ髪をひかれるように外へ出て行った。ギルデロイが誰もいなくなった部屋を見て笑う。 「静かになったな」 「教えて」 「何を?」 「──全部。あなたに、説明してほしい」  フロイデはどうなったのか。今の状況や、この体に起きている異変のこと。一番わからないのは、ギルデロイが何者なのかだ。なぜあんな楽舎の床下に、ゴミのように放置されていたのか。グランドマエストロはギルデロイのことを知っているような素振りをみせた。聞けば教えてくれただろうが、楽器本人の口から直接聞きたかった。グランドマエストロを信用できないわけではない。彼は真摯に答えてくれるだろう──あからさまな憐憫や、諦めをこめた口調で。兄のアルケリスにしてもそうだ。優しさのあまり、兄は嘘をつくことをためらわない。ギルデロイはやれやれと面倒くさそうに明後日の方を見ている。 「言ったろ、俺はギルデロイだ。なんであんなところに押し込められてたか、そんなの俺が聞きたいが……まあ、嫌われてたんだろうな」  ギルデロイは、自らを『呪いの楽器』だと言う。 「みんなそう呼んでる。俺に宛がわれた人間は、数日で死ぬ。昔は罪人を与えられたこともあったが、最近は忘れられてたみたいだな」 「数日って……あなたにつく人間は、具体的に、何日もつの?」  ギルデロイはきょとんとしたが、真剣に考えこんでいる。 「だいたい三日。長くて一週間ってとこか」  三日から一週間。意外なことに、冷静にその事実を受け入れられた。ギルデロイと会わなければ、あのとき敵に殺されていた。それを思えば、寿命が延びたと喜ぶしかない。ギルデロイがじと目になっている。 「お前、変わってんな。俺のことが……死が怖くはないのか?」 「そんな暇ない。じきに死ぬなら。フロイデは?」  声は震えてしまったが、なんとか気力を取り戻すことができた。今は死を恐れている場合ではない。 「フロイデ? ああ。あいつらに連れていかれた」  ギルデロイによると、敵兵は楽舎にあったすべての楽器とフロイデを持ち去った。そのまま隣の友好国・カバルダの上空を押し通り、自国の方角へ戻ったという。 「……わかった。なら、私をフロイデの元へ連れていって」 「あ? なんで俺がそんなこと」  静かに息を吸いこんだ。ギルデロイが楽舎の下に押し込められていたのは、きっと演奏に適さない楽器だからだ。彼はソティルの言うことを聞かない。歴代のソティルの命をあっという間に燃やしつくしてしまうのは、おそらくそれが原因だ──そんな楽器を手に入れた。そんな楽器に命を捧げてしまった。契約の鎖は、すでにギルデロイと結ばれている。この命は、もって三日から一週間。握りしめたギルデロイの手は、フロイデよりもごつごつして大きい。武骨なその温もりに神経を集中する。己と繋がったギルデロイの心を睨みすえるように。握りしめたギルデロイの指がびくりと反応する。心に別の人間が入りこんでくるのを怖がっている。 「言ったでしょ? 望みを叶えてくれるって。私は、フロイデを助けてと言った」 「敵は追い払ってやったろ。これ以上、言うことを聞く義理はねぇ」 「嘘つき」  悔しさに涙がにじんだ。あまりに無力だ。死にかけで、ひとりでは何もできない。この一年、完璧なソティルになるために努力してきた。そのすべてが無駄に思えた。こんなことなら、必死に勉強なんてするんじゃなかった。フロイデと遊んで、楽しく過ごしていればよかったのだ。たった数日で死んでしまうなら、フロイデと──。  最後に見たフロイデのぐったりした様子が、脳裏に浮かんだ。フロイデをあのままにしてはおけない。なんとしても。死ぬのは彼を助けてからだ。とっさに部屋を見渡した。ここは兄の寝室だ。ベッドの横には小さなチェストがある。そこに何が入っているか知っていた。 「っ、おい!」  考えを読んだギルデロイが止めようとする。それより一瞬はやく、チェストの中から小刀を取り出した。抜き身の刃で自分の首を勢いよくかき切ろうとして、寸前でベッドに引き倒される。 「なに考えてやがる! 正気か!?」 「私が死ねば、あなたはグランドマエストロに鎖で拘束される! 嫌なら協力して!」  必死に小刀を奪おうとするギルデロイに、内心、冷や汗をかく。これは賭けだ。ギルデロイには考えがすぐに伝わってしまう。契約の鎖で繋がれた楽器に隠し事はできない。本気で死のうとしないかぎり、止めようとすら彼はしなかっただろう。だから、本気で自らの喉をかき切ろうとした。  昔、フロイデが話していたことを思い出したからだ。 『あの楽舎で、鎖でぐるぐる巻きにされると、嫌な夢ばかり見るんです。夢の内容は、今となっては思い出せませんが……本当に辛くて悲しくて。だから、ソティルに出会えた今はずっと幸せなんです』  楽器は楽舎に閉じこめられることを嫌がる。ソティルを得て、音を奏でることをなによりの悦びとする。だからこそ、この命には価値がある。ギルデロイも楽器である以上、同じ考えを持っている可能性は高い。  互いに睨みあい、小刀を握る手で力比べをしたが、先に諦めたのはギルデロイのほうだった。 「わかったよ。俺は嘘つきじゃねぇ。──だが、こんなことは二度とするな」  ギルデロイがはじきとばした小刀が、甲高い音で部屋の床をすべっていく。上にのしかかってくる少年のぎらつく目に、息をのんだ。ギルデロイは本気で怒っている。触れた肌から、その激しい憤怒がひしひしと伝わってくる。ギルデロイの心にあるのは、ソティルが死ぬことへの並々ならぬ恐怖だ。鎖で縛られ、また楽舎の床下に押し込められることを、彼は心の底から嫌がっている。ギルデロイはさっと視線をそらした。感情を読まれることも、彼は嫌がっている。 「それで。どうやって向かう? その……フロイデってやつのところに」 「考えてなかった。飛んでいくのは? 間には海があるし、飛んでいけば早いかも」 「馬鹿か。お前が、俺との飛行に耐えられるわけねぇだろ。地図は?」  やれやれと、ギルデロイに問われ、部屋を見回した。先ほどまで大臣たちが使っていた世界地図が机に広がっている。 「陸路でカバルダまで。あとは船だな」 「途中にアスモリンクがあるわ。船を降りたら、そこを経由したほうがいいかも」  カバルダとアスモリンクはどちらも友好国だ。黒鍵の兵に抗するという点で協力関係にあるし、道すがら支援を受けられるかもしれない。 「決まりだな。ほら、行くぞ」 「え……?」 「ぐずぐずするな」  地図を丸めたギルデロイは「ん」と、ベッドの横に屈み、背に乗るように促した。 「歩けねぇんだろ? はやくしろ」 「わかった」  苦労してその背に倒れこむように乗ると、ギルデロイが運びやすいように抱え直した。ギルデロイの体はフロイデよりも頑健で、体温が高い。子供のように暖かくもある。触れ合う面積が増えたことで、体をしめつけていた鎖の重みが軽くなる。呼吸が楽になり、ゆるゆる目を閉じた。疲弊でまぶたが落ちそうだ。 「死んだら……あなたはどうなるの?」 「さあな。これまではすぐに捕まって、人間どもに鎖で縛りあげられてた」 「じゃあ、国外で……私が死ねば。あなたは……自由に?」 「自由?」  ギルデロイの内心は懐疑的だった。元のように縛られるのは嫌なようだが、自らにそれが許されるのかと疑念に思っている。不思議だった。彼は誰にも束縛されたくないと思っている。それなのに、不自由であることが当然の報いだとも考えている。複雑な葛藤が触れた温もりから伝わってきた。ギルデロイはまるで、己に罰を与えたがっているみたいだ。 「自由にしてあげる。私は、国外で死ぬから……」 「うるせぇ。寝てろ」  ふん、と鼻を鳴らしたギルデロイは、内心の葛藤をもてあましたように立ち止まり、やがて歩きだした。今は考えても仕方ないと思ったのだろう。細い銀色の月に見下ろされ、そのまま静かに宮殿を離れていく。馬小屋で馬を調達したギルデロイは、眠るナイメリアを抱えるように乗せ、馬を駆る。街からの炎の残り香と、ナイメリアの血の匂い、死の気配が暗い夜道に忍び寄ってくる。それらにぶるりと身を震わせ、腕の中のナイメリアを守るように、ギルデロイは抱えこんだ。  ──どうせすぐに死ぬのに。  これからどうなるかはわからないが、腕の中の温もりが消えるのを、ギルデロイはすこしだけ残念に感じ始めていた。  жжж  遠く、カバルダの港湾都市では、夜闇にひとりの少女の楽器が浮かんでいた。  黒鍵の兵たちがここへ来て、通りすぎざまに不思議な緑光を放った。その直後だった。  楽器の少女は、傷ついたソティルの青年を片腕にぶらさげている。宙づりにされた青年が呻き、必死に自らの楽器の視線をとらえようとする。 「……シエラ……ッ、シエラ…………ッ」  少女の楽器、シエラは、呼びかけには答えず、自らが破壊しつくした港湾都市を見下ろした。その瞳にあるのは燃え滾る怒り。憎しみ、それにありったけの嫌悪だった。歯ぎしりするように、彼女は夜闇に仇敵の名をつぶやいた。 「──ギルデロイッ!」  ──to be continued.
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