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楽舎の中は意外と清潔で、塵ひとつ落ちていなかった。
グランドマエストロが壁にあったレバーを引くと、頭上の明かりとりの窓が自動でひらき、爽やかな春の陽が満ちた。ナイメリアは茫然と立ちつくした。目の前にずらりと「楽器」が並んでいた。多くは焦げ茶色の木製で、ひとつずつ透明なケースに入れられている。壁際にケースがずらりと並び、部屋の中央にもケースの陳列棚がある。背後でグランドマエストロが扉を閉め、棚から分厚い本を取り出した。
「こちらには、わが国に現存するすべての楽器が集められております。いずれも代々継がれし名器ばかりです。……ああ、ヘロイは、グランティーヌ様のおそばにまだおりますが」
慌てたように足された言葉に振り向くと、グランドマエストロは奥のほうにある空っぽのケースを見つめていた。そちらへ歩き出すと、グランドマエストロが慌てたようにぴったりと後ろをついてくる。
「……私がひとつを選ぶのよね? どれを選べばいい?」
「それは、奏者の方に一任されております」
「どれでもいいの?」
「いずれをお選びになっても、国防に値するだけの火力を得られるでしょう。よろしければ、お目に留まったものについてご説明いたします」
「この鎖は?」
銀色に光る棒状の楽器の前で足をとめる。楽器にはもれなく武骨な鎖が巻きつけられている。銀色の棒状の楽器は壊れやすいのか、繊細そうな小さな鉄鎖で固定されていた。グランドマエストロの声が明るくなる。
「楽器を縛る『契約の鎖』でございます。奏者が血印を与えることで鎖は解かれ、楽器は言うことをきくのです。そちらの楽器はキノスラといって、優美で繊細な音を奏でることができます。戦場ではハチドリのように素早く、小柄ながらも嵐のごとき圧で敵を攪乱します──」
グランドマエストロの言葉は続いていたが、そのまま奥へ進んだ。金色の鉄製の楽器、自分の背より大きな楽器、手のひらに乗るほど小さな楽器もあった。ケースには鉄製のプレートがついていて、楽器の名が記されている。足を止めるたびにグランドマエストロは本を繰り、慌てたように説明した。
「そちらは、アゼリア海戦で業火により敵を撃退した逸品でございます──」
「先々代のハルメリイ皇子が使われた、天使のごとき風を起こす名器で──」
「こちらは、当時ナイメリア様と同じ御歳の、リノー皇女が選ばれた楽器でございます──」
グランドマエストロの声はしだいに焦りを帯びてきた。奥へ歩けば歩くほど、上ずった声になっていく。まるで引き留めようとでもするように、手前のほうにある楽器の長所や武勇伝を誇らしげに語るが、その目は泳ぎ、あからさまにちらちらと、最奥にある空ケースのほうを気にしていた。
「ヘロイはあそこにいたの?」
ついに最奥の空ケースの前に立つと、グランドマエストロは諦めたように肩を落とした。
「いいえ、ヘロイはあちらにおりました」
左手の最奥にもうひとつ空のケースがある。
「じゃあ、ここには何が……?」
空ケースのプレートには「ギルデロイ」と名前があった。本を繰りもせず、グランドマエストロは首をふる。
「わからないのです。私がこの職を引き継いだときにはもう、いくつかのケースは空になっておりました。戦場で壊れたのか、失われてしまったのか……」
言われてみれば、ちらほらと空のケースがある。ヘロイがいたという場所以外にも、五つほどが空になっていた。そのとき、空ケースの左横にある楽器に目を奪われた。それは優美な飴色の木製楽器で、シルエットは数字の八に似ていた。中央に白い糸が何本か張られ、陽の光を浴びて堂々と輝いている。大きさは子供の片腕くらいだ。
「この楽器は?」
「……礼儀正しく穏やかな楽器です。名をフロイデ。火力はあります」
咎めるような声に振り向くと、グランドマエストロは複雑そうな表情だった。それを見て、ついため息が出そうになる。
「はっきり言ってほしいんだけど。このあたりの楽器を選ぶべきではないの?」
「いいえ。楽器を選ぶ権利は、奏者に一任されております」
グランドマエストロは目を伏せた。彼は明らかに、入り口に近い楽器を勧めたがっている。けれどどの楽器を選ぶかは、皇族以外には口をさし挟めない事柄のようだ。なにか助言があるならぜひ聞きたかったが、いくら問いただしたところで、グランドマエストロは教えてくれないだろう。一度楽器を選んでしまうと、死ぬまでその楽器を扱うことになる。相性が悪い楽器を選び、戦場でうまく立ち回れなかったとしても、それはグランドマエストロのせいではない。皇族の責任になる。皇族の死因になりかねないようなことに、口を挟みたくはないのだろう。
視線を落とし、「フロイデ」と記された鉄のプレートを見る。もう一度、ケースの中の楽器を見た。この楽器にどんな謂われがあるのか知らないが、純粋にこの美しい器物が奏でる音を聞いてみたくなった。
「……いいわ。これにする」
グランドマエストロは諦めたように頷き、フロイデのケースを開けた。台座ごと楽器を引き出し、鎖の上に手を乗せるように告げる。
「最初に申し上げておきますが、すこしチクリとするかもしれません。手のひらをこちらへ……そうです。そのまま、鎖にぴったりと押し当ててください」
銀色の武骨な鎖に右手を押しつけた瞬間、手のひらを激痛が走った。チクリとするどころではない。焼きごてを当てられたような痛みで、思わず悲鳴をあげそうになる。手を離そうとしたが、意志に反して手は動かせなかった。代わりに楽器に巻きついていた銀鎖が音をたてて外れ、それが首から肩にかけて巻きついてくる。重く頑丈な鎖のネックレスを首からかけられた状態になり、思わずたたらを踏んだ。両肩を大人につかまれ、ゆすられているような重さだった。目の前で楽器がまぶしく輝きはじめる。輝きに目を細め、ひらいたときには、楽器の姿は消えていた。代わりに、空ケースの横に同じ歳ぐらいの少年が立っていた。
思わずはっとするほど美しい少年だった。
灰色の猫毛や白い肌は珍しくないが、ゆっくりと開かれた瞳は、まれにみるアメジスト色をしていた。長いまつげの縁取りが、ぼんやりと上下する。つらい夢を見て、今まさに目覚めたばかりのような顔をしていた。その瞳にはまだ生々しい悲しみと嘆きがくすぶっている。少年はぼんやりと瞬き、こちらを見た。アメジストの瞳から涙の粒が膨れあがり、音もなく垂れたとき、不思議と胸をつき刺されたような悲しみをおぼえた。なぜか、こんな風に彼を悲しませたくなかった。その輝く瞳から涙が零れるところを見たくない──彼を悲しませる物や世界があるなら、それらすべてが間違っている。そう思えたのだ。目の前の少年はそれほど神々しく、優美な工芸品のように美しかった。「これは守るべきものだ」と庇護欲をかきたてられる。
その涙の理由を聞こうとした。少年に近づこうとして……目の前が薄暗くなった。自分の体が傾き、前に倒れている。少年の白いシャツにかけられた武骨な鎖が、どんどん近づいてくる。
「ナイメリア様っ!?」
グランドマエストロの慌てた声が聞こえたが、意識はそこで途切れた。
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