沖田総司寺町上がる

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沖田総司寺町上がる

三条小橋を渡って、人並みで溢れる河原町通りを横切って寺町通りに出る。 洛中を御所に向かって上がる時はこちらの方が顔を刺すこともなく、早く首尾良く行ける。何かと槍玉に挙げられがちの今の新撰組だから何事にもあまり目立たぬようにとお上からのお達しも出ているようなので。 ただ怖れられ訝しげに見られるのは一部のはねっ返りの一派だけで本筋の 近藤土方派に限っては京の町衆とは比較的良好な関係は保てている。 町を歩けばにこやかな笑顔が返ってくるし童たちも声を掛ければ寄ってくる 人斬り集団と呼ばれる新撰組も個々の生活を覗き見れば、さほど狂気の世界を生きている訳ではない。 もちろん太平の徳川の世をここまで生きてきたお侍や町衆にしたら 毎日人を斬ってる集団をまともな目で見れないのは道理。 日々血糊の付いた刀を手入れしてる仲間たちを見るとこちらだって嫌になる時がある。それでも新撰組は人を斬らなくちゃならない。 世が変わる時は必ず血が流れる。 それは悪い血だ。 刃を交えた命のやり取りの中で今新撰組は生きてる。 流れる血でこの日の本はちゃんとした世の中に変わってゆくなら いくらでも斬ってやる、そういうつもりで私は日々を生きてる。 沖田総司は笑って人を斬れる、 洛中洛外ではお尋ね者でもないのにそんな文言を刷り込んだ人相書が出回っているらしい。 「確かにな」 それを見聞きして近藤さんは鼻で笑ったけど自身には一度たりともそんな記憶はない。 斬って菩薩様に手を合わす、心の中で唱えるそんな想いが表情に浮かぶだけなんだろう。 「沖田はん、今日はなんえ?仏頂面で腕組んで。なんか訳ありかい?」 寺町御池にある松扇堂は宮中への御用達も務めるお香の老舗だ。 元々、集中を高めたり心を沈める働きがあるので、合戦前に侍が好んで使ったと言われるお香。それに擬えて新撰組でも見回りや御用改めの前には士気を高める為に用いるようになった。特に生きるか死ぬかの死番の者には死も厭わない強い高揚感がわき出てくるので必須になった。 また怪我などの痛みを和らげてくれるので薬にもなった。 「ひどいなお松さん、久しぶりに来たのに随分な言われ方ですね」 女将のお松さんは室町時代から続く寺町松扇堂の14代目当主。 13代目の亭主に嫁いで間もなく生き別れて、その流れですんなり次代の当主に収まった。まだ三十路前で器量もよく商売の才覚にも長けて洛中の大店界隈ではも知らぬ者はいないほどの名物女将だ。 「それが近頃は何か気がもやもやして夢見が良くなくて、枕元に香の一つでも置けば癒やされるんじゃないかと思って……」 「おやおや、夢見の難儀でお香をご所望って、ほほほっ。 ほんにどこぞの御陵はんみたいなお侍さんやこと」 まるで春の野に響く鶯のような笑い声につられて、傍らに侍る手代や丁稚までが 相好を崩す。女将のお松の笑顔一つで店の中が花が咲いた様になる。 不思議な人だと思う。 「お香もよろしおすけど、それやったら薬種問屋でお薬を調合してもらわはったらどうえ?」 「薬ですか?香じゃだめなんですか?」 「へぇ。お香は贅沢品どす。気分を高めて紛らわすだけ。お体の調子を整えるんやったら、お薬には勝てしまへん」 薬が嫌だからわざわざ寺町界隈まであがってきてるとは流石に面と向かっては言えず、 「じゃあそうしますけど、相変わらず商売っ気のない、お松さんだなぁ 買うって言ってるのにやめとけって…」 「へぇ。人を見んのもお商売だっさかい。お香であれ何であれお客さんに見合ったものをお勧めするそれが松扇堂の室町時代からの習わしどす」 香は値が高くて、日に売れる数もたかが知れてる。だから贔屓の客は大切にする 何十年、子々孫々まで可愛がって貰わないと商売は成り立たない。 別に媚びてるんじゃなく、それを嫌味なくさらりとこなすこの人はやっぱり凄い訳で。 京の街に粋という言葉は似合わないが、この人に限っては江戸の粋と京の艶っぽさを両方兼ね備えてるように思えてならない。 「お薬やったら、ちょうどお向かいに近頃評判の薬種問屋がありますよって ご紹介しまひょか?」 「向かいにですか?」 「へぇ。斜向かいに。ほら、見えまっしゃろ」 きびすを返して掌を上に表を指し示すと雪のような白い腕が露わになった。 視線がしばし止まったものの、その掌の先を追うと瓢箪の形を模した看板が目に入った。 朱色で刻まれた文字は天方屋と書かれていた……。
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