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腫れ物を潰す
目の前に曝け出された、欲にまみれた腫れた男根。
自分のズボンと下着は下ろされ、弱々しい下半身が丸出しに。
口はガムテープで塞がれて、両の手首は獣に強引に押さえつけられている。
何もかもが知らないことだったけど、これから何をされるのかは何故か鮮明に分かった。
どくんどくんどくん。
本能的な恐怖が体中を駆け巡る。パニックで頭の中が真っ白なのにいっぱいになって、どうしようもなくて。自分の中の何かが壊された。
あの日のことは、今でもよく覚えている。
「ありがとうございましたー」
ありがとうと言わない客を無表情に見送る。三十歳になった俺は、コンビニの冴えないアルバイトとして燻る日々を送っていた。もうこんな生活を続けて何年になるだろう。俺は頬を掻いた。力加減を間違えて、腫れ物にできたかさぶたを剥いでしまう。頬から血が出てきて、爪の間が赤く染まった。
「小鳥遊(たかなし)君」
不意に、隣のレジに立っていた店長に声をかけられる。無言でその方向を見やると、店長は俺に嫌味を言ってきた。
「あのね、いい加減笑顔くらい身につけなさいよ。このバイト何年目? ずっと真顔のまんまで、愛想がないよ、君」
「……すいません」
「あと、仕事中に顔を掻く癖はやめなさい。不衛生だ」
「はあ……」
形式ばかりに俺は頭を下げる。店長はそれを見てあからさまなため息をつき、裏へと引っ込んでいった。この程度の小言や大抵のクレーマー相手なら、俺はもう何も感じない。感情なんて、あるだけ生きづらい人類の欠陥だ。
そんなことを思いながらレジの前で客を待っていると、コンビニの自動ドアが開く。
いらっしゃいませー。
そう言おうとした。
「あの、すいません!」
だが、小柄で可愛らしい女性客が先手を打って俺に話しかけてくる。その表情は緊張がありありと出ていて、少しは隠しなよ、と思ってしまうほどだ。
「はい」
「私、アルバイトの面接に来た豊島(とよしま)って言うんですけど、店長さんいらっしゃいますか!」
おまけにこの大きな声。これでは俺が呼ぶまでもなく、裏から店長がやってくるだろう。俺が予想した通り、裏に引っ込んでいた店長がすぐに戻ってきた。
「ああ、面接の豊島さんだね」
「はい! よろしくお願いします!」
ビシッとお辞儀をする豊島さんを見て、店長は「ははは」と笑った。
「元気がいいね。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。じゃあ、こちらにどうぞ」
「はい! 失礼します!」
ひょこひょこ、という擬音がつきそうな足取りで彼女は裏へと入っていった。店長はそれを可愛らしい物を見守る優しい目で眺めると、今度は俺に生ぬるい視線を送る。
「ちょっと面接してくるから、レジよろしく」
「分かりました」
ばたん。
バックヤードの扉が閉められた。俺は頬の傷をいじりながら、レジ業務に戻る。
これが、俺と豊島さんの出会いだった。
元気が良くて愛想も良い豊島さんは店長に気に入られ、すぐに俺と働き始めることになった。
「豊島って言います。これからよろしくお願いします、小鳥遊さん! ふふ、小鳥遊さんの名字って、鳥さんが遊んでいるみたいで可愛いですね!」
「はあ……どうも」
この娘はどうも調子が狂う。この娘は俺の無表情っぷりに文句を言うこともなく、愛想と感情を振りまく。くるくると変わる表情は愛らしく、彼女は瞬く間に職場の看板娘となった。
そんなに感情的に生きて、しんどくないんだろうか。
そう思って、彼女にこう聞いてみた。
「何でそんなに感情に正直なの?」
豊島さんはきょとん、と俺を見る。
「何で、ですか? うーん。よく分からないけど、そう感じたから、ですかね?」
「そう感じたから……」
「逆に、小鳥遊さんはいつも無表情ですよね。何だか、生きてないみたい」
「はあ……」
「何でいつも無表情なんですか?」
そう聞かれて、俺は頬の腫れ物を引っ掻く。あの日以来、俺の中の何かは壊れてしまった。喜怒哀楽、どの感情もすぐに溢れてパニックを起こしてしまう。だから、俺は感情を殺して生きてきた。心を動かすものはとことん避けてきた。そうするしかなかった。
俺が応えないでいると、豊島さんは不思議そうに首を傾げる。でも、すぐに客が来たことに気づいて「いらっしゃいませ!」とレジに戻ってしまった。その背中は、俺にはあまりにも眩しすぎた。
こんな俺にも笑顔を向けてくれて、自分に正直に生きる豊島さんに、俺は少しずつ憧れを抱き始めていた。どんな人にも優しく、どんな人からも愛される。そんな豊島さんは、俺にとっての光だ。少しでもいいから、この人に近づきたい。
そう思った俺は、まず笑顔の練習をすることにした。毎朝毎晩、鏡の前で腫れ物とシミにまみれた顔を動かす。俺にしては、なかなかの笑顔になったんじゃないか。職場で練習した成果を出すと、店長がぎょっとした顔で俺を見るのでおかしかった。
次に、映画を観る習慣をつけてみた。さすがに映画館でパニックを起こすわけにはいかないから、レンタルビデオ屋で借りた物を家で観るだけだったが。小さなテレビの画面でも、俺の感情を揺さぶるには十分すぎた。時には感情が溢れて、涙が止まらなくなった。過呼吸を起こした。それでも、俺は映画を観るのを止めなかった。俺の中の何かが痛めつけられながらも、少しずつ、金継ぎのように形を取り戻していくのを感じた。
そんな日々を過ごしていると、日常の中で徐々に感情を覚え始めた自分に気づいた。何ともなかった店長の小言やクレーマーにいらつく。面倒くさい業務に億劫さを感じる。豊島さんの笑顔に、心臓がどきっと跳ねる。彼女の胸の膨らみに、つい目が行く。
俺は、豊島さんに恋をした。
そのことを自覚したのは、彼女が夢に出てくるようになってから。俺は豊島さんを夢の中で押し倒し、押さえつけている。彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、笑顔で俺を受け入れるのだ。
恋をして、世界が色を取り戻したかのように思えた。辛い過去も乗り越えられる気がした。きっとこれは、俺の人生をやり直すチャンスなんだ。俺はそう信じて疑わなかった。
豊島さんに告白しよう。
彼女に過去を打ち明けよう。
そして、俺も幸せになろう。
覚悟を決めた俺は、バイト終わりに豊島さんに声をかけた。
「あの、豊島さん」
「小鳥遊さん! お疲れ様です!」
「お疲れ様。あの、今、時間いいかな?」
「? はい、業務のことですか?」
「えっと、そうじゃないんだ。その……」
どくんどくんどくん。
鼓動がうるさい。しんどい。でも、どこか心地よい。きっと俺の人生は変わる。
これは、神様がくれた大きな試練なんだ。
俺は頬の腫れ物を引っ掻きながらカラカラに乾いた口を必死に動かし、何とか言葉を紡ぎ出す。
「俺……昔誘拐されて、犯人にレイプされたんだ」
「……え?」
「それ以来感情が上手く扱えなくて、ずっと心を殺して生きてきたんだけど、でも豊島さんが笑顔を向けてくれて俺も頑張らなきゃってなって、笑顔の練習とか映画を観るようになって、それで気づいたら豊島さんのことが好きになってて、つい目で追っちゃってて……えっと、だからその、俺、豊島さんのことが好きで……俺と、つつ、付き合ってください……!」
……やった。言えた!
俺の中に、これ以上ない達成感が生まれた。満たされた感覚。とんでもない多幸感に、俺の頭は溶けてしまいそうだった。表情筋がだらしなく緩む。彼女は今、どんな表情をしてるだろう。俺は顔を上げて、豊島さんの姿を見た。……見た。
「えっと……」
硬直。
豊島さんの表情は、今まで見たことないくらいに引きつっていて、その瞳はこれ以上なく汚物を見るそれだった。
俺は、何が起きているのか理解できなかった。
「と、豊島さん……?」
俺が一歩進み出ると、彼女は一歩後ずさる。その視線はちらちらと出口の方をうかがう。彼女は青ざめた顔で、口をわなわなと震えさせた。
「あの……そういうの急に言われても、困ります……。それに、みんなに笑顔で接するのは普通のことだし……正直、無理です」
正直な彼女からの、正直な拒絶。
汚らしい物を怖がる彼女の目の奥には、あの日の俺が感じたのと同じ恐怖の色が見えた。
ばたん!
豊島さんは愕然とする俺の隙をついて、出口から逃げていく。
俺から、逃げていく。
「……ああああ」
喉から勝手に呻き声が出てくる。
俺は顔を掻きむしり、腫れ物を潰しまくった。爪が、顔が、血と膿で汚れていく。自分がどうしようもなく汚いものに思えて、俺はその場にうずくまった。
ああ、また、あの日のパニックがやってくる。
腫れ物を潰す 完
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