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退会届
『ピッツ、ピッピー』大きなホイッスル音が聞こえた。驚いた私だ。
高さ2メートル程の見張り台の上で係員がこちらに向かって何やらてジェスチャーを発信している。
(えっつ、私がロープを引っ張っている行為への注意喚起だったの?)
私は「すいません」と声に出して謝罪したかったが、とても恥ずかしくて出来なかった。だから彼の真似をして私もジェスチャーで謝罪を送った。
このまま歩き続けては却って腰を痛めることになると判断、私は今日泳ぐのを諦めた。
プーリサイドでの居場所を失った私はいつものようにシャワーで塩素を洗い落とした後、採暖室で体を乾かしていた。
ここにはめったに人は来ない。このプールで私が唯一リラックス出来るところでもある。ところが今日の私はいつものルーティンがままならないようだ。
(めずらしくこの日はドアが開く音がした、大柄の60歳ぐらいの男だ、最初の一分間は大人しくしていたが、大人しいのもこれまでだった。
タオルをベンチに敷き揃えるとその上に背中を乗せ、あおむけに寝るのかなと御神酒や腰を曲げるやいなや両足首を天井に向け左右交互にピストン駆動を始めた。まるで空中で逆さの自転車を漕ぐような運動だ。採暖室でのストレッチは禁止されているはずなのに)
周りの人たちの多くが利己主義に思えた瞬間だ。またそれを悪びれることなく楽しんでいるかのようにも観えたプールサイドだった。
呆れた私は採暖室から逃げるようにして浴場に滑り込んでいた。
洗い場では幸運にも一つだけ空いている椅子に座ることが出来た。足元にはボディソープとリンス&シャンプーが用意されている。
(よかった・・もし浴室まで椅子取りゲームだとすれば、それこそシャレにならない)
鏡に映る背中越しの湯船を覗き見し、私はその混み具合を注視しながらお湯の蛇口をひねった。
「あれ⁉ 出ない? お湯が出ない!」
「あぁ、その蛇口、何日か前から壊れてるようだね、俺もこの前引っ掛かっちゃってさ、お互い運が悪かったようだね」
(左隣のメンバーさんが話しかけてくれたから納得したものの、何日も前からなら『故障中』の張り紙ぐらいできないのかね)
私はこの日の帰りフロントに声をかけた。浴室の壊れた蛇口のことじゃない。
「すみません、誰かいませんか?」
「はい、お待たせしました」
「あの~、退会届って印鑑とかいるんですかね?」
「退会・・ですよね? いいえ印鑑がなくてもスマホから手続きできますので、今お持ちでしたらご説明しましょうか?」
「ぃ・・いや、私しガラ携ですので、えぇ、もう結構です」
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