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 ──こんなはずじゃなかった。ナイメリアはそう思った。  妹のミラと薔薇園で午後のお茶を楽しんでいたときだ。青ざめた顔のグランドマエストロが走ってきて、息も絶え絶えに宣告した。 「ソティルが重症を負い、瀕死の状態です。同行のウビガン皇子も戦死されました。ナイメリア様、どうか落ち着いてお聞きください──血統の取り決めにより、あなた様が次代の『ソティル』に任じられました」  春のうららかな薔薇園はそれまで談笑で賑わっていたが、一瞬で静まりかえった。妹のメイも、控えていた執事や侍従も、みんなぽかんとしている。遠くでひばりが鳴き、薔薇の生垣の上を蝶が飛んでいった。白い庭園用のテーブルにはお茶菓子と紅茶が並び、あたりには午後の爽やかな風が流れている。  背後で食器が割れる音がして、ハッとした。ナイメリア付きの侍女が今にも倒れそうな顔で、割れた食器を拾いもせず、喉奥でひきつれたような悲鳴をあげている。ナイメリアが産まれたときから世話してくれている侍女で、両親の次に自分のことを大切に考えてくれる人物だった。即座に動こうとした侍女を、両脇にいた執事と近衛兵が取り押さえた。侍女は金切り声で叫んでいた。 「お逃げください! ナイメリア様……ナイメリア様ッ!」  グランドマエストロの後ろにいた近衛兵が数人駆けてきて、侍女を地面に押さえつけた。茫然とした顔の妹のミラを、侍女たちが慌ててその場から逃がすよう、宮殿のほうへ連れていく。ナイメリアの両脇を近衛兵が取り囲み、グランドマエストロが苦渋を滲ませた声を出した。 「楽舎へお連れします。どうか、ご同行を」  ナイメリアは頷き、よろよろと立ち上がった。拒否権はなかった。ふと立ち止まり、地面に押さえつけられたままの侍女を見やる。不安げに振り向いたグランドマエストロに告げた。 「私が行ったら、離してあげて。気が動転しただけだから」 「かしこまりました。さあ、こちらへ」  グランドマエストロに急かされ、薔薇園を速足で抜ける。現実に起こったことの意味がつかめず、何度かドレスの裾に足をひっかけた。そのたびに助けてくれた近衛兵は、哀れむような瞳をしていた。  ──こんなはずじゃなかった。  繰り返しナイメリアはそう思った。庭園にある池に、近衛兵に囲まれた罪人のような己の姿が映っていた。淡いピンク色のドレスを着た金髪の少女は、紙のような顔色で唇を引き結んでいる。国一番と称えられた美しい緑碧の瞳は、処刑される前のように不安に歪んでいる。そう、処刑だ。まさにその言葉がぴったりだった。ソティルに任じられるのはそういうことだ。  国には国防のための「楽器」と、それを奏でる奏者(ソティル)が、必ずひとり必要とされる。今代のソティルはナイメリアの叔母・グランティーヌがつとめていた。楽器を得たソティルはその負荷から、長くて二十年、短ければ三年で命を落とす。叔母のグランティーヌは素養があり、最大寿命の二十年ぎりぎりまで生きると見込まれていた。それがどうだろう。戦乱のさなかに重症を負い、瀕死だという。ナイメリアが呼ばれたということは、叔母はまず助からないのだ。次にソティルとなるのは、ひとつ上のウビガン兄皇子のはずだった。けれどその兄も、同じ戦場で命を落としたという。  楽舎の前に着くと、入り口の前に重臣や父、長兄皇子のアルケリスが集まっていた。彼らは怒鳴るような声で議論しており、ナイメリアたちの到着に気がついていなかった。父が責めるように話していた。 「制御できなくなったとは、どういうことだ!?」 「詳細はわかりかねますが、どうやら敵の新兵器のようですな。目を灼く緑光の音とともに、グランティーヌ様は苦しみだし、ヘロイは暴走したとみな申しております」  ヘロイは、叔母のグランティーヌが得た楽器の名前だ。重戦闘楽器で、その火力は小国のもつすべての軍隊を一撃で滅すといわれている。ヘロイと叔母のグランティーヌがいれば、どれほど不利な戦場でも負けることはないはずだった。安全な後方にいたウビガン兄皇子が死んでいるのも不可解だ。けれど、父や重臣たちの慌てふためきようをみれば、何か尋常ではないことが起きたのだとわかった。話を遮るように、グランドマエストロがわざとらしく咳ばらいをした。 「ナイメリア様をお連れしました」 「ああ、ナイメリア……!」  長兄皇子のアルケリスがすぐに近寄ってきて、いつものようにぎゅっと抱きしめてくれる。アルケリスは今年十八、母の美貌と父の知性を受け継ぐ、誰もがうっとりするような皇子だ。母ゆずりの濃い紺色の瞳は悲しみに歪み、ナイメリアを慰めるように背をそっとさすってくる。その暖かさに思わず泣きそうになったが、ナイメリアは慌てて言葉をつむいだ。 「本当ですか? ウビガン兄さまが……」 「残念ながら。遺体はすでに回収されている」  悲しみに満ちた声を聞き、震えが走った。ナイメリアの一家は、高貴な身分にしては珍しく仲がよかった。ウビガンはナイメリアより三つ年上の、溌剌とした兄だった。悪戯好きでよくからかわれたが、いつも一緒に遊んでくれたのはこの兄だった。剣の腕にも優れていたし、今回の戦闘でも安全な後方支援に回されたことを「不服だ」とこぼすほどには勇猛だった。誰が死んでもウビガン皇子は死なない──そう揶揄されるほどたくましかった兄が死んだ。いや、それをいうなら、叔母のグランティーヌが瀕死に追い込まれているのも不可解だった。楽器を得たものは神に匹敵するほどの戦闘力を持ち、戦場で命を落とすことはまずない。楽器と奏者がひとりいれば、戦況をいくらでも支配できたはずだ。 「ナイメリア」  険しい顔の父が、開かれていく楽舎の扉のそばで待っていた。兄のアルケリスに後ろから支えられ、ナイメリアは父の前まで歩いていった。 「わかっているな? これは、皇族としての義務なのだ」  ナイメリアは黙って頷いた。ウビガンが死ねば、次の奏者は自分になる。自分が死ねば、妹のミラにその役目が回る。代々、跡継ぎとなる者以外の直系血族が、上から順に奏者の役を負っている。それは幼い頃から教えられてきたことだった──けれど、こんなはずではなかった。ここへ来てもまだ、そう考えていた。自分にその役割が回ってくるまで、少なくともまだ十年以上はあったはずだ。ウビガンは後継者として奏者の勉強を始めていたが、ナイメリアはそれすらまだ受けていなかった。楽器の扱いや曲の知識もなく、そもそも楽器が何たるかも知らない。 「ナイメリア……ッ」  兄のアルケリスが一緒についてこようとして、父に止められていた。楽舎の入り口は暗かった。建物の中はどろつく闇で満たされている。この中に入れるのは、楽器の管理者であるグランドマエストロと奏者だけだ。 「どうぞ、こちらへ」  グランドマエストロがカンテラの灯を手に闇の中へ入っていく。ナイメリアはなかば茫然と、楽舎に足を踏み入れた。
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