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辛い思い?
そうだ。僕は辛かった。
石のように固く動かない子供の亡骸を見て。半狂乱で泣き叫ぶ妻を見て。
それからどんどん、本当に壊れてゆく妻を見て。
僕は妻が流産する迄の、楽しかった日々を思い出した。
「子供が出来たの」と、内緒話を打ち明けるように、はにかんだ笑顔で告白した妻を。
まだお腹も膨らんでいないのに、二人でベビー用品を買いに行った事を。
僕の両親も妻の両親も、足しげく家を訪ねて来ては、その度に子供のオモチャを買って来るものだから、部屋の中はベビー用品で溢れていた事を。
まだ男の子か女の子かも分からぬうちから、名前は何にするかと、姓名判断の本まで読んで、あれこれ考えていた事を。
なのに結局は、自分達の名前から1字ずつ取ろうと、ありふれた結論に至った事を。
そうだ。女の子なら、妻の優子の”優”と、僕の和希の”希”を取って優希子、男の子なら優希と名付ける筈だった。
「凄く考えた割りに、ありふれた名前になっちゃったな」
決まり悪そうにそう言った僕に、
「いいじゃない。今流行りのキラキラネームなんかにしたら、子供のうちはいいけど、歳取ってから恥ずかしいだろうし…」
優しく希望があるなんて、素敵な名前よ―と、妻は微笑んでいた。なのに。
優希。死んだ子供に名付ける事しか出来なかった名前。
歳を取るどころか、生きて産まれる事すら出来なかった儚い命。
僕の頬を、涙が伝った。
それは後から後から湧いて出て、僕は声を上げて泣いた。
優希が死んでから、一度も泣かなかったのに。
「今迄ずっと、我慢していたんでしょう…?」
今では涙も止まり、完全に落ち着きを取り戻した女が、優しい声で言った。
「悲しむ事を先延ばしにすると、知らず知らずのうちに心はもっと深く傷付いて、壊死してしまうんですよ……。私も…そうでした…。でも……」
女は初めて僕のほうに向き直って、安堵するような笑みを浮かべて言った。
「学校側が、やっと苛めの事実があったと、認めてくれたんです…」
その表情は、雲間にやっと射し込んだ光のように、一筋の晴れやかさを纏っていた。
「1年半、戦いました…。娘の死の真相を明らかにする迄はと、ずっと悲しみを堪え乍ら…。でも、これでやっと、この悲しみも終わりに出来る…中学生になったあの子と会える……」
そう言って女が窓の外を見ると、列車は次の停車駅に差し掛かっていた。
女は手に持っていた傘を握り締めた。
「あの子に…あの子に傘を差してあげなきゃ……」
「五月雨駅ー、五月雨駅ー」
その駅には、蕭々と雨が降っていた。
しっとりと濡れた寂れた駅のホームに、中学生位の制服姿の女の子が立っているのを認めると、女は列車が止まるや否や、ホームへと駆け出して行った。
「茜っ!」
その子の名を叫び乍ら。
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