ラーメン屋に入り、建物から出てくるまで

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 仕事を終えて彼は駅へ歩いていた。  明日は休暇で、今晩は妻子と相模湖のホテルに宿泊する予定だった。  妻子はすでにホテルに着いており、一足先に相模湖周辺を観光していた。夜、ホテルで合流するのだ。  駅に向かう道の途中、ラーメン屋があった。見覚えのあるラーメン屋だった。  赤のれんの、どこにでもありそうなラーメン屋だった。そのため彼の頭の中で、別のラーメン屋の記憶が呼び起こされ、イメージが重なっただけかもしれない。  空腹だったし、時間はじゅうぶんあったので、彼は赤のれんをくぐった。  カウンターの空いている席へ着こうとした。とたん、 「うちは食券が先だよ!」と、対面の厨房の店員に叱られた。厨房の奥では、白い割烹着を着た数人の若者が働いていた。  彼は券売機で醤油ラーメンの食券を買い、店員へ渡した。カウンター席でしばし待った。 「へいお待ち!」  店員がカウンターの上へラーメンを差し出した。  なんとなく気まずかったので、彼はラーメンを持って奥のテーブル席へ向かった。  テーブル席はいくつか空いていた。質素なスチール製のテーブルで、表面が薄いピンク色だった。白いプラスチックの皿の上に、調味料やつま楊枝が置かれていた。椅子はパイプ椅子だった。  彼は真ん中あたりのテーブル席に着こうとした。  つまずいた。ラーメンを落とした。麺とスープが床へ散乱した。  彼がまず一番最初に思ったことは、もったいない、ではなかった。恥ずかしい、でもなかった。叱られる、だった。  皿は割れていなかった。彼は皿をテーブルの上に置いた。それから床へ膝をつき、散乱した麺とスープをなんとかしようとした。なんともできなかった。  さっきの店員がバケツと雑巾を持ってやってきた。店員は手早く、力強く、黙々と掃除をして、また厨房へ戻っていった。  彼はテーブル席に着いた。皿の底には、わずかに麺とスープが残っていた。ラーメン屋の醤油ラーメンの香りがした。  彼は割り箸を割った。れんげでスープをすくい、改めて香りをかいだ。ラーメン屋の醤油ラーメンの香りにほかならなかった。彼は一気に平らげた。  ここ数年間、彼はこの香りの正体を知りたいと思って、自分なりに追い求めてきた。  彼が求める醤油ラーメンの香りは、鶏がらの香りではなかった。豚骨の香りでもなかった。豚の背脂の香りでもなかった。醤油や麺そのものの香りでもなかった。  彼は子供の頃、出前で醤油ラーメンをとってもらった。ラーメンは、ラップで蓋がしてあった。そのラップをはがしたときに、ふわっと、なんともいえないよい香りが立ち込めた。彼はその香りが忘れられなかった。彼が求める香りは、そのときの香りだった。  彼はその香りの正体をつきとめたかった。なぜなら、その香りのするラーメンを、自分で作れるようになりたかったからだ。もし作れるようになったら、彼はもう、ラーメン屋で醤油ラーメンを注文することはないだろう。  彼はラーメン屋を出た。左手に庭があった。彼は勝手にラーメン屋の庭と判断した。  庭は木々に囲まれ、薄暗かった。赤い土の地面を落ち葉が薄く覆っていた。秋の山道のような庭だった。  小さな女の子が走り回っていた。その後を母親らしき女が追いかけていた。  彼はトイレに行きたくなった。ラーメン屋に戻ろうと思ったが、嫌だったからやめた。  彼はトイレを探して庭の斜面を下っていった。道路に出た。  古い鉄筋の三階建ての建物があった。見覚えのある建物だった。記憶は曖昧だったが、以前一度、この建物の中に入って、トイレを探したことがあったような気がした。そのときは確か、建物の中にトイレはなかった。  ただ、ラーメン屋を見たときと同じく、どこにでもありそうな建物だから、彼の頭の中で、別の建物の記憶が呼び起こされ、イメージが重なっただけかもしれない。  だとしたら、この建物は、彼の記憶にあるものとは全く別の建物なのだから、中にトイレがある可能性はある。  しかし、もし彼の記憶に間違いがなかったら、この建物の中にトイレはない。中に入ってトイレを探す意味はない。  しかし、もしかしたら、当時の捜索において、トイレを見逃したのかもしれない。もう一度探してみたら、トイレが見つかるかもしれない。そういう意味では、中に入って確認する価値はあった。  しかし、この建物が本当に、以前彼がトイレを探したことのある建物だったとしたら、二度も探すのは、いかがなものだろう。二度も探して、トイレがなかったときの徒労感は、味わいたくないものだった。 「何かお探しですか?」  女が話しかけてきた。小さな女の子を連れていた。さっきの母親だった。  女は、彼の左手の薬指の指輪をちらっと見た。  女は彼に、それをわざと悟らせたのだと彼は思った。でなければ、それは彼が気がつけるはずもないことだ。  女は、彼のような優柔不断な男を放っておけず、本能的に面倒を見たくなるタイプの人に彼には思えた。  とはいえ、女の場合に限っては、優柔不断な男なら、節操なく、誰でも放っておけないというわけではなく、その対象は、彼一人に限定されているように思えた。  もし彼が、今後女とある程度同じ時間を共有する運命であるとしたら、間違いなく恋に落ちるだろう。 「トイレを探しているんです」彼はいった。 「トイレなら、ビルの中にあるけど」女はいった。  なんてことだ、と彼は思った。女は彼よりも年下であることは明白だった。おそらく十は年下だろう。女にとっても、彼が年上であることは明白だった。  女は少なくとも彼の一世代年下であるにも関わらず、二言目にはタメ語となった。その理由を、彼は考えた。  女は焦っているのではないか。焦って、半ばやけになって、彼との距離を縮めようとしているのではないか。  そんなことをしても、二人の関係はどうにもならない。彼には妻と子がいる。女にもおそらく夫と子がいる。お互いに、どうにもならない関係なのだ。  彼の左手の薬指の指輪を自分が見たことを、わざと彼に悟らせたからには、そんなことは、当然、女にもわかっているはずだ。  女の言動には、理由なんてないのかもしれない、と彼は思った。女の言動は、生命の純粋な先端であり、うってつけの理由をいい当てたとしても、それはきっと後付けの飾り物にしかならないのだ。  彼は母子とビルの中へ入った。二階へ登った。壁も階段も寂れていた。中に入ってわかった。紛れもなく、彼の記憶にある建物だった。  二階の階段の踊り場で、若者たちがスプレーで壁に落書きをしていた。若者たちは、ついさっきまで、ラーメン屋の厨房で働いていた若者たちだった。若者たちは、彼と母子に目もくれなかった。  踊り場にトイレがあった。こんなにわかりにくいところに、と彼は心の中で悪態をついた。それが言い訳に過ぎないことは、もちろんわかっていた。  男子用トイレが一つと、男女兼用トイレが一つあった。男子用一つと、女子用一つではなかった。なぜなら、男子用は立ち便器であり、男女兼用は座り便器であるからだと、彼は勝手に結論付けた。  どちらも扉が締まり、ドアノブの表示が使用中となっていた。  男女兼用から、男が出てきて、去っていった。 「どうぞ」と彼は女に先を譲った。  女は娘を連れて男女兼用に入り、扉を閉めた。  女に遠慮や恥じらいはなかった。彼と女は、男女という意味では、どうにもならない間柄だというのに、女は一方的に、彼になんの許可もなく、彼との距離をゼロにした。女は彼を全面的に受け入れたことを、わざと彼に示したのだ。彼は恋に落ちた。 「逃げろ!」壁に落書きをしていた若者の一人が叫んだ。  踊り場に隣接しているインドカレー屋から、太ったインド人のシェフが、幅広の菜切り包丁を持って現れた。 「水を節約しているのに!」  インド人シェフは怒鳴った。  彼は若者たちと走って逃げた。外へ出た。インド人シェフは追いかけてこなかった。  彼は母子が心配になった。しかし、相模湖へ行くため、駅へ歩き出した。  ラーメン屋に入り、建物から出てくるまでの間に起こった一連の出来事は、彼には無理だった。
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