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4
長兄のアルケリスが呼びにきたのは、それからすぐのことだった。
「気分はどうだ? 急に倒れたと聞いたから」
「兄上」
とっさに身を起こそうとしたが、うまくいかなかった。アルケリスは、そばに控えている少年──楽器のフロイデを見ると顔を強張らせたが、すぐにそばへ歩いてきた。兄は慎重に、フロイデとは距離をあけている。
「お前が大変なときに無理をさせたくはないが……ソティルが、お前に会いたがっている」
「私に、ですか?」
「会えるのは、これが最期になるだろう」
「わかりました。行きます」
そうは言ったものの、体が重く持ち上がらなかった。とっさに助け起こそうとしてくれた兄の手を、驚いたことにフロイデが払いのけた。それも叩き落とすようなはねのけ方で、兄がぎょっとしている。兄に対するフロイデの声は冷ややかだった。
「私が介助します」
「ッ、お前、楽器の分際で──」
兄は続く言葉をこらえたが、今にもフロイデを絞め殺しそうな目つきだった。フロイデは気にする風もなく、気づかわしそうに紫の瞳を向けてくる。
「立てますか?」
「だ、大丈夫。片腕を、支えてくれるなら」
貧血のときのように、地に足をつけるとぐらぐらした。両肩に支えきれない重みがあり、一歩踏み出すだけでふらついてしまう。フロイデが片腕を担ぎ、そばにぴったり寄り添ってくれる。なかば抱えるようにして支えられると、なんとか立つことはできた。よろつく歩みを見た兄が憮然と言う。
「その状態では歩くのも大変だろう。誰か人を呼ぶから──」
「必要ありません。私がおりますから」
答える前にフロイデが答えてしまう。誰かに運んでもらえるなら、ぜひともそうしたかったが、断ってしまったものはしかたない。歩みは恐ろしいほどのろく、支えられてもすこしふらついていた。兄がため息をついたとき、将校のひとりが「失礼します」と部屋にきた。将校は慌てた顔で、両腕に戦術書や資料をどっさり抱えている。……そういえば、兄はいつの間にか赤の軍服姿に着替えている。あまり考えたくはなかったが、国で唯一のソティルが敗走し、ウビガン皇太子が死んだ今、戦況はかなり危うくなっているはずだった。国の跡取りである長兄・アルケリスが戦場に出るような事態は避けなければならないが、そうせざるを得ないのかもしれない。将校と二、三、話した兄は、すまなそうな顔になる。
「行かなければ。本当に大丈夫か?」
頷くと、兄は駆けるように将校とともに消えた。いつも礼儀ただしい兄が、屋内を走る姿なんて見たこともなかった。つま先から恐怖と震えが押し寄せてくる。これからいったいどうなるのだろう。国の戦力は叔母のグランティーヌと、その楽器・ヘロイに頼りきりだった。それが消えた今、この国は無防備な都市の数々を、百万の敵刃の前にさらしている。フロイデが支える手にぐっと力をこめた。
「なにもかもうまくいきます。私がお守りしますから」
廊下を一歩ずつ進んでいった。叔母のグランティーヌの部屋は、廊下のつきあたりにある。フロイデの紫の瞳に、同じ未来への不安がちらついた気がして微笑んだ。
「ありがとう。私は大丈夫よ」
「もちろんです。敵刃のひとつも、ソティルには届かせません」
「……私があなたをちゃんと扱えるようになれば、この国だってきっと守れる」
「その通りです」
自身の言葉に確信があるわけではなかったが、フロイデはさも当然といった風に頷いている。どこからその自信がわくのだろう? けれど不思議と、堂々とした肯定の声が耳にのこり、勇気がわいてきた。今や自分は神に匹敵する力を手に入れたのだ。訓練をし、戦場へ出さえすればなんとかなるだろう。根拠もないのにそう思えてくる。
歩く廊下の端々には大臣や将校たちがいて、すれ違うたびに恭しく頭を下げてくる。彼らは悲観的な意見を囁いていた。その声はひそめられていたが、しっかりと耳に届いた。
「あれは……ヘロイより重いのでは?」
「重戦闘特化Ⅳ型だそうだ」
「無茶な……」
「ナイメリア様は、なんの訓練もされていないのに……」
「まともに歩けてすらいないではないか。あれでは戦場で役立たん……」
すべての声を押しやるように、叔母の部屋の扉をひらいた。
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