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6
部屋に戻りベッドへ倒れこむと、フロイデが甲斐甲斐しく世話をやいてきた。そばに付き添い、心配そうに何度も様子をたしかめてくる。「大丈夫だから」と告げたが、フロイデはアメジスト色の瞳を悲痛に歪めて、「申し訳ございません」と謝ってばかりだ。しだいに謝られることにうんざりしてきた。
「もう謝らないで」
「はい……」
「どうしてそんなに心配するの?」
初対面なのに、という言外の意を汲み、フロイデは真面目な顔で頷く。
「そうですね。でもなぜか、ソティルのことを自分の片割れのように感じるのです……この鎖のせいかもしれませんが」
自らの首に垂れ下がる武骨な鉄鎖を、フロイデはちらりと見る。鎖の長さは一定ではなく、距離がひらくと伸び、近づけば短くなる。実体のない鎖は不気味だった。今だって、上から押さえつけられるような重さを感じる。けれどこの鎖のおかげで、フロイデが何を考えているのか、心が繋がっているようにわかるのだ。たとえ言葉にされなくても、お互いの感情がじかに伝わる。まるで心と心を鎖で縫い合わせたみたいに──フロイデから向けられるひたむきな親愛は本物だった。嘘偽りのない好意だ。それは肉親に向けるよりは近く、恋人に抱くよりは苛烈な、不思議な愛情とでもいうべきものだ。繋いだ左手に頬をすり寄せ、熱に浮かされたような目でフロイデは言う。
「こうして触れていると、とても心地よいのです。ソティルが幸せなら、私も幸せで……だからお役に立ちたいし、元気でいてほしいと思います。それからもっと──私にじかに触れてもらえればと」
思わず息をのんだ。フロイデの瞳は真剣で、必死に請うような色がみえる。一瞬照れそうになり、すぐに考えを改めた。彼は楽器だ。人間とは性質が異なるし、やましい考えから告げられた言葉ではない。人の手でじかに触れられるのは、楽器にとって必要なことなのだろう。反対の手を苦労して上げ、フロイデの頭に触れてみた。灰色の猫毛はふわふわで、撫ぜると猫のように額をすり寄せてくる。とろんとした瞳からは自分への好意と、触れられたことへの満足が読み取れた。もっとと、ねだるようにフロイデが身を寄せてくる。鼻先が近づきそうな距離になったとき、部屋の扉が勢いよくひらかれた。
「──なにをしている!」
怒りに目をぎらつかせた長兄のアルケリスが、フロイデを乱暴にはねのけた。それは殴り倒すような勢いで、フロイデは派手な音とともに椅子から転げ落ちた。
「我が妹に手を出すとは、楽器の分際で──!」
「兄上!?」
アルケリスは剣を抜いた。完璧に頭に血が上ってしまっている。椅子から転がり落ちたフロイデは、何事もなかったように立ち上がった。どこも怪我はしていないようで、ほっとした。そういえば、楽器の体は人よりも頑丈に作られているという。彼もそうなのだろうか? アルケリスが剣をふりおろそうとしたのを、騒ぎを聞きつけた侍従や将軍たちが必死に止めにきた。
「落ち着いてください! あれは貴重な楽器です!」
「だから何だ!? 奴は私のナイメリアに──」
「出陣となれば必要になります! どうか落ち着いて……!」
出陣。その言葉に、つま先からすうと冷気が這い上がってくる。フロイデがそばにぴっとり寄り添い、不安を和らげるように手をとった。冷静を装おうとしたが、声は震えてしまった。
「出陣、するのですか?」
この状態で。楽器のことを何も知らない、どう扱えばいいかもわからない状態で、今すぐ戦場へ出されるのだろうか。まともに歩けもしないのに、どうやって戦えばいいのだろう? けれど、国を守るためには自分が行くしかない。叔母はすでに死に、敵はすぐそこまで迫ってきている。たとえ犬死にするとしても、役目を果たさなければならない。どれほど恐ろしく、苦痛に満ちた死にざまになるとしても──。
フロイデがその恐怖を感じ取り、びくりと震える。なかば抱きつくように、不安げに寄り添ってくる。心配いらないと、すぐそばで紫色の瞳が光っている。自分のことを絶対に護るという強い決意も伝わってきた。その瞳に頷きを返すと、アルケリスが長くため息をついた。兄は一気に力が抜けたように、ベッドの端に悄然と座った。
「その必要はない。それを伝えにきたんだ」
アルケリスは恨めしげにフロイデを睨んでいる。兄の顔には「今すぐフロイデを斬り殺したい」と書いてあったが、とりあえずは握った剣をおろしてくれた。
「敵が引き上げたんだ。理由はわからないが……今すぐ出陣ということにはならないだろう。お前には、これからも苦労をかけるが」
兄がねぎらうように伸ばした手を、フロイデが横から叩き落とした。
「触らないでください」
「ッ、お前──!」
兄が立ち上がり、お付きの者たちがまた騒ぎ出し、フロイデが冷ややかにそれを眺める。その横で、魂が抜けそうなほどほっとして、思わずその場に倒れそうになった。助かった──敵は首都ぎりぎりまで攻めこんできたのに、なぜか一斉に兵を引いた。とても不可解で、異常な動きだ。
不気味なことに、それからの一年、敵が再び攻め入ってくることはなかった。その間、ただの一兵たりとも、国境付近にすら敵兵の姿を見たものはいなかった。
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