情緒的なビブラート

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「ちょっと、ユキと飯行ってくるわ」  志恩がそう言ったのは、入梅(にゅうばい)して日も経った長雨の頃。ユキというのは、バンドをしていた頃のドラムの人だ。今そのバンドは、ギターが一人欠けたこともあり活動休止中なのだと一度だけ彼が漏らしていたのを聞いたことがある。その声音にも隠しきれない未練が乗っていたように私には思えたのだが、あえて触れないようにしていた。皆、触れられたくないものの一つや二つあるのは分かっていたから。それでも、私のエゴでこの間はついギターの再開を望んでしまった。その後悔を私はここ数日ずっとしている。謝るタイミングも逃してしまったので、今は冷戦状態と言えるかもしれない。とはいえ生活はいつも通りなので、心の中でお互い引っ掛かっているものを口にしないだけだ。それを”だけ”と言い切れるほどのがさつさを私は持ってはいないのだけれど。 「帰りは遅くなるんでしょ」  私が聞くと、 「どうだろうな。ユキ、結構飲むから帰り読めないけど、寝てていいから」  という言葉が返ってきた。  ユキという人にはLIVEの打ち上げで私も会ったことがある。片方だけ広く刈り上げられた頭は、彼がけして会社員などはしていないんだろうことだけ読み取れた。豪快にお酒を飲み、楽しそうにゲラゲラ笑う姿はロッカーというよりもどちらかというと大学生の飲みサークルを思い出すな、と微笑ましい気持ちになった。もう私には青春する場所などないけれど、この人たちにはそれがあるのだな、とどこか遠い場所にいるような心地にもなった。 「分かったよ。楽しんできてね」  私はそれだけ言った。彼は唇に何度もキスを落として、それから出掛けて行った。一度帰ってきてから出掛けるのは分かっているのだけれど、今日は独りぼっちなのだなと思ったらすこしだけ寂しい気持ちになった。  その夜は、私は本を読んで過ごした。お風呂の中で。昔はよく一人で浴槽で本を読んだものだったが、彼との同棲を機にほとんどしなくなった。それよりも早く出てきて彼との時間を過ごしたかった。たまにお風呂で読書をするときは、彼のバンド練習の日だけ。それももう一年以上前になるのだから、この習慣の懐かしさを私は感じていた。  湯気と汗でふやける本を、私はそれでもいいと思っていた。売れなければ捨てればいいだけだ。気に入れば本棚の肥やしにすればいい。志恩の音楽に対する姿勢のように、なにかに拘るような性質を私は何一つとして持ち合わせてはいなかったのだ。読書も単なる暇つぶし。あるいは、見識を深める時間にするため。少なくとも成長欲求だけはあるのだろうとは思っていた。自己分析など性に合わないのだけれど。  翌朝、目が覚めると志恩はお酒の匂いを纏わせながら隣で健やかに眠っていた。まだいびきを掻いているが、今日も彼は仕事である。日付を跨ぐ前に私は床に就いたから、きっと午前様になったのだろうと彼の額に軽く掌を滑らせる。あどけない顔で眠る彼を、愛おしく思う。この上なく。
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